四国の色彩、架け橋の向こう側へ(高知・香川・岡山:6月)
第4章:四国の色彩、架け橋の向こう側へ(高知・香川・岡山:6月)
1. 太平洋の咆哮、土佐の「青」
松山・道後温泉で心身を清めた湊が次に向かったのは、愛媛の穏やかさとは正反対の表情を持つ、高知県だった。 国道33号線を南下し、四国山地を越えていく。ハナちゃんの小さなエンジンは、峠越えのたびに一生懸命な音を立てるが、その振動さえ今の湊には心地よい「生」の証明だった。
高知に入った途端、視界が開けた。 そこに広がっていたのは、瀬戸内海の「鏡のような青」とは全く異なる、狂暴なまでに深い「群青色」――太平洋だ。
「……すごい。吸い込まれそう」
桂浜にハナちゃんを止め、車から降りた瞬間、潮騒の音が爆音のように耳を打った。 波が砕け散る真っ白な飛沫。水平線が緩やかに弧を描いているのがわかるほどの圧倒的な広さ。 湊は、坂本龍馬の銅像の隣に立ち、彼が見つめる先――遥か彼方の世界に思いを馳せた。
二十代の半ば、彼女にとっての「世界」は、会社のオフィスと自宅、そして時折行くお洒落なカフェの半径数キロメートルに過ぎなかった。 でも今は違う。 足元には四国の大地、目の前には世界に続く大海原。 湊は、砂浜に座り込んで、しばらくの間ただ波を見ていた。 高知の女性たちは「はちきん(男勝り)」と言われるほど芯が強い。この荒波に晒されて生きていれば、自ずと魂も鍛えられるのだろう。
「私も、もっと強くなれるかな」
独り言は、風にかき消された。 けれど、ポケットの中で握りしめたハナちゃんのキーの感触が、彼女に確かな勇気を与えてくれた。
2. 仁淀ブルーと、透明な自分
高知を去る前に、湊はどうしても訪れたい場所があった。「仁淀ブルー」として知られる仁淀川の流域だ。 中津渓谷の遊歩道を歩くと、そこには現実のものとは思えないほどの、透き通った青い水が流れていた。
底にある石の一つひとつが、すぐそこにあるかのように見える。 湊は、冷たい水に指先を浸した。 ――透明であること。 それは、旅を始めてから彼女が密かに目指している状態だった。 誰かの期待に応えるための色、社会に適合するための色、自分を隠すための保護色。 そんな色の塗り重ねを全部脱ぎ捨てて、この水のようになりたい。 渓谷を抜ける風が、彼女の耳元で囁く。 「あなたはもう、十分にあなた自身の光を反射しているよ」 湊は、愛用のカメラでその「青」を切り取った。 出来上がった写真は、彼女の心の鏡そのもののように澄んでいた。
3. 香川の階段、八百八段の「現在地」
高知から北上し、徳島を経由して、旅は香川県へと入る。 六月に入り、空は少しずつ湿り気を帯びてきた。紫陽花の花が、道端で鮮やかな紫や青に色づき始めている。 香川といえば、金刀比羅宮――通称「こんぴらさん」だ。 御本宮まで、七百八十五段の石段。 湊は、麓の店で杖を借り、一歩ずつ階段を踏みしめた。 三段、十段、五十段……。 息が上がり、ふくらはぎがパンパンに張ってくる。 「……っ、意外と、きついな」 すれ違う参拝客たちが「あと少しですよ」と声をかけてくれる。 ふと、湊はこれを自分の「人生」に重ねていた。 会社員時代、彼女はいつも「ゴール」ばかりを見て焦っていた。早く役職に就かなきゃ、早く自立しなきゃ、早く幸せを掴まなきゃ。 でも、階段を登るのに必要なのは、未来への焦りではなく、今の「一歩」への集中だ。 七百八十五段目を登りきり、御本宮から讃岐平野を見下ろしたとき、湊は激しい動悸の中に、深い充足感を見出した。 遠くに霞んで見えるのは、讃岐富士。 自分の足で登ったからこそ、この景色は美しい。 そして、参拝を終えた後のご褒美は、もちろん讃岐うどんだ。 セルフ形式の店に入り、湯気の立ち上る釜揚げうどんに、生卵と出汁醤油をかける。 「……美味しい」 コシの強い麺が、身体の中に力を注ぎ込んでくれる。 シンプルであればあるほど、素材の良さが際立つ。 湊は、自分の旅も、このうどんのように「シンプルで、力強いもの」でありたいと願った。
4. 瀬戸大橋、空を飛ぶハナちゃん
いよいよ、四国を離れる時が来た。 坂出インターチェンジから、瀬戸中央自動車道へ。 ハナちゃんのエンジンを一段、高く回す。 目の前に現れたのは、巨大な白い鉄の巨像。瀬戸大橋だ。 吊橋、斜張橋、トラス橋が連続する、全長約13キロメートルの架け橋。 ハナちゃんが橋の上に足を踏み入れた瞬間、湊の視界から「陸地」が消えた。 「わぁ……ハナちゃん、飛んでるみたい!」 右も左も、見渡す限りの海。 下を覗けば、遥か遠くの海面を巨大な貨物船が白い航跡を描いて進んでいる。 橋の継ぎ目を越えるたびに「ガタン、ガタン」という小気味よい音が響く。 この巨大な橋を作るために、どれほどの人々の情熱と、計算と、歳月が費やされたのだろう。 そして今、その結晶の上を、小さな私の軽自動車が走っている。 四国という島での一ヶ月間。 松山の湯、高知の波、香川のうどん。 それらの経験が、湊の中で一つの「糸」となり、今、本州へと繋がろうとしていた。 橋の中央付近、与島パーキングエリアで車を止める。 展望台に立ち、今渡ってきた橋を振り返る。 「私は、繋がったんだ」 出発前の、何も持っていなかった自分。 そして今、四国の色彩を胸に刻んだ自分。 その二つを、この大きな橋がしっかりと結びつけてくれている。 再びハンドルを握り、アクセルを一定に保つ。 ハナちゃんは滑るように走り、トンネルを抜け――。 視界が開けた先に、「岡山県」の看板が見えた。 六月の風は、少しだけ湿っぽく、けれど確実に初夏の匂いを運んできていた。 本州、再上陸。 湊の日本一周、その「本編」がいよいよ加速し始めていた。
