無償の証
第七話。
車いすを直してもらったお礼にと、渡に感謝を伝えるために竹下家へ。
追記(2013年8月6日):200PV、100ユニークアクセスをいただきました。
週末、土曜日。午後三時を過ぎようというのに、まだまだ太陽の勢いは止まらない。
明日香は母の車で竹下家へと行くという手段を自ら切り捨てた。理由は簡単。
「『しっかりと直ってます』ということを伝えるんだから、自分一人で行くよ」
その結果がこの暑さだ。病院までの道のりの途中だから迷うはずはなかったが、気温まではどうすることもできない。これでは心配して注意してくれた渡に笑われても言い訳ができない。
商店街の終わりが見え、あとは住宅街を進むのみとなった。
「ちょっと、失敗かな……」
蝉と雑踏で聞こえるはずがない明日香の落胆。膝に抱えた菓子折りも、出来るだけ早くに竹下家へと届けたい。明日香は自らを急かした。
「(あまり遅くなるのも迷惑だ……)」
入るはずがない力を両腕に込め、車いすの車輪を回す。
「あれ、上浦さん?」
「なにっ!?」
あまりの暑さに、咄嗟に掛けられた声に対してグルンと首を回して反応してしまった。目が血走っていたかは分からないが、一秒でも早く到着したい明日香にとって、呼び止められることは正直迷惑であった。
「…………すいません、人違いでした?」
明日香を呼び止めたのは渡だった。商店街にあるスーパーの袋を片手に提げ、引きつった笑顔で明日香を見ていた。そこでやっと自分の反応に気づいた明日香は、効果のない取り繕いを行うのであった。
「た、竹下さん!? あ~……ちょっと考え事をしていたものですから……」
もはや手遅れであるが、渡はカラカラと笑っていた。
「いや、驚きましたよ。ここでばったり会ったこともそうですが、上浦さんの、あの表情には……くくっ…」
『あぁ、止めて』という言葉の代わりに、諦めた明日香は渡の笑いを遮った。
「こんにちは、竹下さん。また会えてうれしいです」
「大袈裟ですよ。ただちょっと、困った時に役に立った男ってだけです」
「(天然だ……)」
明日香はどこからか『お前もだ』という言葉が聞こえたような気がした。
「まさか一人で、しかもあの時と同じように車いすで来るとは思いませんでした。失礼ですが、一人暮らしですか?」
「いいえ、両親と暮らしています。この身体では、一人暮らしは考えただけで恐怖ですから……」
商店街を渡の自宅方向へと離れた。今は渡が明日香の車いすを押して一緒に移動している。これまで誰かに車いすを任せる時は、決まって両親か信頼する友人だけだった。一度直してもらったこともあり、すっかり気を許した明日香は渡の手助けに応じた。
明日香の腕の疲れが癒えたころ、ようやく二人は竹下家へと到着した。
「少し待っていてください。すぐに戻ってきます」
前にも似たような言葉を聞いた気がした。渡は脱兎のごとく自宅へと駆けていき、一瞬だけ明日香が気を抜いたと思えばすぐに戻ってきた。
「お待たせしました、どうぞ」
「はい……あの、押していただけますか?」
渡は弾かれたように明日香の後ろへ回ると、申し訳なさそうに照れ笑いをした。
「(このギクシャクした感じ……。直してもらった時と似てる……)」
幸いなことに明日香の車いすが入れるくらいに玄関は広く、竹下家へと入るのにさほどの苦労はなかった。もし車いすが入れなかったら、俗に言う『お姫様抱っこ』が待っていたかもしれない。
「(何を考えてるんだ、私は。頭ばっかり春じゃん……)」
「取りあえず、移ってもらっても……」
「はい、待っててください……」
明日香は足置きを左右に開いて両足を玄関に置いた。重心を少しずつ前に移動させ、両手を前に大きく突出し、玄関に続く廊下へと手を付いた。後は、身体全体を両足を軸に器用に回転させて重心を落とせば、ストンと尻餅をつけるのである。
「こんなことを言っていいのか……。車いすに慣れている方は器用ですよね?」
「器用と言うか、必要な行動ですから。ずっと車いすに乗ってる訳にもいかないので」
驚く渡に、明日香は両手で菓子折りを渡した。
「遅くなって申し訳ありません。あの時、竹下さんのお蔭で私は無事に帰宅することができました。その後も問題なく車いすは使用しています。本当にありがとうございました」
頭を下げるよりも目を見て。伝わらなくても、相手の耳に届くだけでも。明日香は静かに、優しく言ったのだった。理由は分からないが、目線を一度外して鼻で深呼吸した渡は、小さな笑顔で菓子折りを受け取った。
「問題がないなら良かったです。整備した手前、上浦さんから連絡がない間は少し心配でしたから」
これぞ照れ笑い。渡の片手は自然と後頭部を掻いた。
奥から麦茶を持ってきた渡は明日香に渡した。菓子折りとお礼を言って帰るつもりだったが、もう少し、恩人との会話を楽しみたいと思った明日香は、麦茶を理由に残ることを決意した。
「ところで気になっていたんですけど、竹下さんは学生ですか?」
今まで、『若い』という印象しか持たなかった。別に年齢くらい聞いても罰は当たらないという考えから、思い切った質問である。
「はい、理系の大学に通っています。夏が終われば学部二年の後期が始まります」
「え、学部二年?」
声が裏返ったかもしれない。若いとは思ったが、まさかの学部二年。明日香は学部三年。明日香の方が年上だった。
「失礼ついでにもう一つだけ……。現役ですか?」
「??? えぇ、現役です」
車いすを直してくれて、これまでの落ち着いた対応で、他人を心配する精神的な余裕もあって、明日香より一つだけ年齢は下。明日香は驚きを隠せなかった。
「嘘……、私と同い年か、それより上だと……」
「そうですか?」
「はい……私は学部三年、現役です」
「あ~、こっちはそれほど驚きませんよ?」
「(老けて見られたのか……)」
「いや、何と言いますか。こうやって改めて感謝を示そうとしてくれたり……“大人の対応”って言えば伝わりますか? 上浦さんはそれを忘れてなかったので」
明日香が他人に対して感謝を忘れないのは、言わずもがな。時には迷惑だと思われるくらいに感謝をしないと、いつの日か手を差し伸べてもらえなくなるんじゃないか……そんな気持ちから表れているものだ。
「それは……この足ですから」
言うつもりはなかった。口が滑ったのだ。渡は短い明日香の言葉を聞き逃さなかった。
「……他人が怖いですか、上浦さん?」
「え?」
真剣な渡は明日香には少し、怖かった。しかし、その言葉には気づいたら引き込まれていた。
「他人が怖くて、無理してますね?」
「無理なんてそんな……。助けてもらったら感謝するのは常識だと思ってますから」
「感謝されなくても動く人間はいます」
「……見返りを求めない人なんて、よっぽど出来た人間だと思っています」
「います」
「いません」
「出来てないですけど、手だってマシンオイルで汚れてますけど、います」
ここで明日香は気づいた。渡が『誰』のことを言っているのか。
「……変わった人ですね」
「趣味が人を助けることだってあるんだと、自分でも驚いてるんですから」
麦茶に浸かった氷がカランと小さな音を立てた。
この後の展開がワンパターンになる危険性が高い。さて、どうしたものか……。