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水平線を追い越して ―28歳、小さな愛車と私の日本一周300日―  作者: 久遠 睦


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雨の出雲、結びの神と本当の願い(島根・鳥取:6月〜7月)

第5章:雨の出雲、結びの神と本当の願い(島根・鳥取:6月〜7月)


1. 神々の国の、静かなる歓迎

 中国山地の深い霧を抜け、島根県に入った瞬間、みなとは肌をなでる空気の「重み」が変わったのを感じた。それは不快な湿気ではなく、まるで真綿に包まれているような、密度の高い静寂だった。    ハナちゃんのワイパーが、一定のリズムで雨を弾く。  国道9号線を西へ。日本海の荒々しい断崖が見え隠れする道中で、湊はふと、自分が「結び」の地へ向かっていることを意識した。    二十八歳。  世間一般では「結婚」という二文字が、人生の大きな命題として立ち塞がる時期だ。  東京にいた頃、湊の周りには常にその焦燥感が漂っていた。週末になれば誰かの結婚式の写真がSNSを埋め尽くし、独身の友人たちとの飲み会では、いつの間にか「良い出会いがない」という嘆きがメインディッシュになっていた。    湊自身も、かつてはそうだった。  誰かと繋がっていないと、社会という大きな海に一人で放り出されて、そのまま消えてしまうのではないか。そんな恐怖から逃れるために、必死に「誰か」を探していた時期もあった。    けれど、今。  雨の島根を走るハナちゃんの車内には、彼女一人の呼吸と、お気に入りのジャズの音色、そしてどこか誇らしげな孤独だけがあった。


2. 出雲大社、巨大な注連縄の下で

 出雲大社の勢溜せいだまりの鳥居の前に立った時、雨は一層激しさを増した。  湊は、お気に入りの紺色の傘を深く差し、玉砂利を踏みしめて歩き出した。   「ザッ、ザッ……」    雨音が、砂利を踏む音を包み込んでいく。  松並木が続く参道は、神域としての威厳に満ち、歩くほどに湊の心から余計な雑音が削ぎ落とされていく。    御本殿へと辿り着き、神楽殿の巨大な注連縄しめなわを見上げた瞬間、彼女は言葉を失った。  圧倒的な質量。それは、ただの藁の束ではない。数えきれないほどの人々の「願い」を束ね、支えてきた時間の集積のように見えた。    出雲大社では、参拝の作法は「二礼四拍手一礼」。  湊は、深く、深く頭を下げた。    ――良い縁がありますように。    かつてなら、そう願っただろう。具体的な誰かの顔や、理想の条件を並べて。  けれど、今の湊が心の中で呟いたのは、全く違う言葉だった。   「私は、私を幸せにするための縁を、私自身の力で結んでいけますように」    それは、神様へのお願いというより、自分自身への誓いだった。  他人に幸せにしてもらうのではなく、自分が自分であることに満足し、その上で世界と繋がっていく。  顔を上げた湊の瞳には、注連縄から滴り落ちる雨の雫が、ダイヤモンドのように美しく映っていた。


3. 出雲そばと、隣の旅人

 参拝を終えた湊は、冷えた体を温めるために近くの蕎麦屋に入った。  注文したのは、三段の割子わりごに盛られた「出雲そば」。    薬味を散らし、濃いめのつゆを回しかける。  蕎麦の実を殻ごと挽いた、黒っぽくて香りの強い麺を啜る。   「……あぁ、美味しい」    野性味のある蕎麦の香りが、鼻から抜けていく。  ふと見ると、隣の席で同じように割子そばを食べていた一人の女性が、湊に微笑みかけた。   「美味しいですよね。ここのお蕎麦」    女性は、湊よりも少し年上、三十代半ばくらいだろうか。大きなカメラバッグを足元に置いた、凛とした佇まいの人だった。   「はい。香りが強くて、びっくりしました」 「出雲の縁はね、蕎麦みたいに少し手強い方が、一度結ばれると解けないって言われてるんですよ」    彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。  話を聞くと、彼女は全国の伝統工芸を撮り歩いている写真家なのだという。   「二十八歳で日本一周。素敵ね。私もそれくらいの時に、大きな決断をしたわ」 「……後悔、しませんでしたか?」    湊が思わず尋ねると、彼女は蕎麦湯を湯呑みに注ぎながら、穏やかな口調で答えた。   「後悔なんて、してる暇がないくらい毎日が新しいわ。でもね、一番大切なのは『自分の選択に、自分で責任を持つ』ということ。それができれば、どんな道を選んでも、それはあなたにとっての正解になるのよ」    店を出る時、彼女は湊に一枚の名刺をくれた。そこには『縁は、追いかけるものではなく、自分を磨いた先に、向こうからやってくるもの』という手書きのメッセージが添えられていた。


