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水平線を追い越して ―28歳、小さな愛車と私の日本一周300日―  作者: 久遠 睦


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阿蘇の風と、私の履歴書(熊本・大分:4月)

第2章:阿蘇の風と、私の履歴書(熊本・大分:4月)


1. 萌えいずる緑のカルデラ

 四月。日本列島が薄紅色から鮮やかな新緑へと衣替えを始める季節。  みなとの愛車「ハナちゃん」は、熊本県が誇る世界最大級のカルデラ、阿蘇の懐へと飛び込んでいた。


 窓を全開にすると、飛び込んできたのは「命の匂い」だった。  冬の間、野焼きによって真っ黒に焦げていた草原から、わずか数週間で力強く芽吹いた産毛のような草の緑。それは、都会の公園で見かける手入れされた芝生とは違う、野性的で、圧倒的な生命力に満ちた色だ。


「すごい……ハナちゃん、見て。世界が作り直されてるみたい」


 ハンドルを握る湊の口角が、自然と上がる。  鹿児島を出発してから約二週間。彼女の肌は、ほんのりと健康的な色に焼け、目つきからは会社員時代の「防衛本能」のような鋭さが消えていた。代わりに宿ったのは、見たものすべてを吸収しようとする、子供のような純粋な好奇心だ。


 阿蘇のパノラマラインを登っていくにつれ、視界はさらに開けていく。  九十九折のカーブを曲がるたびに、眼下に広がる阿蘇五岳の山並みが表情を変える。  軽自動車のハナちゃんにとって、この急勾配は決して楽な道ではない。エンジンは「頑張れ、頑張れ」と健気に唸っている。湊はそんな相棒のハンドルを優しく撫でた。


「ゆっくりでいいよ。急ぐ旅じゃないんだから」


 かつての彼女なら、目的地に一分一秒でも早く着くことばかりを考えていただろう。最短ルート、最大効率、想定内の結果。それが社会人としての正義だと信じていたからだ。  けれど、この広大な草原の中では、そんな「効率」という言葉がいかに矮小なものかを思い知らされる。雲の影がゆっくりと山肌を撫でていく速度。それが、今の湊にとっての標準速度スタンダードだった。


2. 草千里ヶ浜での「再会」

 標高を上げ、辿り着いたのは草千里ヶくさせんりがはま。  大きな池の周りに広がる大草原には、放牧された馬たちがのんびりと草を食んでいる。  湊は駐車場にハナちゃんを止め、深呼吸をしながら車外へ出た。


 空気が、驚くほど澄んでいる。  肺の奥まで洗われるような冷涼な風が、彼女の髪をさらっていった。


 湊は展望台のベンチに座り、おもむろにバックパックから一冊のクリアファイルを取り出した。  中に入っているのは、出発前に念のためにと数枚コピーしておいた、自分の「履歴書」だ。    ――みなと。28歳。  ――〇〇商社 営業事務。5年間勤務。    白い紙に整然と並ぶ文字。そこには、彼女が20代の半分を捧げた「証明」が記されている。  会社を辞める直前、この書類を眺めながら彼女が感じていたのは、「空白」への恐怖だった。履歴書の経歴が途切れること。それは社会からのドロップアウトであり、二度と元の場所には戻れないことを意味するのだと。


 けれど、目の前に広がる阿蘇の絶景を背景にその紙を眺めてみると、不思議な感情が湧いてきた。


「この5年間があったから、私は今、ここに立っていられるんだ」


 事務職で培った、正確なスケジュール管理能力があったから、この旅の綿密なルートを組むことができた。  理不尽な要求にも笑顔で応えた忍耐強さがあったから、慣れない車中泊の不便さも「工夫」として楽しめるようになった。  そして何より、あの退屈な毎日の中で必死に貯めた300万円が、今、私をどこまでも遠くへ連れて行ってくれる。


 履歴書の「空白」は、決して無意味な穴ではない。  それは、これから新しい経験で埋めていくための、贅沢な「余白」なのだ。


 湊は履歴書をファイルに戻し、代わりに一眼レフカメラを手にとった。  ファインダー越しに、悠々と歩く馬の親子を捉える。  シャッターを切る音。それは、彼女が過去の自分を肯定し、新しい自分へと更新アップデートした合図のようだった。


3. 赤牛丼と、おばあちゃんの言葉

 昼食は、阿蘇の名物「赤牛あかうし丼」と決めていた。  行列のできる有名店を避け、あえて一本裏道に入ったところにある、小さなお食事処に暖簾をくぐる。


「いらっしゃい。お姉さん、一人で珍しいね」


 迎えてくれたのは、腰の曲がった、けれど目の奥がキラキラと輝くおばあちゃんだった。  運ばれてきた丼には、ミディアムレアに焼き上げられた赤身肉が、これでもかというほど並んでいる。  特製のタレと、地元のわさびを少し乗せて口に運ぶ。


