レンチと不運
そろそろ本題へと突入します、たぶん。次話あたりから内容にアクセルがかかると思います、たぶん。
追記(2013年7月27日):100PVアクセス、ありがとうございます!
「あら、明日香ちゃん。診察は終わった?」
「ええ……なんとか……」
大学病院の一階フロアに明日香は戻ってきていた。診察、とは言っても大げさなものではないから疲れる原因にはならない。それでも明日香は疲弊していた。
「あの、最近ここでは冗談が流行ってるんですか?」
「冗談? どうしたの急に?」
「いやぁ、さっき五階のフロアで名前を呼ばれた時にぼーっとしてしまって……。反応が遅れたのを『恋の病』だ、って言うんですよ? しかも高橋先生まで……」
「高橋先生も!? あの人も冗談言うんだ……知らなかったわ」
驚いた顔を明日香に向けるが、右手は書類を書き続ける。たしかに高橋は冗談を言う方ではないが、そこまで堅物というわけでもない。
「『恋の病は診察対象外』なんて言うから、私、恥ずかしかったんですよ?」
「あははははは! まぁ、誰にだってあるわよ、ぼーっとするくらいはね」
「そうですよね、私も同じ考えですよ、まったく……」
既に二十歳の明日香には、将来の不安があった。車いすがなければ移動もできない自分は、どんなに小さくても他人の助力が必要だと感じていた。それを大声で言ったことはなく、周囲が気づいた場合の助力に感謝してきただけである。もし、誰も気づかなかったら……。
「それじゃぁ明日香ちゃん、診察お疲れ様。外、まだ暑いみたいだから気を付けるのよ?」
「来るとき大丈夫だったから楽勝です!」
強がりを言って、明日香は思い出した。
「あの、自動ドアだけは修理しておいてもらえますか?」
病院を出るときは受付の人に扉を開けてもらった。どうやら故障中の自動ドア、病院内の関係者が気づいて貼り紙を貼ったところまでは良かったが、修理業者への連絡が行われていなかった。今回の明日香の要望を切っ掛けに分かったことだ。明日香がその後病院を出る直前に、関係者からの謝罪を山ほど受け取ったのは言うまでもない。
大学病院を出ると、季節がらまだ空は明るい。しかし、陽も傾いたのか感じる気温は先ほどより少し低くなった気がした。明日香は両腕に無理な力を入れずに、来た道を戻った。
「……あれ?」
途中、直進するように動かしていたはずの車いすが、だんだんと左に傾いていった。軌道修正のために左車輪を回そうとし、回りはするがいつもより固い感触が手に伝わった。
「(おかしいな……さっきまでこんなことなかったのに……)」
商店街までかなりの距離がある今、このまま蛇行走行していてはいつになったら自宅に着けるか分からない。最悪、商店街の自転車屋に着ければ相談することはできるかもしれない。
「あ……暑い……」
いくら陽が傾いても、まだまだ熱気は残っていた。無理矢理に直進させようとしているためか、身体に変な力が入る。
「(お願いだから、真っ直ぐ進んで……)」
明日香の左腕に疲れが溜まってきた。陽射しを遮る木陰もない今では、病院へと引き返すのは自殺行為だろう。水分補給を考えても、周囲に自動販売機一台も見当たらない。
「(……どうする……無理してでも、商店街まで……)」
絶望を感じ始めた明日香の耳に、アスファルトと軽い金属がぶつかる音が聞こえた。
数分前、明日香が大学病院を出た頃。
「…………」
竹下渡は自宅の前で自慢の原動機付き自転車を磨いていた。午前中にもできたが、暑さを避けるためには午後の陽が傾いた頃が最適な気温で愛車の手入れができると踏んだ。
「…………」
すでにボロボロとなったウェスにクリームポリッシュを付け、タンク部分を念入りに磨いていく。ここ最近、大学が忙しくて乗れていなかったこともあり、渡は我を忘れて磨いていた。
チェーンの汚れにも気づき、一度車庫に戻った。車庫には竹下家の車、渡の父のバイクが保管されている。そのため、渡自身も原付の手入れをするのに不自由がないのだ。専用の汚れ落としとチェーンオイルを取ってくると、早速チェーンの掃除に取り掛かった。陽は傾いてもまだ暑く、額に浮かぶ汗をマシンオイルに気を付けつつ拭う。
「……あっちーなぁー……」
誰ともなしに呟いた一言。返事がないことは分かりきっていた。
慣れてなければ手間取るチェーンの掃除を簡単に済まし、渡は自宅の周囲を一周しようと考えた。
「…………あ」
ウィンカーを取り付けているキャップナットが緩んでいた。これまでの走行中の振動で緩んだようだ。
「えーと、レンチレンチ……」
再び車庫へと舞い戻った渡は、レンチセットを持ってくると、適切なコンビネーションレンチを掴んだ。使わないレンチは原付のシートにまとめて置いた。
「…………」
車体全てのウィンカー留めのナットを確認し、工具セットを片付けようとした。しかし、片足スタンドによって傾いた車体の上で、レンチセットはアスファルトへと落ちてしまった。
「おっと……」
渡の視界の端には、不器用に車いすを操る女性の姿が映った。
「あの……すいません」
「……はい、何ですか?」
吹き出す汗を拭う暇に、明日香は渡に声をかけた。
「実は、その…………使っている車いすが……」
これまで実感できる故障や不便を感じなかった明日香にとって、“車いすが直進できない”ことを上手く伝えることができなかった。頭の中で言葉を模索するも、暑さが思考の邪魔をする。
「その……ですね……」
「とにかくもう少し寄ってください。車が来るかもしれないから」
「は、はい!」
今は使いづらい車いすを頑張って渡の付近まで寄せた。その間渡は、どうして自分に声がかけられたのかを考えていた。
「(俺に用事? 初対面……だよな?)」
「あのっ!」
「え? あぁ、すいません。それで、自分に何か用ですか?」
「はい、実は車いすが直進しなくなってしまったんです。こんなことは初めてで……」
「(なるほどね……。) 小まめに点検してますか?」
「いや、ほとんど点検は行ってないです……、すいません……」
渡は腕時計で時刻を確認した。暗くなるにはまだ早い時間だ。
「もしよろしければ、自分が見ましょうか?」
「お願いできますか?」
渡は整理を始めた工具セットを再び広げた。
「構いませんよ、お困りのようですので。それじゃぁ、一度車いすから降りていただきたいんですが……」
アスファルトに降ろすわけにもいかない。かと言って、家にまで入れるような長時間の整備も考えてない。その時、渡は妙案が浮かんだ。
「お一人で席を移れますか?」
「ええ、移る席が近ければ独りで席を移れます」
「ちょっと待っててください……」
渡は自慢の原付のスタンドを外し、明日香の前に停めた。
「席としては最悪ですが、少しだけ我慢してもらえますか?」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
明日香は普段家で行う動作と同じように腕に力を入れた……はずだった。慣れない動作で左腕を酷使した明日香は、両腕の均等な力で体を持ち上げることができなかった。
「あの、手伝いましょうか?」
「……よろしくお願いします…………」
生暖かい風が二人の間を通り過ぎた。
実は、人間の身体は結構重いです。(談:経験者)




