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水平線を追い越して ―28歳、小さな愛車と私の日本一周300日―  作者: 久遠 睦


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ねぶたの灯と、祭りのあと(秋田・青森・岩手:8月)

第7章:ねぶたの灯と、祭りのあと(秋田・青森・岩手:8月)


1. 黄金の穂先、秋田竿燈の揺らめき

 八月。東北の夏は、まるで一年分の生命力を数日間で使い果たすかのような、凄まじい熱気に包まれていた。  新潟から山形を抜け、ハナちゃんが秋田県に入った頃、夜の街を彩っていたのは「秋田竿燈かんとうまつり」だった。


「……きれい。まるでお米の稲穂が光ってるみたい」


 みなとは、大通りを埋め尽くす光の列に息を呑んだ。  長い竹竿に吊るされた何十もの提灯。それが重さに耐えかねるようにしなり、男たちの額や肩、腰の上で絶妙なバランスを保ちながら揺れている。一歩間違えれば倒れてしまう危うさ。けれど、その揺れこそが、たわわに実った稲穂が風にそよぐ姿そのものだった。


 湊は、沿道の隅でその光景を眺めながら、ふと「バランス」という言葉について考えていた。  会社員時代の彼女は、常に「正しいバランス」を求めていた。仕事とプライベート、周囲の期待と自分の本音、貯金額と将来の不安。倒れないように、はみ出さないように、必死に自分という竹竿を支えていた。


 けれど、目の前で舞う竿燈は教えてくれる。  本当に美しいのは、静止した完璧なバランスではなく、崩れそうな重みを抱えながら、それでもなお、しなやかに揺れ続けている姿なのだと。


「私も、揺れてていいんだよね」


 ハナちゃんという小さな重荷(相棒)を抱え、日本一周という不確かな旅を続ける今の自分。それは、どの時代よりも不安定で、そしてどの時代よりも光り輝いているように思えた。


2. 奥入瀬の呼吸、深い緑の静寂

 秋田の熱狂を後にし、ハナちゃんは北上を続け、青森県・十和田の森へと分け入った。  目指すは、奥入瀬おいらせ渓谷。  祭りの「動」に対し、ここは徹底した「静」の世界だった。


 ハナちゃんを路肩に止め、湊は散策路を歩き出した。   「……冷たい」    渓流沿いの空気は、外の世界の猛暑が嘘のようにひんやりとしていた。苔むした岩の間を縫って走る白い水の流れ。木漏れ日が水面に反射し、万華鏡のように踊っている。  湊は、深く、深く呼吸をした。肺の隅々まで、ブナの森が放つ酸素と水の粒子が満ちていく。    旅を始めて五ヶ月。彼女の五感は、以前よりもずっと鋭敏になっていた。  水の音のわずかな変化、風に乗ってくる森の匂い、足の裏に伝わる土の柔らかさ。    都会では、情報は「処理」するものだった。けれどここでは、情報は「享受」するものだ。  湊は、岩の上に座り、一時間ほどただ水の流れを見つめていた。  かつて、分刻みのスケジュールに追われていた自分が信じられないほど、この贅沢な「何もしない時間」が、彼女を真の意味で再生させていく。    青森の深い緑は、祭りの火を灯す前の、静かな祈りの時間のようだった。


