明日へ渡る幸せの歌
こんにちは、赤依です。
今回の更新にて最終話となります。大変長らくお付き合いいただきまして、ありがとうございます。本編は以下にありますが、最終話らしく普段よりも文字数が多いです。スマートフォンの方にはご迷惑をおかけしますが、お読みいただけるのであれば幸いです。
それでは、後書きにて。
追記(2014年8月3日):2,500PVと800ユニークを超えました。感謝感激!
そろそろ長針が短針に重なろうという時間、渡は目を開いた。枕代わりにしていた腕の先、軽く開いた手の近くで未読メールを知らせるスマートフォンに気が付いた。
「…………」
夜更け前にうたた寝を決め込んでしまった身では機敏に操作はできないが、数秒後には弾かれたように姿勢を正した。
「私の、家……って。冗談だろう?」
文面に語り掛けたところで、返事があるわけではない。しかし、問わずにはいられない気持ちが渡を焦らせた。これまで、車いすの整備を理由に明日香を家に招いたことは幾度かあった。明日香も、通院途中に渡の家があることから、快く訪ねてくれたが、その逆は初めてである。
「待てよ……?」
そもそも、明日香が移動してばかりではなかったか? そんな考えが頭を過った時、先刻に送信したメールの内容を思い出した。
『明日香の移動が極力楽な場所』
頭のどこかで悪いと思っていたのだろう。しかし、照れか、それとも自信の無さか……。渡はこれまで自ら明日香の家に向かう意思を見せてはいなかった。理由はどうであれ、明日香の彼氏として失態である。そこまで考えて、彼氏という言葉に赤面しながら急いで返信の文面を作成した。
「あ、日付が……」
画面の右上に確認した四桁のゼロに、渡の指は止められた。きっと明日香は寝ているだろう。渡は、明日の朝一での返信を心に誓いつつ、緊張の中で目だけを固く閉じた。
八月の最終日。
学生は残る数日間の夏休みを満喫するため、これまでの予定を思い出して、再度の夏休み計画を練り直すころである。社会人から見れば、明日から再び火の車になることは明白なため、自宅で落ち着いた時間を過ごす人もいる。
そんな少しだけ静かになった夏の空気に、明日香は焦っていた。
「それじゃぁ、夕方ご頃に戻ってくるわね。何かあったら連絡してね」
「うん、行ってらっしゃい」
緊張から滑らかに振れない手は小刻みに震え、自然な笑顔が作れない。ここまで何度も母の顔を見ては、渡の存在に気づかれているのではと心配になった。知られでもしたら、何を言われるか想像もつかない。不安の種……と、言っては渡に悪いが、まさに本人を自宅へ呼ぶのだ。細心の注意を保つ必要がある。
ガチャリと玄関の扉を閉める音で意識が切り替わる。これで、この家には私一人だけ……。
「あ、そうそう」
「うわっ!」
「…………どうしたの?」
「なん、でも、ない……。忘れ物?」
「う~ん、物じゃないけど。言い忘れてたことがあってさ」
外から覗かせる斜めの顔に、嫌な予感を覚えた明日香は耳を塞ぎたかった。しかし、片手に握る携帯電話がそれを許さなかった。
「明日香」
「な、なに?」
「反対なんてしないから、自信を持ちなさい。誰の子だと思ってるのよ……。あと、手が震えてるわよ。そんなんじゃ心配されるに決まってるんだから」
『じゃあね』と、静かに扉を閉めた。予想とは正反対の回答を貰った明日香は、喜びの声を上げるタイミングを完全に逃していた。
「ありがとう、お母さん」
遠ざかるエンジン音を合図に、耳を塞ぎたくても放せなかった携帯電話を見つめた。
-=-=-=-=-=-=
<Time> 20XX/08/31 09:05:00
<From> 竹下渡
<To> 上浦明日香
<Subject> Re4:明後日の予定
<Text> 0.3 Kbyte
------------
明日香と家の人さえ良ければ、
お邪魔しようと思う。家の場所
は以前に教えてもらったから
分かるよ。
何時くらいに到着すればいいかな?
