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水平線を追い越して ―28歳、小さな愛車と私の日本一周300日―  作者: 久遠 睦


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黄金の大地、果てなき一本道のプロローグ(北海道:9月)

第8章:黄金の大地、果てなき一本道のプロローグ(北海道:9月)


1. 異国への接舷、北の香りに震えて

 八戸港を深夜に出発したシルバーフェリーは、数時間の航行を経て、早朝の苫小牧とまこまい港へと滑り込んだ。  みなとは、ハナちゃんの運転席で、船の巨大なランプウェイがゆっくりと降りるのをじっと見守っていた。心臓の鼓動が、アイドリングするエンジンの振動と共鳴している。


 係員の誘導に従い、アクセルを軽く踏む。  鉄の床を抜けて、ハナちゃんのタイヤが北海道の土を掴んだ。


「……あ」


 窓を開けた瞬間、流れ込んできた空気に、湊は思わず息を止めた。  それは、東北のそれとは明らかに質の異なる、鋭いまでの透明感。九月の北海道の風には、既に冬の入り口を予感させる冷たさと、広大な大地が放つ枯れ草の匂いが混じり合っていた。


「着いたよ、ハナちゃん。ここが、私たちがずっと見たかった場所だよ」


 ロードサインの文字が、今まで見てきたものより大きく感じる。  国道36号線を北上し始めると、湊はすぐに「北海道の洗礼」を受けた。道が、あまりにも広い。そして、どこまでも真っ直ぐだ。  都会の数キロメートルは永遠のように感じられたのに、ここでは数十キロメートル先が「すぐそこ」のように語られる。この圧倒的なスケール感の前に、二十八歳の湊が抱えてきた小さな悩みやプライドは、まるで風に舞う塵のように意味を失っていく。


 彼女は、最初のコンビニに車を止め、北海道限定の乳飲料『カツゲン』を一気に飲み干した。  甘酸っぱいその味は、これから始まる未知の冒険への、最高の前奏曲だった。


2. 美瑛のパッチワーク、色彩の奇跡

 苫小牧から内陸へと進み、湊は美瑛びえいの丘陵地帯へとハナちゃんを走らせた。  九月の美瑛は、収穫を待つ黄金色の小麦、掘り起こされたばかりの黒い土、そして秋まきの緑が、丘の曲線に沿ってパッチワークのように広がっている。


 ハナちゃんを路肩の空きスペースに止め、湊は丘の上に立った。  視界を遮るものは何もない。あるのは、うねる大地と、吸い込まれそうなほど高い秋の空だけ。


「……きれいすぎて、泣けてくる」


 ファインダー越しに見る世界は、どの絵画よりも鮮やかだった。  ふと、近くで農作業をしていた初老の男性が、トラクターを止めて湊に声をかけてきた。


「お姉ちゃん、どっから来たんだい? 東京か、すごいナンバーだね」


「はい、鹿児島からずっと回ってきました。日本一周の夢を叶えたくて」


 男性――徳さんは、日焼けした顔に深い笑い皺を作った。 「そうかい。美瑛の丘はね、人間が一生懸命生きて、土を耕した結果なんだ。ただの景色じゃない、生きる形なんだよ。お姉ちゃんも、自分の人生、しっかり耕してる真っ最中なんだな」


 ――自分の人生を耕す。  その言葉は、湊の胸の奥にすとんと落ちた。  会社員時代の彼女は、ただ「与えられた種」を「決まった場所」に蒔くだけだった。自分の意志で土を耕し、自分の責任で実りを待つ。そんな勇気はなかった。  でも、この半年間。彼女はハナちゃんと共に、自分だけのフィールドを耕してきた。時に雨に打たれ、時に風に煽られながらも、一歩ずつ。


 徳さんから手渡された、獲れたてのジャガイモ。  その土の匂いと重みは、湊にとって何よりも確かな「生命の手触り」だった。


3. ジェットコースターの路、天へと続く加速

 上富良野から美瑛に続く「ジェットコースターの路」。  アップダウンが激しく、一直線に伸びるその道に、湊は息を呑んだ。  ハナちゃんのギアを低速に入れ、坂を一気に駆け上がる。頂点に達した瞬間、視界から道が消え、空へと飛び出していくような錯覚。