4. 日御碕灯台、最果ての白

 島根の旅の締めくくりに、湊は「日御碕ひのみさき灯台」へとハナちゃんを走らせた。  日本一の高さを誇る、真っ白な石造りの灯台。    雨が上がり、雲の間から射し込んだ夕陽が、灯台を神々しく照らし出していた。  湊は螺旋階段を登り、展望デッキへと出た。   「……っ!」    吹き付ける強い風とともに、眼前に広がったのは、どこまでも続く日本海の水平線。  太平洋のような荒々しさとも、瀬戸内海の穏やかさとも違う、深く、重厚な「藍色」の世界。    ここが、一つの境界線だ。    湊は、手すりをぎゅっと握りしめた。  鹿児島から始まった旅。四国を越え、本州を北上し、今、私はこの断崖の上に立っている。    ハナちゃんの走行距離は、もうすぐ三千キロを超えようとしている。  それは、私が私を信じて歩んできた「証明」だ。    夕陽が海に沈み、灯台の巨大なレンズに火が灯る。  暗闇の中、一筋の光が海面を規則正しく掃いていく。    ――迷ってもいい。  ――でも、自分の光を消してはいけない。    湊は、その光を胸の奥に刻み込み、静かに灯台を後にした。  駐車場で待つハナちゃんの小さなフォルムが、今の彼女には、どんな豪華客船よりも頼もしく見えた。



5. 鳥取大砂丘、足跡の消える場所

 島根を離れ、さらに東へ。ハナちゃんのタイヤが鳥取県へと足を踏み入れた頃、暦は七月へと捲られていた。  六月のしっとりとした雨空が嘘のように、空は高く、突き抜けるようなコバルトブルーに染まっている。アスファルトから立ち上る陽炎が、ハナちゃんのボンネットをゆらゆらと揺らしていた。


 辿り着いた鳥取砂丘。  車外へ出た瞬間、みなとを襲ったのは、熱を含んだ風と、視界を埋め尽くす圧倒的な「黄金色」だった。


「……海じゃないのに、海みたい」


 砂の丘、通称「馬の背」へと向かって歩き出す。一歩踏み出すたびに、スニーカーが砂に沈み、これまでの舗装された道とは違う「歩きにくさ」が足首に伝わる。  湊はふと、その感覚が人生そのものに似ていると思った。  会社員時代、彼女は常に、誰かが敷いてくれた固く平坦なレールの上を歩いていた。そこは歩きやすいけれど、どこへ向かっているのかを意識する必要すらなかった。  けれど今、彼女は自分の足で、不安定な砂の上を進んでいる。


 丘の頂上に辿り着くと、目の前には紺碧の日本海が広がっていた。  背後には果てしない砂の海。前方には果てしない水の海。その境界線に立って、湊は砂の上に指で文字を書いた。


『株式会社〇〇 営業事務 湊』


 それは、五年間彼女を縛り、同時に守っていた「名前」だった。  書いたそばから、乾いた風が砂を運び、文字の輪郭をぼかしていく。    一分。いや、三十秒も経たないうちに、そこには何もなかったかのような、波打つ風紋ふもんだけが残された。   「……あぁ、そうか」    湊の口から、微かな笑みが漏れた。  あんなに必死に守ろうとしていた肩書きも、世間体も、広大な自然の前では、たった一吹きの風で消えてしまうほど軽いものだったのだ。    自分が歩いてきた足跡も、数分後には消えてしまうだろう。  でも、それは「無」になることではない。  足跡が消えるからこそ、また次の新しい一歩を、真っ白な場所へ踏み出すことができる。    湊は深く息を吸い込み、海に向かって背伸びをした。  砂丘を吹き抜ける風が、彼女の中に残っていた最後の「東京の重荷」を、日本海の彼方へと連れ去っていった。


