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旧作

「元伯爵令嬢のくせに、算盤くさい冷たい女だ」と大勢の前で婚約破棄されました――ええ、そう言わせるために、三年かけましたので

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/25


 招待状は、父の名で届いた。


 エルデ伯爵家御中。三年前に死んだ男の家名が、まだ律儀に印刷されている。法務院の書式は、当主のいない家をどう扱うか決めかねたまま、三年、決めかねている。


「お嬢様。今夜も、お美しゅうございます」


 ヴィントが、玄関先で頭を下げた。父の代からの執事で、わたしが生まれる前からこの家にいる。腰は曲がり、耳も遠い。それでも支度が済むと、必ずこう言う。


「またそんな、心にもないことを」


「心にございます」


「目が遠いだけでしょう」


「耳もでございます」


 わたしは笑った。この人の前でだけ出る、少し雑な声で。


 先日、酒屋の御用聞きが「元伯爵家の――」と言いかけて、ヴィントが静かに遮った。


「エルデ伯爵家でございます」


 御用聞きは、気の毒なものを見る目で頷いて帰った。世間はもう、わたしを元伯爵令嬢と呼ぶ。この家に残っているのは、老いた執事と、売れなかった家具と、父の帳面だけだというのに。


 馬車に乗る前、その帳面が、膝の上に置かれた。革の表紙は、三年ぶん、手の脂で黒くなっている。


「今宵で、ようございますか」


「ええ」


「では、行ってらっしゃいませ」


 ヴィントは、それだけ言って、門の内側に下がった。三年待たせた男の顔は、いつもと同じだった。



 広間は、勝利の色で満ちていた。


 北の国境の戦に勝って半月。若い騎士が讃えられ、酒がふるまわれ、楽団がいつもより速い曲を弾いている。戦功への恩賞の宴だ。褒賞の場には、王の名代が一人、立ち会う決まりになっている。


 上座の脇に、濃紺の上着が見えた。法務院の銀の徽章。若い監査官。


 一度だけ、目が合った。彼はごくわずかに頷き、すぐ視線を外した。それで十分だった。今宵、彼がここにいる。三年かけて積み上げた最後の一枚が、そこに立っている。


 扇の陰で、誰かが囁いた。


「ほら、あちらが元伯爵令嬢の」


「まあ、よく出て来られること」


 わたしは、藍色のドレスの裾を直した。この広間で一番地味な色だ。三年、そう選んできた。


 広間の中心にジェラルドがいた。わたしの婚約者。侯爵家の令息で、此度の戦で敵将を討った、今夜の英雄の一人。金の髪。よく通る声。彼が笑うと、周りが笑う。


 わたしはその斜め後ろに、手を組んで控えていた。


「リーゼ」


 彼が振り向いた。得意の絶頂にいる、明るい顔で。


「話がある。皆の前で、はっきりさせておきたい」


 ――どうぞ。


「君との婚約を、破棄する」



 楽団の音が途切れた。視線が集まってくる。驚いたふりをしながら、隠せない好奇心で。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 わたしは静かに尋ねた。声は落ち着いていた。落ち着いていられるように、三年、そうしてきたのだから。


「君は、冷たい」


 ジェラルドは憐れむように眉を寄せた。


「戦から戻った俺を、労いもしない。手紙の一通も寄越さない。元伯爵令嬢のくせに、算盤の音しかしない女だ。商人あがりの家の娘は、やはり情というものを知らんのだな」


 商人あがり。冷たい。算盤くさい。


 三年かけて、わたしがあなたに見せた通りの、わたし。


 わざと労いを控えた。わざと地味な色を着た。虚栄の強いこの人が、いつか、大勢の前で、この冷たい婚約者を脱ぎ捨てたくなるように。英雄の隣は、地味であってはならないから。