「いっけぇー、ハナちゃん!」


 思わず叫んでいた。  時速五十キロの、小さな軽自動車。  でも、今の湊にとっては、どんなスポーツカーよりも速く、どんな飛行機よりも高く飛んでいる気がした。


 坂を下りきったところで、湊はハナちゃんを止め、車体をそっと撫でた。  五ヶ月前、指宿の海岸で途方に暮れていた自分。  出雲の雨の中で、縁を問い直していた自分。  それらすべてを、この小さな車がここまで運んでくれた。


 走行距離は、ついに六千キロを越えた。  それは、彼女が「20代でやりたかったこと」を、現実のものとして積み上げてきた時間の厚みだ。


 夕暮れ時。  美瑛の丘が燃えるようなオレンジ色に染まる。  湊は、助手席のノートに、新しい一文を書き加えた。


『九月、北海道。  世界は思っていたよりずっと広く、私は思っていたよりずっと強かった。  真っ直ぐな道は、ただの道じゃない。  それは、未来への滑走路なんだ。』


4. 孤独という名の、贅沢な晩餐

 その夜、湊は富良野ふらののキャンプ場で車中泊の準備を整えた。  北海道の夜は、本州のそれとは比べ物にならないほど冷え込む。彼女はハナちゃんの狭い車内で、カセットコンロに火をかけた。


 徳さんに貰ったジャガイモを茹で、地元のバターをたっぷりと乗せる。  それから、ふらのワインを一合、カップに注いだ。


「いただきます」


 ホクホクのジャガイモ。口の中で溶けるバターの芳醇な香りと、大地の力強い味。  都会の高級レストランで食べるコース料理よりも、今の湊には、この一皿が何倍も贅沢に感じられた。


 窓の外には、零れ落ちそうな星空。  誰とも会話をせず、ただ自分の咀嚼音と、夜風の音だけを聞きながら過ごす時間。  かつては「一人でいること」をあんなに恐れていたのに。  今は、この孤独こそが、自分を一番自由にしてくれる最高の相棒だと知っている。


 湊は、少しだけ重くなった瞼を閉じながら、明日のルートを思い描いた。  次は、道東へ。  さらに最果ての地、知床や根室を目指す。  旅はいよいよ、最高潮の孤独と、最高潮の美しさへと向かっていく。


 ハナちゃんの小さな揺れに身を任せ、湊は深い、深い眠りに落ちていった。



5. オロロンライン、空と海と一本の線

 美瑛の起伏に富んだ丘を離れ、ハナちゃんと湊は日本海沿いを北上する「オロロンライン」へと足を踏み入れた。  留萌るもいを過ぎ、天塩てしおへ向かう道。そこには、本州の人間が想像しうる「道路」の概念を根底から覆す光景が待っていた。


 電柱がない。建物がない。自動販売機すらない。  あるのは、左側に広がる荒涼とした日本海と、右側に広がる広大なサロベツ原野。そして、その間を定規で引いたように真っ直ぐ貫く、一本の黒いアスファルト。


「……信じられない。私、どこに向かってるんだろう」


 ハナちゃんの時速は六十キロ。アクセルを一定の踏み込みで保っているだけなのに、景色が動いている実感が薄い。あまりにもスケールが大きすぎて、自分が進んでいるのか、世界が後ろへ流れているのかが分からなくなる。


 ふと、遠くに巨大な風車群が見えてきた。オトンルイ風力発電所。二十八基の白い風車が、一列に並んでゆっくりと羽を回している。その規則的な動きが、この非現実的な空間に、微かな時間の脈動を与えていた。


 湊は、何もない路肩に車を止めた。  外に出ると、遮るもののない強風が彼女の体を揺らす。    ――真っ直ぐであることの、孤独。    会社員時代の彼女は、常に「曲がり角」を探していた。昇進という角、結婚という角、転職という角。どこかで道が変われば、今の閉塞感から抜け出せるのではないかと期待していた。  けれど、この北海道の一本道は教えてくれる。  道を変える必要なんてない。ただ、この真っ直ぐな道を、自分の足で、自分の速度で進み続けること。それ自体が、何よりも尊い冒険なのだと。    湊は、空っぽの地平線に向かって、深々と頭を下げた。誰に対する礼でもない。ただ、この圧倒的な「無」の景色の中に、自分の存在を認められたことへの感謝だった。