「……んんっ!」


 噛みしめるたびに、肉本来の力強い旨味が溢れ出す。余計な脂がなく、さっぱりとしているのに、エネルギーが体の隅々にまで満ちていく感覚。


「美味しいです、本当に」 「そうかい、よかった。阿蘇の牛はね、この厳しい冬を乗り越えて、春の若草を食べて育つからね。力が湧いてくるだろう?」


 おばあちゃんは、湊の横に座って優しく微笑んだ。


「お姉さん、いい顔してるね。何か大きな決心をしてここに来たんだろう?」 「……わかりますか?」 「長く商売してるとね、なんとなくね。でもね、若いうちにたくさん道に迷いなさい。真っ直ぐな道しか知らない人は、景色を楽しむ余裕がないからね」


 湊は、最後の一粒までお米をきれいに平らげた。  ご馳走様、という言葉に、これまで以上に実感がこもる。  都会での食事は「消費」だった。けれど、ここでの食事は「継承」だ。阿蘇の土と水、そしてそこで生きる人々の想いを受け取り、自分の血肉にしていく。


「おばあちゃん、ありがとうございます。私、もっとたくさん迷ってみます」


 店を出る湊の背中に、おばあちゃんの温かな声が追いかけてきた。 「気をつけてね、旅人さん!」


4. やまなみハイウェイ、風になる

 阿蘇を後にしたハナちゃんは、いよいよ九州屈指の絶景ドライブコース「やまなみハイウェイ」へと足を踏み入れた。  熊本から大分へと続く、標高1000メートル付近を駆け抜ける道。


 そこは、まさに「空を走る道」だった。  ガードレールの向こう側には、どこまでも続く九重連山の稜線が重なり合い、青空との境界線を曖昧にさせている。


 湊は、車内でお気に入りのプレイリストを流した。  軽快なアコースティックギターの音色に合わせて、ハナちゃんがリズムを刻む。    ――20代のうちにやりたかったこと。  ――日本一周。時間をかけて、全国の土地を巡りたい。


 数年前、手帳に殴り書きしたあの夢。  当時の自分に教えてあげたい。  今のあなたは、世界で一番贅沢な風を浴びている。    ハナちゃんのバックミラーに、遠ざかっていく阿蘇の噴煙が見えた。  さようなら、熊本。  こんにちは、大分。    標識が「大分県」に変わった瞬間、湊はアクセルを少しだけ強く踏み込んだ。  目的地は、湯けむり立ちのぼる温泉の街・別府。  新しい景色が、また彼女を待っている。


5. 湯けむりの迷宮、別府の洗礼

 やまなみハイウェイを駆け抜け、標高を下げていくと、ハナちゃんのフロントガラス越しに不思議な光景が広がった。  別府市街。そこは、街のあちこちから白い龍が立ち昇っているかのように、無数の湯けむりが空へと吸い込まれていた。   「……すごい。街全体が呼吸してるみたい」    夕暮れ時の別府は、硫黄の香りとどこか懐かしい生活の匂いが混じり合っていた。湊は、今夜の拠点として鉄輪かんなわ温泉の近くにあるコインパーキングを選んだ。  車を降りると、足元のアスファルトからほんのりと熱が伝わってくる。地球がすぐそこで脈打っているのを感じて、湊の心も自然と高鳴った。


 今夜は、この旅で初めて「自炊」に挑戦することに決めていた。といっても、コンロを使うのではない。別府伝統の調理法「地獄蒸し」だ。  共同の蒸し場へ行くと、地元の野菜や卵を持った観光客や地元の人々で賑わっていた。   「お姉ちゃん、初めて? 蓋を開ける時は火傷に気をつけてな」    近くにいたおじさんが、手慣れた手つきで重い石の蓋を持ち上げてくれる。  湊がスーパーで買ったサツマイモ、キャベツ、そして卵をザルに乗せ、噴気の中へと滑り込ませる。一瞬で視界が真っ白な蒸気に包まれた。    待つこと十五分。  再び蓋を開けると、そこには魔法がかかったような光景があった。  ただの野菜が、艶やかに、そして力強く輝いている。    備え付けのベンチで、熱々のサツマイモを割る。  黄金色の湯気が立ち上がり、口に運ぶと驚くほどの甘みが広がった。調味料なんていらない。大地の熱が、素材が本来持っていた生命力を限界まで引き出していた。   「私と同じだ」    ふと、そんな思いが頭をよぎった。  東京にいた頃の自分は、過剰な装飾や、誰かに見せるための「味付け」ばかりを気にしていた。ブランド物のバッグ、流行のカフェ、そして履歴書を飾るためのスキル。  でも、それらを全部剥ぎ取って、こうして大自然の熱(旅という経験)に晒されてみれば、自分の中にあった素朴な「良さ」が、少しずつ顔を出してくる。    ホクホクとした芋を噛みしめながら、湊は心の底から「生きている」と実感していた。