 誰も、この婚約を終わらせに来なかった。三年、放っておかれた。終わらせるほどの相手では、なかったからだ。


「俺の隣には、この人がふさわしい」



 彼の隣に、若い令嬢が進み出た。オデット・メリス子爵令嬢。頬を上気させ、幸せそうに微笑んでいる。


「リーゼ様、責めないであげてくださいませ。ジェラルド様は、ただ、心の通う方をお求めになっただけなのです。元伯爵令嬢とは思えないほど、落ち着いていらして……ああ、わたし、失礼なことを」


「いいえ」


 わたしは、その首元を見ていた。


 淡い青の石。金の鎖。真珠を三つ、蔦のように絡めた古い意匠。


 母の首飾りだった。


 母が嫁入りに持ってきて、いつかわたしに渡すと言って、箱の底にしまっていたもの。三年前、父が死んだ日に、屋敷の宝の一切と一緒に、この家から消えたもの。


 予想はしていた。虚栄の人は、勝ち取ったものを飾りたがる。だから、いつか誰かの首に下がると。


 それでも、実際に母の石が別の女の首にあるのを見ると、喉の奥が少し軋んだ。


「素敵でしょう。ジェラルド様が、贈ってくださったの」


「そうですか」


 わたしは静かに礼をした。まだ早い。もう少し。



「――待て。それだけか」


 ジェラルドが苛立った。わたしが泣き縋らないのが面白くないのだ。


「そうやって、いつも澄ましている。だから父親もああなったんだ。商売で行き詰まって、街道の勅許まで手放して、屋敷も何もかも失くして、最後は病で野垂れ死んだ。あの無様な男の娘だ。君に情がないのも道理だな」


 野垂れ死んだ。


 父が。


 最後の三月、痩せた手で、父はずっと帳面をめくっていた。どこで数字が合わなくなったのか探して。見つからないまま目を閉じた。


 その三月を、わたしは正確に思い出せる。


 喉の奥の、抑えていたものが。


 外れた。


「――今、なんて」



 自分の声が、広間に落ちた。


 澄ました声ではなかった。三年、誰にも聞かせなかった声。


 ジェラルドがたじろいだ。


「野垂れ死んだと言った。事実だろう」


「父は、殺されました」


 広間が静まる。


「病でだ。誰が――」


「オデット様。その首飾りを、どこで」


「え……ジェラルド様が、くださって」


「では、ジェラルド様は、どこで」


 彼が答えない。


 わたしは一歩前に出た。三年崩さなかった距離を、自分から崩して。膝に抱えていた帳面を開く。開く必要はない。中身は全部覚えている。


「父は商人あがりです。叙爵のとき、王家から北の街道の勅許を賜りました。あの冬、軍を飢えさせなかった褒賞として、爵位と一緒に。父はそれを、死ぬまで一人で治めました。関の帳簿も、宿駅の帳簿も、人に渡さなかった。算盤くさい伯爵だと、皆が笑いました」


 わたしは頁を指でなぞった。


「三年前、その帳簿に焦げ付きが出ました。取引先が次々に支払いを止めた。父が不正な数字をつけているという噂のせいでした。出どころは、とうとう分かりませんでした。父が死ぬまで」


 顔を上げる。


「けれど父は、一つだけ遺しました。焦げ付いた日付と、相手と、額を、全部書き留めた帳面を。――そういう男でしたから」



「最初の焦げ付きの日から数えて、四十日後。父の街道の勅許が、競売にかけられました。買い取った家があります」


 わたしはジェラルドを見た。


「ハーゼンベルク侯爵家。あなたのご実家です」


「言いがかりだ」


 彼の声から余裕が消えていく。


「うちが街道を買ったのは、あの家が傾いた後の、正当な取引だ」


「ええ。傾いた後の、正当な取引です」


 わたしは頷いた。


「では、なぜ、母の首飾りが、そこにあるのですか」


 オデットの手が、無意識に首元へ伸びた。


「屋敷の宝は、父の借財の形に、すべて競売にかけられました。目録は残っています。この首飾りも載っている。落札した名も、載っている」


 帳面の最後の頁を、彼に見せた。


「落札者――ハーゼンベルク侯爵家、家令代理。傾いてから買ったのではありません。あなた方が、傾けて、奪った。噂を流し、街道を取り、母の形見まで、家令の名で買い上げた。そして今夜、それを、あなたの選んだ令嬢の首に飾らせた」


