「元伯爵令嬢のくせに、算盤くさい冷たい女だ」と大勢の前で婚約破棄されました――ええ、そう言わせるために、三年かけましたので
招待状は、父の名で届いた。
エルデ伯爵家御中。三年前に死んだ男の家名が、まだ律儀に印刷されている。法務院の書式は、当主のいない家をどう扱うか決めかねたまま、三年、決めかねている。
「お嬢様。今夜も、お美しゅうございます」
ヴィントが、玄関先で頭を下げた。父の代からの執事で、わたしが生まれる前からこの家にいる。腰は曲がり、耳も遠い。それでも支度が済むと、必ずこう言う。
「またそんな、心にもないことを」
「心にございます」
「目が遠いだけでしょう」
「耳もでございます」
わたしは笑った。この人の前でだけ出る、少し雑な声で。
先日、酒屋の御用聞きが「元伯爵家の――」と言いかけて、ヴィントが静かに遮った。
「エルデ伯爵家でございます」
御用聞きは、気の毒なものを見る目で頷いて帰った。世間はもう、わたしを元伯爵令嬢と呼ぶ。この家に残っているのは、老いた執事と、売れなかった家具と、父の帳面だけだというのに。
馬車に乗る前、その帳面が、膝の上に置かれた。革の表紙は、三年ぶん、手の脂で黒くなっている。
「今宵で、ようございますか」
「ええ」
「では、行ってらっしゃいませ」
ヴィントは、それだけ言って、門の内側に下がった。三年待たせた男の顔は、いつもと同じだった。
◇
広間は、勝利の色で満ちていた。
北の国境の戦に勝って半月。若い騎士が讃えられ、酒がふるまわれ、楽団がいつもより速い曲を弾いている。戦功への恩賞の宴だ。褒賞の場には、王の名代が一人、立ち会う決まりになっている。
上座の脇に、濃紺の上着が見えた。法務院の銀の徽章。若い監査官。
一度だけ、目が合った。彼はごくわずかに頷き、すぐ視線を外した。それで十分だった。今宵、彼がここにいる。三年かけて積み上げた最後の一枚が、そこに立っている。
扇の陰で、誰かが囁いた。
「ほら、あちらが元伯爵令嬢の」
「まあ、よく出て来られること」
わたしは、藍色のドレスの裾を直した。この広間で一番地味な色だ。三年、そう選んできた。
広間の中心にジェラルドがいた。わたしの婚約者。侯爵家の令息で、此度の戦で敵将を討った、今夜の英雄の一人。金の髪。よく通る声。彼が笑うと、周りが笑う。
わたしはその斜め後ろに、手を組んで控えていた。
「リーゼ」
彼が振り向いた。得意の絶頂にいる、明るい顔で。
「話がある。皆の前で、はっきりさせておきたい」
――どうぞ。
「君との婚約を、破棄する」
◇
楽団の音が途切れた。視線が集まってくる。驚いたふりをしながら、隠せない好奇心で。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
わたしは静かに尋ねた。声は落ち着いていた。落ち着いていられるように、三年、そうしてきたのだから。
「君は、冷たい」
ジェラルドは憐れむように眉を寄せた。
「戦から戻った俺を、労いもしない。手紙の一通も寄越さない。元伯爵令嬢のくせに、算盤の音しかしない女だ。商人あがりの家の娘は、やはり情というものを知らんのだな」
商人あがり。冷たい。算盤くさい。
三年かけて、わたしがあなたに見せた通りの、わたし。
わざと労いを控えた。わざと地味な色を着た。虚栄の強いこの人が、いつか、大勢の前で、この冷たい婚約者を脱ぎ捨てたくなるように。英雄の隣は、地味であってはならないから。
誰も、この婚約を終わらせに来なかった。三年、放っておかれた。終わらせるほどの相手では、なかったからだ。
「俺の隣には、この人がふさわしい」
◇
彼の隣に、若い令嬢が進み出た。オデット・メリス子爵令嬢。頬を上気させ、幸せそうに微笑んでいる。
「リーゼ様、責めないであげてくださいませ。ジェラルド様は、ただ、心の通う方をお求めになっただけなのです。元伯爵令嬢とは思えないほど、落ち着いていらして……ああ、わたし、失礼なことを」
「いいえ」
わたしは、その首元を見ていた。
淡い青の石。金の鎖。真珠を三つ、蔦のように絡めた古い意匠。
母の首飾りだった。
母が嫁入りに持ってきて、いつかわたしに渡すと言って、箱の底にしまっていたもの。三年前、父が死んだ日に、屋敷の宝の一切と一緒に、この家から消えたもの。
予想はしていた。虚栄の人は、勝ち取ったものを飾りたがる。だから、いつか誰かの首に下がると。
それでも、実際に母の石が別の女の首にあるのを見ると、喉の奥が少し軋んだ。
「素敵でしょう。ジェラルド様が、贈ってくださったの」
「そうですか」
わたしは静かに礼をした。まだ早い。もう少し。
◇
「――待て。それだけか」
ジェラルドが苛立った。わたしが泣き縋らないのが面白くないのだ。
「そうやって、いつも澄ましている。だから父親もああなったんだ。商売で行き詰まって、街道の勅許まで手放して、屋敷も何もかも失くして、最後は病で野垂れ死んだ。あの無様な男の娘だ。君に情がないのも道理だな」
野垂れ死んだ。
父が。
最後の三月、痩せた手で、父はずっと帳面をめくっていた。どこで数字が合わなくなったのか探して。見つからないまま目を閉じた。
その三月を、わたしは正確に思い出せる。
喉の奥の、抑えていたものが。
外れた。
「――今、なんて」
◇
自分の声が、広間に落ちた。
澄ました声ではなかった。三年、誰にも聞かせなかった声。
ジェラルドがたじろいだ。
「野垂れ死んだと言った。事実だろう」
「父は、殺されました」