-=-=-=-=-=-=
-=-=-=-=-=-=
<Time> 20XX/08/31 09:15:56
<From> 上浦明日香
<To> 竹下渡
<Subject> Re4Re:明後日の予定
<Text> 0.2 Kbyte
------------
十一時半、厳守で。
早くても遅すぎてもダメ。
-=-=-=-=-=-=
-=-=-=-=-=-=
<Time> 20XX/08/31 09:34:10
<From> 竹下渡
<To> 上浦明日香
<Subject> Re4ReRe:明後日の予定
<Text> 0.2 Kbyte
------------
OK
バイクでピッタリ目指して
到着するようにする。
-=-=-=-=-=-=
渡は愛馬を鳴かせた。
数回の空ぶかしを行い、そのまま一分間ほどシートに座る。その間にウィンカーの点灯確認を済ませた。身体に伝わる振動で頭にも血を流し、明日香と話す内容についてまとめた。
自分ばかり話さずに、明日香からも聞かなくては。そう考えながら、渡は足を地面から離した。明日香の家は渡の自宅からバイクで約三十分の位置にある。陽が高くなり始めた頃に出発すれば調度良い。一瞬だけ目配せした腕時計は十一時を指していた。
外からエンジン音が聞こえてくるたび、明日香の身体は強張った。視線は窓越しの道路へと投げられ、あの日に乗った二輪車を探し出す。
「…………大丈夫、落着け……」
またエンジン音が聞こえてきた。今度は音に変化がない。期待を胸に窓まで車いすを移動させ、渡の姿を探した。十時五十七分、期待通りの時間だった。
「渡……」
家の前でヘルメットを脱ぐ渡を確認し、明日香は窓を離れた。部屋の壁に立て掛けてある短い二本の杖を掴み、膝に乗せて玄関へと急いぐ。外からの人影が大きくなる頃には、明日香は自力を杖に込めて立ち上がっていた。インターホンが押されて家中に呼び鈴が鳴り響く。両足が不自由な明日香は片足が自由な状態とは異なり小刻みにしか進めない。二度目の呼び鈴に杖を、足を、気持ちを焦らせ、一歩、また一歩と玄関を進む。
「待ってて……、渡」
三度目の呼び鈴と同時に杖を脇に挟んだ腕の手がノブへと触れた。
「……どちら様、ですか?」
「……渡です」
ゆっくりと開かれるドアにより、明日香の視界には徐々に渡の姿が映っていった。
「……え? どうしたの、杖なんか使って?」
「いや、ちょっとね……。それより上がって」
「それもそうだけど……。って、おい!」
力を込めた手が白くなっていることに気づき、渡は明日香を止めた。
「……車いすは?」
「あっち……」
首だけ後ろを見るように動かす。渡はヘルメットをその場に置き、明日香に尋ねた。
「背中でいいか?」
「うん……、お願い」
そう言って、渡の背中が見えるのを待たずに明日香は倒れこんだ。明日香の背後では、杖が音を立てている。
「明日香……。これじゃぁ、背負えない……」
「待ちきれなくって……」
「…………」
「渡?」
「背中は無理だから、その……」
宙を泳ぐ視線を追い、明日香から渡へ赤面の一言が飛び出した。
「お、お姫様抱っこで、お願い」
「…………」
火山が二つ、気恥ずかしさで噴火した。
十一時十分。
渡に担がれた明日香はすでに車いすへと戻っていた。
「来てくれてありがとう、暑くなかった?」
「風切ってきたからね、それほどでもない」
玄関へ置き去りにしたヘルメットを連れて、再びリビングへと踏み入った。ジロジロと見ては失礼であるが、気になって仕方がない渡は初めての場所にいる好奇心で首を動かした。至って普通の部屋ではあるが、食卓用のテーブルに配置されている椅子に目が留まった。
「明日香。自分を含めて何人家族?」
「え? 三人だけど?」
椅子は一つ。明日香は車いすに乗っているため必要ないのは理解できるが、一つ足りないと渡は感じた。