「僕は知らない。父が、勝手に――」


「では、ご存じなかったと。法務院の前で、そうおっしゃいますか」



 濃紺の上着が、上座の脇から進み出た。


「――エルデ伯爵令嬢」


 「元」が、なかった。


 王の名代が口にした呼び方が、広間の空気を、一瞬で塗り替えた。誰も、もうその一文字を付けられない。


「ただ今の証と、競売目録の照合を、法務院として正式に求めます。ハーゼンベルク侯爵令息。エルデ商会の破綻については、三年前より申し立てが届いておりました。侯爵家のお名前が、そのすべてに出ております」


 ジェラルドの顔が白くなった。


 彼がわたしを見た。今ようやく、何かに気づいた顔で。


「君は……これを、狙って」


「ええ」


 わたしはまっすぐに彼を見た。


「あなたが一番高い所に登る夜を、待っていました。あなた自身の口で、大勢の前で、冷たい女だと言って捨てたくなるように。三年、地味に、算盤くさく、しておりました」


「はめたのか……!」


「いいえ」


 わたしは首を横に振った。


「あなたは、あなたのしたいようにしただけです。わたしは、あなたがそうしたくなる場所に、立っていただけ」



 オデットが後ずさっていた。首の後ろへ手を回して、留め金を探している。今すぐ外してしまいたいというように。


 わたしは、その子を責める気にはなれなかった。贈られたものの重さを知らなかっただけだ。少し前まで、飾られていたわたしのように。


 監査官の合図で、法務院の者がジェラルドの両脇に立った。今夜の英雄は、恩賞の代わりに聴取へ連れられていく。誰も庇わなかった。英雄の隣は、地味であってはならないから。


 人が引き始めた広間で、わたしは入口へ戻った。老いた執事が、外の廊下に立っていた。夜会の夜は、いつもそこで待っている。


「ヴィント」


「はい、お嬢様」


「終わったわ」


「はい」


「わたし、澄ましていられなかった。父を、あんなふうに言われて」


 ヴィントは少しだけ笑った。父が好いていたという、あの笑い方に似た笑い方で。


「旦那様は、お嬢様のその声を、一等、好いておいででした」


 喉の奥が、また軋んだ。今度は、前とは違う軋み方だった。



「エルデ伯爵令嬢」


 監査官だった。


「差し出がましいことを、いたしました」


「いいえ。三年、待ちました。あなたが、門前で、帳面を最後まで見てくださった日から」


「本当は」


 彼は言葉を選ぶように、少し黙った。


「あの日、追い返される寸前の令嬢が、数字の並んだ帳面を、一枚ずつ、順を追って説明されました。あんなに静かに、あんなに正確に怒っている人を、初めて見ました。――今夜の声のほうが、やはり、ずっといい」


「算盤くさい女ですが」


「はい。その女性です」


 わたしは笑った。澄ませない声で。


「では、いつか、父の帳簿を見ていただけますか。焦げ付きの前の、まだ生きていた頃のものを。父が、どんな領主だったか」


「喜んで」



 母の首飾りは、後日、正式にわたしの手へ戻った。


 わたしはそれを、母がそうしていたように、箱の底へしまった。いつか渡す相手ができたときのために。


 三年決めかねていた家督の裁定は、その年のうちに下りた。招待状の宛名も、そのとき変わった。


 算盤くさい男だったと、今でも人は言う。


 ええ、とわたしは頷く。


 算盤くさい男でした。だから娘に、全部、数えられるように遺してくれたのです。


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