しまなみ、青に溶ける(山口・広島・愛媛:5月)
第3章:しまなみ、青に溶ける(山口・広島・愛媛:5月)
1. 鏡のような海を渡って
五月、ゴールデンウィークの喧騒がようやく落ち着きを見せ始めた頃。 大分から山口へと渡るフェリーのデッキで、湊は五月の柔らかな日差しを浴びていた。 豊後水道を抜けて瀬戸内海に入ると、海面は驚くほど穏やかになった。九州の荒々しく力強い波とは違う、まるで巨大な鏡のような、静謐な青。 「……綺麗。本当に、湖みたい」 ハナちゃんの隣に立ち、湊は小さく独り言をこぼした。 二十代でやりたかったこと、日本一周。その旅も三ヶ月目に入ろうとしている。 会社員時代の五月といえば、いわゆる「五月病」の季節だった。連休明けの重い体を引きずり、満員電車の冷房に震えながら、次の祝日までを指折り数えて過ごす日々。 けれど今の湊にあるのは、そんな憂鬱とは無縁の、透き通った心の静寂だった。 山口県の徳山港に降り立ち、ハナちゃんのタイヤが本州の土を踏む。 ここから広島を経て、憧れの「しまなみ海道」を渡り、四国・愛媛へと向かう。それが今月のルートだ。 国道188号線、通称「瀬戸内オーシャンロード」を東へ走る。 左手には新緑の山々、右手には穏やかな瀬戸内海。 窓を開けると、潮の香りに混じって、どこか甘い花の匂いが鼻腔をくすぐった。 「ハナちゃん、本州だよ。また新しい道だね」 ダッシュボードに置いた小さなカメラが、キラリと光を反射した。
2. 岩国・錦帯橋、構造の美学
広島に入る手前、湊は岩国にある錦帯橋に立ち寄った。 五連のアーチが連なる木造の橋。その幾何学的な美しさをファインダー越しに覗いたとき、湊はふと、自分の「仕事」について思い出していた。 営業事務としての五年間。彼女が作ってきた数えきれないほどの書類や見積書、工程表。それらはすべて、目に見えない「構造」を作る作業だった。 当時は、自分がやっていることは単なる情報の処理でしかないと思っていた。けれど、この精密に組み上げられた橋の裏側を覗き込んだとき、彼女は気づいた。 ――バラバラの部品も、正しく組み合わされば、これほどまでに強くて美しい「道」になるんだ。 自分の五年間も、決して無駄な時間の羅列ではなかった。 一つひとつの地味な作業が、今の自分を支える「土台」という名のアーチを作っていたのだ。 橋を渡りきった先で、湊は地元の特産である「岩国寿司」を買い、河原でハナちゃんのハッチバックを開けて腰掛けた。 彩り豊かな押し寿司を頬張りながら、彼女はノートに書き留める。 【旅の気づきメモ:34日目】 自分の過去を「バラバラの部品」のまま放置しないこと。旅を通じて、それを一つの美しい橋に組み上げていくこと。 そんな青臭い台詞を書いても、ここでは誰も笑わない。 河原を流れる錦川のせせらぎが、彼女の言葉を優しく肯定してくれているようだった。
3. 尾道、坂道と猫と「自分のリズム」
広島市内の活気ある街並みを抜け、夕暮れ時に辿り着いたのは、坂の街・尾道だった。 迷路のように入り組んだ細い坂道。 ハナちゃんを麓の駐車場に預け、湊はスニーカーの紐を締め直した。 「今日は自分の足で、この街を読み解いてみよう」 石段を登るたびに、視界の下方に広がる尾道水道が姿を変えていく。 古い空き家を改装したカフェ、ひっそりと佇むお寺、そして、当たり前のように道端で昼寝をする猫たち。 千光寺へと続く坂道の途中で、一匹の三毛猫が湊の行く手を塞ぐように座り込んでいた。 湊が立ち止まると、猫は一度だけ欠伸をして、また目を閉じた。 「ごめんね、お邪魔するね」 その猫の、あまりにも「自由」で「マイペース」な姿に、湊は思わず笑みがこぼれた。 東京にいた頃、彼女は常に「誰かのリズム」に合わせて生きていた。 電話が鳴ればすぐに応じ、メールが来れば即座に返し、他人の顔色を伺って歩く速度すら変えていた。 けれど、この坂道では、誰も急いでいない。 一歩一歩、自分の呼吸に合わせて階段を登る。疲れたら立ち止まり、海からの風を感じる。 そんな当たり前のことが、二十八歳の自分にとってはいかに得難い贅沢だったか。 頂上に着く頃には、街は濃紺の夜の帳に包まれていた。 対岸の向島の明かりが、水面に揺れて宝石を撒き散らしたように輝いている。 湊は、暗がりのベンチで、スマートフォンの電源を入れた。 SNSを開くと、同僚たちがアップした華やかな東京の夜景や、仕事の愚痴が流れてくる。 以前なら、それを見て「置いていかれている」という焦燥感に駆られていただろう。 でも今は、違う。 「私は今、この静かな青の中にいたい」 そう確信して、彼女は静かに画面を閉じた。