「このテーブル……。椅子が足りない気がするんだけど?」
「あぁ、そういうことね。私ね、お母さんと二人で暮らしてるの。お父さんは海外で仕事してる。だから椅子は一つ。帰ってきても、ここで食卓を囲めるか怪しいからね」
「なるほどね……」
明日香に促されてキッチンに置いてある紅茶を二つ、渡はテーブルへと運んだ。普段は明日香の母が座るであろう椅子へと腰を落ち着ける。
「…………」
「…………」
お互いに会話が途切れた今が、本題へと突入する前の静けさである。
「……私ね、今、とっても嬉しい」
先を越された。常に緊張状態を解かない――――解けない渡にとって、明日香の言葉一つでも精神が張り詰める。
「今朝、お母さんに渡と付き合ってることがバレちゃって。ほら、私ってこんな身体でしょ? お母さんは神経図太いけど、絶対に私のために色々とすり減らして来たと思ってる。だから、絶対に反対されると思ったの。『許可も取らずに男と付き合うな』ってね。そうしたら何て言ったと思う?」
明日香は『嬉しい』と言っていた。渡は必死に、瞬発的に考えた。自分の緊張を振りほどくため、明日香の『も~、何言ってるの?』という呆れた顔を期待して。
「まさか、結婚まで許可してくれたんじゃないよね。……なんて、ね?」
「………………ケ、ケッコン」
「あ、あれ? どうしたの?」
明日香は俯いてしまった。それだけで渡は既に慌てているが、今にも泣きだしそうな雰囲気が明日香から感じられた。
「ご、ごめん。今のは言い過ぎたよ……。まだ明日香のご両親とも挨拶すらしてないのに、いきなり結婚なんかの許可が出るわけないよな……。ごめん、忘れてくれ」
「……なんか、じゃない……」
両手に包まれたカップが微かに震えていることを水面に確認し、渡は片手を明日香の手へと伸ばす。
「明日香。今日はどうした? ドアを開けるためだったんだろうけど、強がって杖で立ったり……。今だって、笑い飛ばしてくれるとばかり思ってたんだけ……ど?」
明日香は少しだけ顔を上げた。両目に涙は溜めていないが、心配そうな固い表情は相変わらずだ。
「忘れたくない。変な子だと思うかもしれないけど、私……渡と『結婚』したい」
「……へ?」
瓢箪から駒以外にも碁石やチェスの兵士たちが出てきたような感覚。好きだから会い、好きだから告白し、好きだから結婚する。どこにも間違いはないはずだが、問題はそこではない。
「段階、すっ飛ばしすぎてない?」
「……だから言ったでしょう? 変な子だと思うかもしれないって」
「いや、まぁ……。この際だから言おう。また明日香が自分の足を理由にして逃げられるのが嫌だからな」
「な、何?」
「明日香。オレのこと、好きか?」
「……うん」
「良かった……。オレも明日香が好きだ」
「…………」
「今の時点で、冗談でも結婚を持ち出したのはマズかったとは思う。でもな、考えなかったわけじゃない。嘘か本気かと聞かれれば、本気だ」
「…………」
「いつか、明日香のご両親とも話をしなくちゃいけない時期が来ることも分かってる。それまでは待ってほしい。祝福されない結婚はつらいだけだと思う。こっちの親は任せておけ、どんなことをしても説き伏せる。だから、明日香にも頼みたい。負けない気持ちで『オレと一緒』を最後まで信じてくれ」
気づけば、明日香の片手は渡の伸ばした手を握っていた。そこに震えは感じられず、ただただ固く繋がっていた。
「……ちょっと近づいて」
「こうか?」
「もうちょっと……」
これまで数回は繰り返してきたこと。その度に恥ずかしさから、落ち着けず、回数ばかりが重なった。しかし、今回は鼻に抜ける紅茶の香りを感じ、握る手はいつしか互いの髪へと触れていた。乗り出した上半身に疲れを覚えたため、渡はゆっくりと明日香から離れた。これまでで一番長かったはずだが、息苦しさは感じない。
「ねぇ、お腹空かない?」
午後二時十五分前。怒涛の出来事に、空腹すら忘れていた。