6. 宗谷岬、最北の風に吹かれて

 九月中旬。ハナちゃんはいよいよ、日本の北の果て、宗谷岬へと到達した。  「日本最北端の地」と刻まれた三角錐のモニュメントの前に立った時、湊の胸には、三月に鹿児島・佐多岬を出発した時の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。


 あの時、鹿児島の風はぬるく、期待と不安が五分五分だった。  今の宗谷の風は、痛いほど冷たく、けれど湊の心は百パーセントの「誇り」で満たされていた。


「ハナちゃん、見て。本当に来ちゃったね」


 ハナちゃんのボンネットには、数えきれないほどの小さな虫の跡や、飛び石の傷がついている。それは、この半年間、共に戦い、共に旅をしてきた戦士の勲章だった。    岬の売店で「最北端到着証明書」を買い、日付を書き込む。  202X年9月15日。  この日付は、彼女の人生において、どんな資格証書や表彰状よりも重い意味を持つことになるだろう。    ふと見ると、隣に止まっていた大型バイクのライダーが、湊に缶コーヒーを差し出した。 「お姉ちゃん、その軽で鹿児島から? 根性あるなぁ。おめでとう」 「ありがとうございます。……なんだか、不思議な気分です。ここがゴールじゃないのに、一つの人生が終わったみたいな」    ライダーはヘルメット越しに笑った。 「そうさ。最北端はゴールじゃない。新しい自分への『チェックポイント』なんだよ。これからは、南へ戻る旅が始まる。同じ道でも、見える景色は全然違うはずだぜ」    温かいコーヒーが、強張った指先を溶かしていく。  南へ戻る。それは「帰る」ことではない。新しい自分として、もう一度世界をなぞり直すことなのだ。


7. 知床の野生、命の境界線

 宗谷岬からオホーツク海沿いを南下し、旅は世界自然遺産・知床へと足を踏み入れた。  知床峠へと続く「知床横断道路」。ハナちゃんのエンジンが、急勾配を前に必死の叫びを上げる。


 霧が立ち込める峠を越えた時、道路の脇に一匹のキタキツネが現れた。  車を止めると、キツネは逃げる風でもなく、こちらをじっと見つめている。黄金色の瞳。そこには、都会のペットや動物園の個体にはない、冷徹なまでの「生」の光が宿っていた。


「……ごめんね、お邪魔してるね」


 湊はカメラを向けようとしたが、すぐにその手を止めた。  この美しさは、記録するものではなく、今、この一瞬の「出会い」として胸に刻むべきものだ。    知床五湖を散策していると、至る所に「ヒグマ出没注意」の看板がある。  ここでは、人間が主役ではない。野生の命が本来のルールで生きている場所に、人間が少しだけお邪魔させてもらっているに過ぎない。    その謙虚な感覚が、湊には心地よかった。  社会という場所では、人間が万能であるかのように振る舞わなければならなかった。でも、ここでは、自分もまた一匹の非力な生き物に過ぎない。  知床の厳しい自然は、彼女に「生かされている」という全き平穏を教えてくれた。


8. 釧路湿原の霧、十月への予感

 九月、最終週。  ハナちゃんは道東の拠点、釧路くしろへと辿り着いた。  広大な釧路湿原。細岡展望台から眺める景色は、季節の変わり目を告げる深い霧に包まれていた。


 釧路川が蛇行しながら、湿原の奥へと消えていく。  風の音が止み、代わりに遠くでタンチョウの鳴き声が聞こえたような気がした。    湊は、ハナちゃんの車内で、地図の「北海道」のページを閉じた。  明日からは、十月。  旅のスケジュール通りなら、北海道を離れ、再び東北を南下し、年末の沖縄を目指すフェーズに入る。    半年前、仕事を辞めて旅に出た自分。  あの頃の自分は、今のこの「満たされた静寂」を想像できただろうか。    北海道の大地は、彼女に「広さ」を教えてくれた。  そしてその広さは、彼女の心の中に、どんな不安も飲み込んでしまうほどの大きな「余裕」を作ってくれた。   「……よし。行こうか、ハナちゃん」    十月の冷たい空気が、窓の隙間から滑り込んでくる。  黄金色に輝いた北海道の夢から醒め、彼女は再び、現実という名の長い、長い道のりへとハンドルを切った。


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