広間が静まる。
「病でだ。誰が――」
「オデット様。その首飾りを、どこで」
「え……ジェラルド様が、くださって」
「では、ジェラルド様は、どこで」
彼が答えない。
わたしは一歩前に出た。三年崩さなかった距離を、自分から崩して。膝に抱えていた帳面を開く。開く必要はない。中身は全部覚えている。
「父は商人あがりです。叙爵のとき、王家から北の街道の勅許を賜りました。あの冬、軍を飢えさせなかった褒賞として、爵位と一緒に。父はそれを、死ぬまで一人で治めました。関の帳簿も、宿駅の帳簿も、人に渡さなかった。算盤くさい伯爵だと、皆が笑いました」
わたしは頁を指でなぞった。
「三年前、その帳簿に焦げ付きが出ました。取引先が次々に支払いを止めた。父が不正な数字をつけているという噂のせいでした。出どころは、とうとう分かりませんでした。父が死ぬまで」
顔を上げる。
「けれど父は、一つだけ遺しました。焦げ付いた日付と、相手と、額を、全部書き留めた帳面を。――そういう男でしたから」
◇
「最初の焦げ付きの日から数えて、四十日後。父の街道の勅許が、競売にかけられました。買い取った家があります」
わたしはジェラルドを見た。
「ハーゼンベルク侯爵家。あなたのご実家です」
「言いがかりだ」
彼の声から余裕が消えていく。
「うちが街道を買ったのは、あの家が傾いた後の、正当な取引だ」
「ええ。傾いた後の、正当な取引です」
わたしは頷いた。
「では、なぜ、母の首飾りが、そこにあるのですか」
オデットの手が、無意識に首元へ伸びた。
「屋敷の宝は、父の借財の形に、すべて競売にかけられました。目録は残っています。この首飾りも載っている。落札した名も、載っている」
帳面の最後の頁を、彼に見せた。
「落札者――ハーゼンベルク侯爵家、家令代理。傾いてから買ったのではありません。あなた方が、傾けて、奪った。噂を流し、街道を取り、母の形見まで、家令の名で買い上げた。そして今夜、それを、あなたの選んだ令嬢の首に飾らせた」
「僕は知らない。父が、勝手に――」
「では、ご存じなかったと。法務院の前で、そうおっしゃいますか」
◇
濃紺の上着が、上座の脇から進み出た。
「――エルデ伯爵令嬢」
「元」が、なかった。
王の名代が口にした呼び方が、広間の空気を、一瞬で塗り替えた。誰も、もうその一文字を付けられない。
「ただ今の証と、競売目録の照合を、法務院として正式に求めます。ハーゼンベルク侯爵令息。エルデ商会の破綻については、三年前より申し立てが届いておりました。侯爵家のお名前が、そのすべてに出ております」
ジェラルドの顔が白くなった。
彼がわたしを見た。今ようやく、何かに気づいた顔で。
「君は……これを、狙って」
「ええ」
わたしはまっすぐに彼を見た。
「あなたが一番高い所に登る夜を、待っていました。あなた自身の口で、大勢の前で、冷たい女だと言って捨てたくなるように。三年、地味に、算盤くさく、しておりました」
「はめたのか……!」
「いいえ」
わたしは首を横に振った。
「あなたは、あなたのしたいようにしただけです。わたしは、あなたがそうしたくなる場所に、立っていただけ」
◇
オデットが後ずさっていた。首の後ろへ手を回して、留め金を探している。今すぐ外してしまいたいというように。
わたしは、その子を責める気にはなれなかった。贈られたものの重さを知らなかっただけだ。少し前まで、飾られていたわたしのように。
監査官の合図で、法務院の者がジェラルドの両脇に立った。今夜の英雄は、恩賞の代わりに聴取へ連れられていく。誰も庇わなかった。英雄の隣は、地味であってはならないから。
人が引き始めた広間で、わたしは入口へ戻った。老いた執事が、外の廊下に立っていた。夜会の夜は、いつもそこで待っている。
「ヴィント」
「はい、お嬢様」
「終わったわ」
「はい」
「わたし、澄ましていられなかった。父を、あんなふうに言われて」
ヴィントは少しだけ笑った。父が好いていたという、あの笑い方に似た笑い方で。
「旦那様は、お嬢様のその声を、一等、好いておいででした」
喉の奥が、また軋んだ。今度は、前とは違う軋み方だった。
◇
「エルデ伯爵令嬢」
監査官だった。
「差し出がましいことを、いたしました」
「いいえ。三年、待ちました。あなたが、門前で、帳面を最後まで見てくださった日から」
「本当は」
彼は言葉を選ぶように、少し黙った。
「あの日、追い返される寸前の令嬢が、数字の並んだ帳面を、一枚ずつ、順を追って説明されました。あんなに静かに、あんなに正確に怒っている人を、初めて見ました。――今夜の声のほうが、やはり、ずっといい」
「算盤くさい女ですが」
「はい。その女性です」
わたしは笑った。澄ませない声で。
「では、いつか、父の帳簿を見ていただけますか。焦げ付きの前の、まだ生きていた頃のものを。父が、どんな領主だったか」
「喜んで」
◇
母の首飾りは、後日、正式にわたしの手へ戻った。
わたしはそれを、母がそうしていたように、箱の底へしまった。いつか渡す相手ができたときのために。
三年決めかねていた家督の裁定は、その年のうちに下りた。招待状の宛名も、そのとき変わった。
算盤くさい男だったと、今でも人は言う。
ええ、とわたしは頷く。
算盤くさい男でした。だから娘に、全部、数えられるように遺してくれたのです。
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