紅茶を運ぶ時には気づかなかったが、上浦家のキッチンは『低い』。頬を染める明日香に手伝うように言われ、渋々と食器を洗う渡には違和感しかなかった。横目に盗む明日香には、肘の角度からして動きやすいところを見ると、この家の造りは明日香に合わせて配慮されているらしい。食器の片づけが終わり、『そろそろ帰ると』伝えると、明日香は顔を曇らせた。
「もう少しでお母さん、帰ってくるんだけど……」
「挨拶はしたいけど、夕方も近いし邪魔じゃない?」
「う~ん……」
午後四時ジャスト。帰るには早いが、話題も尽きた頃。今度は明日香が赤面する話題を持ち出した。
「ねぇ、考えたことある?」
「何を?」
「こ、ここ…………こ、こ!」
突然、ニワトリの真似を始めた明日香に、渡は引いた。
「残念ながら、ニワトリ語を理解できるほどおかしな頭はしちゃいないんだが……」
「違う、違う! こ……子供の……なま、え……」
「…………」
突き上げられた心臓に落ち着きを取り戻すまでに十秒は費やした。最初は笑い飛ばされる冗談のつもりが、嬉しいことに、ここまで本気にされたのだ。しかし、生憎渡は子宝に恵まれるまでの想像には至らなかった。女性はどこまでも強い。渡は、人生で初めて確信した。
「あ、あのね……私、考えたこと、あるんだ?」
両手を合わせては組み、離しては組み直し。明日香も緊張しているようである。それとも、どうして話題に挙げたのか、後悔しているのかもしれない。
「教えてくれる?」
もう焦らない。渡は落ち着いて聞いた。
「幸せになりたいって、誰もが考えることだけど。生まれる前の子は考えられないから。でも、すぐに伝えたい。『私の知らない幸せを掴んでね』って。だから……幸」
「幸……」
いつの日か、耳を押し当てる時が来るのだろうか。渡は明日香の腹部を眺め、外から届く蝉の声が微かに遠のく。代わりに感じられたのは、自らの拍動と明日香に眠る子供の動き。
「……ダメかな。こういうのって、色んな意見を聞いた方がいいのかな。渡はどう思う?」
目を閉じる渡は、明日香にとって頼もしい。何を考えているかは分からないが、きっと将来について気にしているに違いない。
「幸……歌……」
「え?」
「名前だよ。幸歌」
「もしかして、さっきから周りに意見を尋ねるかどうか考えてたんじゃなくて……」
「悪い、名前しか考えてなかった!」
呆れた顔の明日香は、背中を深く車いすへと任せた。
「……馬鹿なんだから」
やっと、笑い飛ばしてくれた。
午後五時、数分前。
性別も異なり、魔法が解けるわけでもないが、渡はヘルメットを小脇に抱えて帰宅の準備を始めた。
「じゃぁ、今日はこれで。また今度来るよ。その時には、今度こそ明日香のお母さんに挨拶しなくちゃな」
「うん、また来てね」
玄関まで出てきてくれた明日香に手を振りながら、渡はドアを開けた。
「…………ふむ、君か」
「お母さん!?」
「……初め、まして?」
明日香は焦った。できるだけ長く渡と話したかったが、母と鉢合わせないように時間は気にしていたのに。渡も焦った。今度が今になるかもしれないから。
「どうも、明日香の母よ。君は?」
たぶん、全て知っているのかもしれない。そう思いながらも、軽く頭を下げてから答えた。
「初めまして。竹下渡です」
「渡くん……。今日はどうしたの?」
「はい、今日は明日香さんに呼ばれてお邪魔してました。もう帰ります、お邪魔しました」
「待ちなさい」
明日香の緊張が、背中から頼りなく伝わってくる。これから、何を言われるのか。渡はヘルメットを強く脇に締めた。
「……ありがとう。渡くんのような人で、私も嬉しいわ…………」
「…………まだ、少しだけ挨拶をしただけですよ? どうしてそう、言えるんですか?」