6. 二十世紀梨の瑞々しさと、ハナちゃんの休息

 砂丘を歩き回り、汗ばんだ湊がハナちゃんへと戻ると、車内はサウナのような熱気に包まれていた。   「ハナちゃん、お待たせ。暑かったね」    エアコンを最大にし、湊は近くの道の駅で買ったばかりの「二十世紀梨」を取り出した。  鳥取の誇る、夏の宝物。  ナイフで皮を剥くと、透き通った果肉から果汁が滴り落ちる。    シャリッ、という心地よい音。  口いっぱいに広がる、圧倒的な瑞々しさと、気品のある甘酸っぱさ。   「……生き返る……」    渇いた喉に、梨のジュースが染み渡っていく。  この梨も、厳しい冬を越え、春の嵐に耐え、夏の太陽を一身に浴びて、この一滴の甘みを作り上げたのだ。    自分の旅も、もうすぐ四ヶ月。  鹿児島での不安。熊本での決意。瀬戸内の解放。島根での誓い。  それらの経験が、自分の中で少しずつ「甘み」に変わっているだろうか。    湊は、ハナちゃんのダッシュボードに置いた日本地図に、鳥取のスタンプを押した。  地図はだいぶ色づいてきた。でも、北の大地・北海道までは、まだ遥か遠い。   「焦らなくていいんだよね。梨だって、時間をかけて甘くなるんだから」    最後の一切れを頬張り、湊はハナちゃんのエンジンをかけた。  目指すは、兵庫県北部から京都へと続く、美しい海岸線。  夏の匂いが、いよいよ濃くなってきた。


7. 山陰海岸ジオパーク、断崖の歌

 鳥取から兵庫県へと入る道は、世界ジオパークにも認定されている「山陰海岸」の絶景ルートだ。    複雑に入り組んだリアス式海岸。  波に削られた荒々しい岩肌と、そこに根を張る松の緑。  ハナちゃんは、細いトンネルをいくつも抜け、まるで龍の背中をなぞるように海岸線を走る。    窓を開けると、激しい波しぶきの音が、ダイレクトに車内に飛び込んできた。   「すごい……ハナちゃん、負けないで!」    アップダウンの激しい道に、ハナちゃんのエンジンは必死に応える。  湊はハンドルを握る手に力を込めた。  かつての自分なら、こんな厳しい道は避けて通っただろう。安全で、効率的で、疲れない道を選んでいたはずだ。    でも今は、この「険しさ」が愛おしい。  険しさを乗り越えた先に見える、誰もいない小さな入り江の青さ。  それを知ってしまったから。    夕暮れ時。  兵庫県の新温泉町しんおんせんちょうに辿り着いた湊は、日本海に沈む夕日を眺めながら、自分への手紙を綴った。   『七月。夏が始まった。  鳥取の砂は、私の過去を消してくれた。  兵庫の海は、私に強さを教えてくれた。    二十八歳の夏。  私は今、人生で一番、私らしく呼吸している』


8. 北陸へのプレリュード

 湊の旅は、山陰を終え、いよいよ近畿、そして北陸へと足を踏み入れようとしていた。    京都府・天橋立を通過し、若狭湾を望む福井県へ。  そこには、伝統ある北陸の情緒と、夏の力強い生命力が待っている。    ハナちゃんのヘッドライトが、夜の帳を切り裂いて進む。  走行距離は三千五百キロを突破。    湊は、助手席に置いたカメラをチラリと見た。  そこには、砂丘で消えた文字の代わりに、力強く、前を向いて歩く彼女自身の影が写っている。    

それは、彼女の「内省の旅」が終わり、「躍動の旅」が始まる合図だった。    夜の潮風を受けながら、ミルクティー色の軽自動車は、新しい明日に向かって加速していった。



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