4. しまなみ海道、青のグラデーション
翌朝。いよいよ旅のハイライト、しまなみ海道へのアタックが始まった。 広島県尾道市から愛媛県今治市まで、瀬戸内海に浮かぶ島々を六つの橋で結ぶ、全長約60キロの海の道。 ハナちゃんのエンジンが、潮風を受けて軽快に鳴る。 最初の橋、因島大橋を渡った瞬間、湊は思わず「わあっ!」と声を上げた。 そこには、三六〇度、見たこともないような「青」の世界が広がっていた。 空の透き通った水色。 浅瀬のエメラルドグリーン。 深い海溝の群青色。 それらが混ざり合い、溶け合いながら、ハナちゃんの進む先を彩っている。 島々にはレモンの木が茂り、五月の風に乗って、爽やかな柑橘の香りが車内を満たした。 生口島の「しまなみレモン」の直売所に立ち寄ると、日焼けした元気な店主の女性が声をかけてきた。 「お姉さん、いい車に乗ってるねぇ。日本一周? かっこいいじゃない!」 「ありがとうございます。二十代のうちに、どうしても見ておきたかった景色なんです」 「いいよ、いいよ! 景色は逃げないけど、それを見て何を感じるかっていう『感性』は、今のあんたにしかないもんだから。しっかり胸に焼き付けていきなさい」 店主からおまけで貰ったレモンを一口かじると、目が覚めるような酸っぱさと、その奥にある芳醇な甘みが弾けた。 ――今の私にしかない感性。 その言葉が、湊の胸に深く刺さった。 28歳。若さと成熟の境目。 不安定で、脆くて、けれど何にでもなれるような気がする、奇跡のような年齢。 この「青」を、今の私がどう受け止めるか。それが、この旅の本当の収穫なのかもしれない。 ハナちゃんは、多々羅大橋の真っ白なケーブルの下を駆け抜け、いよいよ愛媛県へと入っていく。 橋を渡るたびに、湊の心は少しずつ軽くなり、それと反比例するように、彼女の中の「日本一周」というパズルが、確かな形を成して繋がっていった。
5. 大三島の静寂、星と対話する夜
しまなみ海道のほぼ中央に位置する大三島に辿り着いたとき、太陽は瀬戸内海の多島美をオレンジ色に染め上げ、ゆっくりと水平線の向こう側へ溶け出していた。 今夜の宿は、海にほど近い小さなオートキャンプ場だ。ゴールデンウィークを過ぎた平日の夜、利用者は湊の他に、ベテランと思わしきソロキャンパーの男性が一人いるだけだった。
ハナちゃんのリアゲートを開け、湊は小さな椅子を砂浜に近い場所に置いた。 都会の夜は、街灯やビルの明かりで空が白茶けている。けれどここでは、闇が本来の深さを取り戻していた。
「……一、二、三……」
数えきれないほどの星が、降るように輝き始める。 湊はふと、二十四歳の頃の自分を思い出していた。あの頃の彼女は、終電間際の駅のホームで、いつも足元ばかりを見ていた。スマートフォンの画面に映る、終わらなかった仕事のリマインド。SNSで流れてくる、自分より少しだけ幸せそうな誰かの近況。 空を見上げる余裕なんて、一秒もなかった。
「ハナちゃん、私たちは今、宇宙の真下にいるんだね」
暗闇の中で、ハナちゃんの丸いヘッドライトが月明かりを反射して優しく光っている。 湊は、昼間に生口島で買ったレモンを炭酸水に絞り、ゆっくりと喉に流し込んだ。爽やかな苦味が、今日一日の運転の疲れを心地よく癒していく。
隣のサイトから、薪が爆ぜる「パチッ」という乾いた音が聞こえてきた。 ベテランキャンパーの男性が、焚き火の火を眺めながら静かにウィスキーを嗜んでいる。彼は湊の視線に気づくと、軽く会釈をした。
「いい夜ですね。しまなみの星は、日本一優しいですよ」
その言葉に、湊は小さく頷いた。 強い光ではない。けれど、そっと寄り添ってくれるような、柔らかな瞬き。 湊はノートを取り出し、ヘッドランプの明かりを頼りに、誰に見せるでもない言葉を綴った。
「二十八歳。私はまだ、何者でもない。けれど、この星空の下では、何者でもないことが、こんなにも自由で、誇らしい」