5. 倉敷、紫陽花の涙と「かつての居場所」
瀬戸大橋を渡り、岡山県に入ると、空は予報通りしっとりとした灰色の雲に覆われた。 ハナちゃんのワイパーが、規則正しいリズムでフロントガラスの雫を拭っていく。六月の雨は、鹿児島のあの激しい雨とは違い、絹糸のように細く、音もなく街を濡らしていた。
湊がハナちゃんを止めたのは、倉敷美観地区のすぐ近くにある駐車場だ。 傘を差し、柳の並木が続く倉敷川沿いを歩く。白壁の蔵屋敷、格子窓の町家。雨に濡れた石畳は、鈍い銀色に光り、どこか異国のような、あるいは遠い昔に迷い込んだような情緒を醸し出している。
「……落ち着く」
ふと漏れた独り言。 その時、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。 画面を見ると、かつて同じ部署で働いていた後輩の結衣からのLINEだった。 『湊さん、元気ですか? 日本一周、インスタで見てます。……実は今日、湊さんが担当してた案件でトラブルがあって。誰も資料の場所がわからなくて、みんなで湊さんの凄さを痛感してます。「湊さんがいた穴は、そう簡単には埋まらないね」って、課長もボヤいてました』
柳の葉から滴り落ちた水滴が、湊の傘を叩いた。 湊は、立ち止まってその文字を何度も読み返した。 辞める時は、自分の仕事なんて誰にでも代わりが務まる「歯車の回転」でしかないと思っていた。毎日繰り返されるルーティン、積み上げられる書類。自分がいなくなっても、世界は何事もなかったかのように回り続けるのだと、どこか自嘲気味に考えていた。 けれど、結衣の言葉は、湊がそこにいた「証」をそっと差し出してくれた。 私がいた五年間は、決して無価値ではなかった。誰かの助けになり、誰かのリズムを支えていた。その事実が、冷たい雨の中で湊の胸をじんわりと温めた。
「……ありがとう、結衣ちゃん」
湊は返信を打たずに、空を見上げた。 今の自分には、もうその穴を埋めに戻ることはできない。でも、その穴があったからこそ、今の自由な自分がある。かつての居場所に感謝しながら、彼女は再び歩き出した。
6. きびだんごの勇気、自分を「もてなす」時間
美観地区の路地裏に、ひっそりと佇む古い和菓子屋を見つけた。 店先には「名物・きびだんご」の文字。 湊は小さな暖簾をくぐり、お茶ときびだんごのセットを注文した。 運ばれてきたのは、一口サイズの可愛らしいお団子。桃太郎の伝説で、仲間を増やすために分け与えられたあの魔法の食べ物だ。 一口食べると、素朴なキビの香りと、上品な甘さが口いっぱいに広がった。 桃太郎は、きびだんご一つで犬、猿、雉を仲間にした。 私の日本一周における「きびだんご」は何だろう。 それはきっと、旅先で出会った人々の言葉であり、ハナちゃんとの信頼関係であり、そして何より、自分自身を信じるという「勇気」だ。 「私は、私一人で鬼退治に行くわけじゃないんだ」 ハナちゃんがいて、鹿児島の大造さんや、大分のおばあちゃん、由布院のレイコさんがくれた言葉がある。それらを心という名の腰袋に詰め込んで、私はこの先の長い道を歩いている。 店を出る頃には、雨は小降りになっていた。 湊は、美観地区の風景を一枚のスケッチのように記憶に焼き付けた。 岡山での時間は、派手ではないけれど、彼女の心に「自分の価値」という静かな灯火を灯してくれた。
7. 山陰の霧、未知へのプロローグ
岡山を後にした湊は、国道180号線を北へと舵を切った。 中国山地を縦断し、いよいよ日本海側、山陰地方へと向かう。 峠道に差し掛かると、深い霧が辺りを包み込んだ。 ハナちゃんのフォグランプが、乳白色の世界をぼんやりと照らす。 視界はわずか数メートル。けれど、湊に不安はなかった。 霧の向こうには、島根の出雲大社があり、鳥取の大砂丘がある。 そして、七月になれば北陸の、八月になれば東北の夏が待っている。 ハナちゃんのエンジン音が、山々に響く。 それは、28歳の女性が、誰のせいにもせず、自分の意志だけで進んでいる力強い咆哮のようだった。 「ハナちゃん、霧の先に行こう。新しい私が待ってるよ」 湊は、霧の中に消えていくアスファルトを見つめ、少しだけギアを落として、着実に、一歩ずつ、本州の奥深くへと分け入っていった。