「明日香が男性を自宅に呼んだのは、あなたが初めてよ。あなた気づいているかしら? さっきから明日香、あなたのこと心配そうな目で見てるの。私に何を言われるか、反対されるんじゃないかとか……きっとそんなことでも考えてるのよ」
渡は振り返る。本人は気づいてないだろうが、明日香の両手は固く握られている。
「今、わかったわ。ねぇ、明日香。後悔なんてしないでしょう?」
「……もちろん」
母親の小さな笑みが見えた。
「渡くん、明日香には言ったけどね。反対なんてしないから、明日香をずっと…………好きでいて」
夏の湿度は、言葉さえも濡らしてしまう。目を見なくても、渡は明日香の母の目が潤んでいることが分かった。
「また、ご挨拶に伺います。……ありがとうございました!」
「えぇ……。明日香と一緒に、待ってるわね」
家の外にバイクのエンジン音を聞く。それを寂しく感じるくらいに、明日香は渡との時間を楽しんだ。
「彼、バイクに乗るのね」
「うん、後ろに乗せてもらったこともあるんだよ」
「そう……楽しかった?」
「ずっと見たかった海……見せてもらったからね。嬉しかった……」
「もしかして、その時に?」
「うん……」
恥ずかしくて母の顔を直視できない。しかし、明日香は疑問を投げた。
「『反対しない』って言ってくれるのは嬉しい。だけど、どうしてさっきは渡にまで同じこと言ったの?次に会うときに言えばよかったのに」
「嬉しいのはあなただけじゃないわよ。あなたに好きな人ができて、好かれて……、私が悲しむとでも? これは渡くんには秘密よ?」
「なに?」
視線を一度外して、再び明日香を見据えた。
「渡くんが帰るとき、明日香、後ろにいたでしょ? 私が家を出る時と比べて、服も乱れてないし、悲しい顔もしてない……。代わりに、私と鉢合わせた渡くんを心配そうな目で見てた。それで、十分よ。彼は明日香を大切に思って、明日香は彼を好きで……」
「ちょ、ちょっと! 変なこと考えないでよ!! いくらなんでも、まだ早いと言うか……お互いに学生だし……名前だって決まってないし……」
換気のために開け放した窓から、やけに肌寒い風が吹いてきた。この季節にはしては珍しい。
「あの、明日香? 渡くんとどんな話をしてたの?」
「えっ!? いや、そのぉ…………。赤……ちゃん、の、名前……とか」
明日香は、自分の母がここまで大きな声で笑ったことを知らない。正確に言えば、思い出したことになる。母は明日香の足が悪くなる以前にも、大きな声で笑う人だった。それが、いつしか物静かな人になってしまった。明日香は、自分が原因だと考えて、極力母の負担にならない人生を歩もうと決意した。しかし、どれくらい達成されているか測ることも難しい決意に、明日香もいつしか自宅での口数も、行動も減った。
「……ねぇ、明日香」
「どうしたの?」
一通り笑い、ゆっくりと明日香に前から近寄る。これまで感じていた母との間に存在していた見えない壁が、ガラガラと崩れていく気がした。
「あなたを産んで良かったわ。大好きよ、明日香」
「……お母さん。わ……私も……大好き、だよ」
涙を堪える必要はない。今は母の肩を借りて、安堵の渦に流された。伝えたかった言葉が涙で濁るが、絞り出した声は確かに母へ響いたと、実感できる抱擁だった。
「名前、教えてくれる? どんな候補が挙がったの?」
「幸歌ちゃん、かな」
「女の子限定?」
「あ……しまった」
二人の笑い声が、夏の夕焼けへと吸い込まれた。
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頭上を覆う桜のアーチに、明日香と渡は感嘆した。引っ越し時期から数えて初めての春である。
「すごいな。まさか引っ越してきた近場にこんなに桜の木があったなんてな」
「そうだね。これで春は制覇だ。夏はあなたのバイクの後ろから海を眺めて、秋もバイクの後ろから紅葉を見て、冬は家の中から雪を見る。完璧だね」
「完璧だけど、そう頻繁に乗せられないかもしれないぞ?」