3. 青森ねぶた、闇を切り裂く極彩色の魂

 そして、ついにその日がやってきた。  湊がこの旅で、最も「見なければならない」と心に決めていた瞬間。  青森ねぶた祭。    日が沈み、青森市内に「ラッセラー! ラッセラー!」という地響きのような掛け声が響き渡った時、湊の全身に鳥肌が立った。  闇の中から現れたのは、巨大な武者や神話の神々を象った、極彩色の灯火の巨像。  内側から放たれる圧倒的な光が、ねぶたの勇壮な表情を浮かび上がらせ、夜の空気を震わせる。   「……すごい。魂が燃えてる」    跳人ハネトたちが、鈴の音を鳴らしながら乱舞する。  湊は、群衆の中で我を忘れて叫んでいた。   「ラッセラー! ラッセラー!」    それは、二十八年間、ずっと喉の奥に押し込めてきた叫びだった。  いい子でいなきゃ。  迷惑をかけちゃいけない。  ちゃんと働かなきゃ。  女らしく、大人らしく。    そんな、自分を縛っていたすべての「呪文」を、ねぶたの熱狂が焼き尽くしていく。  跳ねるたびに、心が軽くなる。  鈴が落ちるたびに、古い自分が剥がれ落ちていく。    ねぶたが通り過ぎた後の夜風は、どこか切なく、けれどこの上なく清々しかった。  湊の頬を伝うのは、汗か、それとも涙か。  彼女は、夜空を見上げ、確かな手応えを感じていた。    ――私は今、間違いなく、自分の人生の主役として「跳ねて」いる。


4. 祭りのあと、岩手の星空へ

 祭りの狂乱が去り、八月も中盤を過ぎる頃。  ハナちゃんは青森から岩手県へと入り、広大な北上盆地を南下していた。    祭りの後の虚脱感。それは「寂しさ」ではなく、何かに向かって走り抜けた後の「心地よい疲労」だった。  湊は、遠くにそびえる岩手山を眺めながら、地元の名物「わんこそば」の店に立ち寄った。   「はい、じゃんじゃん! はい、どんどん!」    威勢のいい掛け声とともに、次々と投げ込まれる一口サイズの蕎麦。  最初は面白がっていた湊も、五十杯、六十杯と重なるうちに、必死になっていた。   「……く、苦しい……けど、負けたくない」    百杯を超えた時、彼女は確かな「達成感」とともに蓋を閉めた。  こんなにガツガツと、なりふり構わず食べたのはいつ以来だろう。    その夜、湊は岩手の高原にあるキャンプ場で、ハナちゃんのルーフに寝転んで空を見た。  東北の夜は、もう秋の気配を孕んでいた。    空には、天の川がくっきりと横たわっている。   「ハナちゃん、夏が終わるね」    でも、それは「終わり」ではない。  九月の黄金色の風景。十月の北海道。  旅は、まだその深みを増していくのだ。    湊は、助手席に置いてある、少し色褪せてきた地図をなぞった。  二十八歳の夏。  東北の祭りの火は、彼女の心の中に、決して消えることのない「自分を愛するための情熱」を灯してくれた。



5. 三陸の潮騒、祈りの青を辿って

 青森から岩手に入り、ハナちゃんは太平洋沿いの「三陸沿岸道路」を南下していた。  かつて大きな傷を負ったこの海岸線は、十数年の歳月を経て、新しい巨大な防潮堤と、変わらぬ深い藍色の海が共存する不思議な景色を作り出していた。


 車窓から見える海は、高知のそれとも、日本海のそれとも違う。どこか「沈黙」を湛えた、深い祈りのような青だ。


 みなとは、宮古市みやこしにある浄土ヶじょうどがはまにハナちゃんを止めた。  白い岩肌と、透明度の高い波、そして静かに佇む松の木々。その名の通り、現世に現れた極楽浄土のような静寂がそこにはあった。


「……きれい」


 波打ち際に立ち、湊は透明な水に手を浸した。  旅を始めて半年。彼女の手は、以前よりも少し節くれ立ち、日焼けして逞しくなっていた。毎日、自分でハンドルを握り、自分で食事を選び、自分で寝床を整える。そんな当たり前の営みの積み重ねが、彼女から「都会のひ弱さ」を削ぎ落としていた。


 ふと見ると、防波堤の上で海を見つめている老婆がいた。  湊が軽く会釈をすると、老婆は穏やかな口調で言った。


「お姉さん、一人旅かね。ここはね、何があっても海が一番きれいなの。海は怖いけど、それでも私たちは海に生かされてるんだよ」


 老婆の言葉は、重く、そして優しかった。  失うこと、傷つくこと。それを恐れて立ち止まるのではなく、それらすべてを抱きしめて、なお美しく生きる。  三陸の風景は、湊に「本当の強さ」とは何かを、言葉を使わずに教えてくれていた。