ペンを置くと、潮騒の音が以前よりもクリアに耳に届いた。 自分を縛り付けていた「肩書き」や「役割」を、瀬戸内の夜風が少しずつ剥ぎ取ってくれているようだった。
6. 今治の「柔らかさ」に包まれて
翌朝、湊は最後の大橋である来島海峡大橋を渡った。 世界初の三連吊橋。その巨大なワイヤーが描く放物線は、まるで天へと続く階段のようだった。 橋を渡りきり、愛媛県今治市の地に降り立ったとき、湊は言いようのない達成感に包まれた。
「やったね、ハナちゃん。四国上陸だよ!」
今治といえば、タオルの街だ。 湊は、自分への旅の記念に、少し奮発して高級な今治タオルを買うことにした。 立ち寄った工房の直売所で、職人らしき女性が数枚のタオルを並べてくれた。
「触ってみて。これは『柔らかさ』の種類が違うから」
湊が指先を触れさせると、驚くほどふわふわとした感触が肌を包み込んだ。 単に柔らかいだけではない。そこには、芯のある強さと、すべてを包み込むような包容力があった。
「いいタオルはね、水を吸うのが仕事だけど、その分、自分を乾かすのも上手なの。溜め込まないで、次に進む。人間も同じやね」
店主の伊予弁が、湊の心に心地よく響く。 会社員時代の湊は、常に「溜め込む」タイプだった。理不尽な怒りも、将来への不安も、飲み込めない言葉も。それらが心の中に澱のように溜まり、いつの間にか自分を重く、硬くしてしまっていた。
「……乾かすのが上手、か」
湊は、淡い空色のバスタオルを購入した。 このタオルを使うたびに、溜め込むのではなく、軽やかに手放していくことを思い出そう。そう心に決めた。
7. 道後温泉、20代の澱を洗い流す儀式
夕刻。ハナちゃんは松山市内へ入り、日本最古の温泉・道後温泉へと辿り着いた。 その象徴である道後温泉本館。明治時代の面影を残す重厚な木造建築は、まるでそこだけ時間が止まっているかのような不思議な威厳を放っている。
湊は、タオルと石鹸を持って、木造の階段を上った。 歴史の重みを感じさせる脱衣所で浴衣を脱ぎ、湯船へと向かう。 石造りの円形の湯船。そこから溢れ出す「神の湯」は、無色透明で、肌に吸い付くように滑らかだった。
「ふぅ……っ」
お湯に肩まで浸かると、全身の力がふっと抜けた。 目を閉じると、これまでの人生の断片が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。 大学の卒業式、期待と不安が入り混じった入社式。 初めて大きなミスをして泣きながら帰った夜。 同僚の結婚報告に、おめでとうと言いながら心がざわついたあの日。
それらすべての記憶が、道後の名湯に溶け出していく。 二十代という、がむしゃらで、残酷で、でも眩しかった時間。 湊は、自分の体を丁寧に洗った。 指先の一つひとつまで、これまで頑張って働いてくれた「自分」を労わるように。 湯から上がり、本館の三階にある「振鷺閣」から聞こえてくる刻太鼓の音を聞きながら、湊は冷たい瓶の牛乳を飲んだ。 鏡に映る自分は、少しだけ、いや、随分と晴れやかな顔をしていた。 お風呂の熱と歴史の香りが、彼女の中にあった「会社員・湊」を完全に過去のものへと変えてくれた。
8. 松山の夕日、六月へのプレリュード
第3章の締めくくり。湊は、松山市内を見下ろす松山城の城山に立っていた。 夕陽が伊予灘に沈もうとしている。
空は紫から濃紺へと移り変わり、街の明かりがぽつぽつと灯り始める。 瀬戸内の「青」に溶け込んだ五月が終わろうとしていた。
「ハナちゃん、次はどこへ行こうか」
駐車場で待つ愛車を思い浮かべる。 次は、六月。 本州に戻り、雨の季節を迎える山陰地方、島根や鳥取を目指すことになるだろう。 雨の旅は、きっと晴れの日とは違う困難があるはずだ。 けれど、今の湊には不安はなかった。 大三島の星が、今治のタオルの柔らかさが、そして道後の湯が、彼女の心に確かな「根っこ」を張らせてくれたから。 湊は、ポケットからスマートフォンのカメラを取り出した。 夕陽を背にした、自分の影を撮る。 その影は、出発前よりも少しだけ大きく、そして凛として見えた。 「二十八歳、日本一周。……まだまだ、面白いことはこれからだよね」 彼女は軽やかな足取りで、坂道を下り始めた。 ハナちゃんの待つ場所へ。 そして、まだ見ぬ明日へと続く、道の先へ。