「えー、ケチだぞ~」
「けちー、けちー!」
渡の眼前には、『ひょっとこ』が二人いた。片方はまだ幼く、明日香の座る車いすの肘掛から少し身長が飛び出すくらいの背丈である。
「ほら、幸歌ちゃん。もっとパパに言ってやって? 幸歌ちゃんも季節の色を見るのが好きでしょ?」
「パパ! さちかも海見たい。もみじも見たい。ゆきも見たい!!」
「幸歌ちゃんもこう言ってるよ?」
「あー、分かった分かった。もうすぐ普通自動車の免許取れるから、幸歌も一緒に行こうな~」
「ありがと、パパ!」
幸歌に伝わったのは、せいぜい『一緒に行こう』の部分だけだろう。バイクだったら季節に関係なくすぐに出発できるが、今では定員オーバーである。
「悪いな。もう少しだけ待ってくれ、明日香」
「ううん。教習所、頑張ってね。ところで、疲れない? さっきから押してもらってるんだけど」
長い桜並木だから、ゆっくりと進んでいきながら桜色を楽しんでいく予定であったが、明日香が渡を気にしていた。
「いや、そうでもない」
「そう……じゃぁ、このままお願いしちゃってもいいか……」
「さちかも押したいっ! ねぇ、パパママ、いいでしょう?」
明日香の語尾に割って入ったのは、幸歌のお手伝い申請だった。明日香と渡は顔を見合わせ、以前にも同じことがあったと思い出した。
「いいけど、幸歌、『背』が足りなくて押せなかっただろう?」
「だいじょうぶだもん。ちょっとだけのびたもん!」
「あなた……幸歌ちゃんと一緒に押してくれる?」
「明日香がいいなら、いいけど」
明日香の安全も考えて少し渋ったが、本人が幸歌の手伝いを希望していた。
「幸歌ちゃん。パパと一緒に押せるかな?」
「うんっ! 押せるよ!」
渡の許可も待たず、幸歌は渡の隣、車いすの背後へと回り込んだ。そこから、左手を左のグリップへと伸ばす。少し、肘が曲がった。
「おぉ、少しだけ背、伸びたな」
「だから押せるもん」
「分かった、分かった」
渡は右手で空いているグリップを握り、空いている手で幸歌と組んだ。
「準備はいい? 幸歌、ゆっくりと押すんだぞ?」
「うん!」
両足で踏ん張り身体で押すような姿勢となると、渡も徐々に車いすを押し始めた。
「力も強くなったかな。上手いぞ、幸歌」
リズムが一定でない幸歌の操作に合わせるよう、渡も力を調整する。乗り心地を悪くしても明日香が嫌がる。だが、なかなか難しく、幸歌と組んでいる手を放して明日香の背中に添えようとした。
「……幸歌、手を放してくれないか?」
「えー、やだよー」
「いや、車いすじゃなくて、こっちの手」
繋いだ手を揺らすと、一層固く握られた。
「幸歌ちゃん、パパのこと好きだね」
「ママもね!」
明日香は不意に恥ずかしくなった。きっと幸歌は『ママのことも好きだよと』言いたかったはずだが、これでは『明日香が渡のことを好きだよ』と言っているようである。
「まぁ、間違いじゃないけどね……」
背後で楽しそうに車いすを押す幸歌の声に、振り向かずとも二人の表情が感じられた。
「ありがとう。あなた、幸歌」
桜のアーチはまだ続く。今は渡に押されて移動できるが、いつかは幸歌一人に押してもらえる日が来るだろう。その初めての場所として、私はこの桜並木を選びたい。明日香は目を閉じて、今度は両手で自身を押してくれる幸歌の姿を想像した。
祝・完結
最終話を無事に投稿することができました。本連載に関する個人的な感想は活動報告の方へ後日、まとめます。前回までの内容と明らかに食い違っている部分などは多々ありますが、すべて活動報告にて言及いたします。
何よりも、初の連載作品で最終話を投稿している喜びが大きく、なかなか言いたいことがまとまりません。なので、ここでは一言だけ残したいと思います。
本作品をお読みいただきありがとうございました。いつまでも明日香と渡の幸せを願っていてください。
それでは。