6. かもめの卵と、甘い再出発

 大船渡おおふなとの街に入ると、湊は地元の小さなお菓子屋さんに立ち寄った。  お目当ては、岩手の名物「かもめの玉子」。    店内で、出来立ての白いお菓子を頬張る。  ホワイトチョコレートのコーティングの中に、しっとりとした黄身餡。一口食べれば、疲れが溶け出していくような、安心する甘さだ。   「お姉さん、その車、かっこいいね。日本一周中?」    カウンターの奥から声をかけてきたのは、湊と同じくらいの年齢の女性店主だった。   「はい。三月に鹿児島からスタートして、やっとここまで来ました」 「すごい! 私もね、震災の後に一度東京へ出たの。でも、やっぱりこの街でお菓子を作りたいと思って戻ってきたの。一度壊れたからこそ、新しく作れるものがあるって、今は思えるから」    女性店主の真っ直ぐな瞳に、湊は自分の姿を重ねた。  会社員時代、湊は「一度キャリアが途切れたら終わり」だと思い込んでいた。履歴書に傷がつくこと、空白ができることを、死ぬほど恐れていた。    でも、彼女はどうだろう。  故郷が壊れ、一度は離れ、それでも戻ってきて、新しい「甘さ」を作っている。   「……私も、新しく作れるようになりたいです。自分の人生を」    湊の言葉に、店主は力強く頷いた。 「なれるよ。だってお姉さん、自分の足でここまで来たんだもん。その経験は、誰にも壊せない財産だよ」    店を出る湊の手に握られていたのは、おまけで貰った一つのお菓子と、未来へのささやかな希望だった。


7. 遠野の霧、物語が生まれる場所

 海を離れ、ハナちゃんは内陸の「民話の里」・遠野とおのへと舵を切った。  夕暮れ時の遠野は、深い霧に包まれ、まるでおとぎ話のページの中に迷い込んだような錯覚を覚えさせた。    カッパが住むと言われる「カッパ淵」。  湊は、静まり返った水面を見つめた。    ここには、目に見える現実だけではない、目に見えない「物語」が大切に守られている。  人は、パンだけで生きるのではない。物語があって初めて、心に明かりが灯る。    湊は、ノートを取り出し、ペンを走らせた。   『二十八歳、八月の終わり。  私の日本一周は、単なる移動の記録ではなく、私の新しい「民話」になっていく。  失敗したこと、泣いたこと、笑ったこと。  それらが全部、いつか誰かに語れるような、愛おしい物語に変わるまで』    霧の向こうから、カッパの笑い声が聞こえたような気がした。  遠野の夜は、湊に「想像する力」を思い出させてくれた。自分の人生を、自分自身で彩っていく自由。それを、彼女は今、完全に手に入れていた。


8. 北海道への地平線、八戸の夜

 八月、最終日。  ハナちゃんは青森県八戸市はちのへしのフェリーターミナルに到着した。    目の前には、巨大なフェリー。  この船に乗れば、明日には憧れの、そして旅の最大の山場である北海道に辿り着く。    湊は、八戸の横丁にある小さな居酒屋で、一人「鯖の冷燻」を注文した。  脂の乗った鯖が、口の中でとろける。   「お姉さん、明日北海道に渡るの? 気をつけてね。あそこは、日本じゃないみたいに広いから」    隣の席の漁師風の男性が、地酒を片手に笑った。   「……楽しみです。ずっと、夢だったから」    そう。  二十代のうちにやりたかったこと。  日本一周。  その旅も、いよいよ「最終章」に差し掛かろうとしている。    湊は、ハナちゃんのキーをぎゅっと握りしめた。  鹿児島から五千五百キロ。  東北の夏は終わるが、彼女の心の中には、ねぶたの火が、三陸の青が、遠野の霧が、消えることのない道標として刻まれていた。    九月。実りの秋。  湊とハナちゃんの旅は、ついに北の大地へと足を踏み入れる。


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