6. 地獄巡りと、内なる澱の浄化

 翌朝、湊は別府名物の「地獄巡り」へと足を運んだ。  コバルトブルーの「海地獄」、真っ赤な泥が沸き立つ「血の池地獄」。    ポコポコと音を立てて湧き上がる熱泥を見つめていると、かつての自分が抱えていた「負の感情」を思い出す。  自分より先に結婚していく後輩への焦り。  定時で帰る自分に投げかけられた、先輩の冷ややかな視線。  何を成し遂げることもできないまま、ただ消費されていくだけの自分への苛立ち。    それらは、自分の中に溜まった「地獄」だった。  けれど、目の前で煮え滾る泥は、決して醜くはなかった。それは地球が生きている証であり、内側にある膨大なエネルギーが外へ出ようとする健全な姿だ。   「溜め込んでいるから苦しいんだ。こうして外に出せば、それは景色になるんだよね」    湊は、売店で買ったポストカードに、今の気持ちを走り書きした。  宛先は、自分自身。   『28歳の湊へ。  あなたは今、別府の地獄の前にいます。  中に溜まったモヤモヤも、全部熱湯と一緒に吐き出しちゃいなさい。  空っぽになったら、そこには新しい風が入ってくるから』    ポストに投函した瞬間、胸のつかえがまた一つ、スッと消えた気がした。


7. ゲストハウスでの「履歴書」

 その夜、湊は車中泊を休み、由布院の近くにある小さなゲストハウスに泊まることにした。  たまには足を伸ばして寝たい、というハナちゃんへの気遣い(と自分への甘やかし)だ。    共用ラウンジでノートを広げていると、隣に座っていた女性が声をかけてきた。  ショートカットが似合う、三十代半ばくらいの快活そうな女性だ。   「素敵なノートね。旅の記録?」 「あ、はい。日本一周をしていて……」    彼女の名前はレイコさん。かつて大手広告代理店を辞め、今はフリーランスのカメラマンをしながら世界中を旅しているという。  湊が阿蘇で考えた「履歴書の余白」の話をすると、レイコさんは目を細めて笑った。   「面白いわね。じゃあ、今の湊さんの『新しい履歴書』には何が書ける?」 「えっ……と……」    湊はペンを握り直し、少し考えてから、ノートに書き連ねた。  


スキル1: 軽自動車一台で、どこでも寝室に変えられる空間設営能力。


スキル2: 見知らぬ土地で、一番美味しそうな店を嗅ぎ分ける直感力。


スキル3: 車のバッテリーが上がっても、笑って助けを呼べる柔軟性。


スキル4: 28歳という年齢を、重荷ではなく「武器」として捉える思考転換。    書き終えてそれを見せると、レイコさんは大きく頷いた。   「最高じゃない。それ、どの会社も教えられない貴重なスキルよ。特に4番目は、これからの人生で一番役に立つわ」    レイコさんは窓の外、月明かりに照らされた由布岳を指差した。   「山はね、登るルートも速度も人それぞれ。でも、頂上から見る景色が美しいのは、自分の足で登った人だけよ。湊さんは今、自分だけのルートを切り拓いてる。それは誇っていいことなのよ」    その夜、湊はレイコさんと遅くまで語り合った。  仕事のこと、恋のこと、将来の不安。  東京では「弱み」だと思って誰にも言えなかったことが、ここでは「旅のエピソード」として輝きを放っていた。


8. 由布院の朝霧、そして瀬戸内へ

 四月も下旬。  由布院の朝は、深い霧に包まれていた。  幻想的な白の世界の中で、ハナちゃんのエンジンをかける。   「ハナちゃん、九州もいよいよ終盤だね」    大分港を目指して車を走らせる。  バックミラーに映る九州の山並みは、以前よりもずっと親しみ深く感じられた。    港に到着し、巨大なフェリーのランプウェイを登る。  ハナちゃんが船の甲板に固定され、湊は展望デッキへと向かった。    ゆっくりと岸壁が離れていく。  三月に鹿児島からスタートした旅。  灰にまみれ、砂に埋まり、草原を駆け、温泉に溶けた九州の日々。    28歳の湊は、今、確実に変わっていた。  以前のような、何かに追われるような焦燥感はない。  ただ、次に待っている中国・四国地方の「青」への期待に、胸が静かに高鳴っている。   「ありがとう、九州」    遠ざかる九州の大地に向かって、湊は小さく手を振った。  フェリーは豊後水道を抜け、瀬戸内海へと舵を切る。  五月。新緑の香りと、穏やかな海の物語が、そこから始まろうとしていた。



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