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水平線を追い越して ―28歳、小さな愛車と私の日本一周300日―  作者: 久遠 睦


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スタートラインは、南風の中で(鹿児島:3月)

第1章:スタートラインは、南風の中で(鹿児島:3月)


1. 境界線を越える音

 軽自動車のハンドルに伝わる振動は、心なしか心臓の鼓動に似ていた。  三月、中旬。  東京から高速道路を走り継ぎ、いくつもの県境を越えた。サービスエリアで仮眠を取り、コンビニのコーヒーで無理やり頭を覚醒させる。そんな、どこか「逃亡者」のような数日間を経て、ようやく辿り着いた九州の南端。   「……やっと、着いた」


 みなとは、思わず独り言を漏らした。  視界の先に広がるのは、抜けるような青空と、その中央に鎮座する圧倒的な質量感――桜島だ。  山頂からたなびく白煙は、まるで巨大な生き物の吐息のようだった。都会のビル群に切り取られた空しか知らなかった湊にとって、その無骨で、けれど神々しい姿は、ここが自分の日常から遠く切り離された場所であることを冷酷なまでに突きつけていた。


 愛車の「ハナちゃん」こと、ミルクティー色のミラココアが、坂道で少しだけ苦しそうな音を立てる。  二十八歳の女一人が、軽自動車で日本一周。  出発前、親友の真由美にそう告げた時の彼女の顔が、今も脳裏に焼き付いている。 『湊、正気? 二十八だよ? キャリアの空白、どうすんの? 帰ってきたら二十九、下手したら三十じゃん』  真由美の言葉は、親友ゆえの正論だった。真由美自身は、去年の冬に三歳年上の商社マンと結婚し、今は都内の新築マンションで「丁寧な暮らし」を送っている。彼女にとっての幸せは、確かなレールの上にある。    けれど、湊にとっての幸せは、いつの間にかレールの外側にしか存在しないものになっていた。    三百万の軍資金。  それは、真由美のような豪華な結婚式を挙げることも、将来のための投資に回すこともできたはずの金額だ。でも、湊はこのお金を、自分の「瞳の輝きを取り戻すため」に使うと決めた。


 国道10号線を走り、鹿児島市内へと入る。  路面電車がガタゴトと音を立てて並走し、街の至る所に「灰」が舞っている。洗車したばかりのハナちゃんのフロントガラスが、またたく間にうっすらと白く汚れていく。  東京なら、誰もが舌打ちをするような事態だ。けれどここでは、人々はその灰とともに当たり前に生活している。傘を差し、灰を払い、時に笑い合いながら。    その光景に、湊は不思議な救いを感じた。 「汚れても、また洗えばいいんだよね」


2. 灰と、白熊と、苦い記憶

 車を市内のコインパーキングに止め、湊はまず「天文館てんもんかん」のアーケードを目指した。  鹿児島に来たなら、まずはこれを食べなければならないと思っていたものがある。    元祖「白熊」のかき氷だ。    老舗の喫茶店に入り、注文したそれが運ばれてきた時、湊は思わず息を呑んだ。  高く盛られた真っ白な練乳かき氷。そこに、レーズンや色とりどりのフルーツが散りばめられ、上から見ると確かに「熊」の顔に見える。    一口、スプーンですくって口に運ぶ。  強烈な甘さと、氷が溶ける瞬間の冷たさが、長距離運転で火照った頭を強制的に冷却していく。   「おいしい……」    不意に、目元が熱くなった。  最後にこんな風に「ただ、おいしい」という感情だけで食事をしたのは、いつだっただろう。  会社員時代、昼休みはいつもデスクでパンを齧りながらメールをチェックしていた。夜は夜で、残業終わりにコンビニの惣菜をハイボールで流し込み、泥のように眠るだけ。食事は「栄養補給」か「ストレス発散」でしかなく、その味を心から楽しむ余裕なんて、どこにもなかった。    ふと、隣のテーブルに座る二人組の女性が目に入った。  おそらく地元の大学生だろう。キャッキャと笑いながら、一つの白熊をシェアしている。 「ねえ、就活どうする? やっぱり地元残る?」 「うーん、でも一回は東京行ってみたいかな」    その会話が、かつての自分に重なる。  期待に胸を膨らませて上京した、二十二歳の春。  あの頃の自分が見たら、今の私はどう映るだろう。  五年間のキャリアを捨て、軽自動車に全財産を積み込んで放浪する二十八歳。  「情けない」と思うだろうか。それとも「かっこいい」と思ってくれるだろうか。    答えは出ない。  ただ、溶けていく白熊の甘さだけが、今の湊にとって唯一の真実だった。


3. 指宿、砂に埋もれる「過去」

 鹿児島市内を後にし、次に向かったのは薩摩半島の南端、指宿いぶすきだった。    海岸沿いを走る車窓からは、穏やかな錦江湾と、その向こうに佇む開聞岳かいもんだけ――通称「薩摩富士」が見える。  完璧な円錐形をしたその山は、力強く、それでいてどこか優しい。    指宿の名物といえば、砂蒸し風呂だ。  湊は、専用の浴衣に着替え、波打ち際の砂浜へと向かった。  そこには、ずらりと横たわる人々が、首まで砂に埋まっているというシュールな光景が広がっていた。   「はい、こちらへどうぞ。ゆっくり寝てくださいね」    係のおじさんが、スコップでザクザクと砂をかけていく。  ずっしりとした、重み。  そして、下から突き上げてくるような、地球の熱。   「あ……」    思わず声が漏れた。  温かい、というよりは「熱い」に近い。でも、その熱さが心地よい。  砂の重みは、自分がいかに多くの不必要なものを背負ってきたかを教えてくれるようだった。  上司の顔色、同僚への嫉妬、将来への漠然とした不安、誰かと比較しては落ち込む卑屈な心。    それらが、砂の重圧によってギュッと凝縮され、汗とともに体外へ押し出されていく。    目を閉じると、波の音だけが聞こえてくる。  ザザーン、ザザーン。  それは、地球が刻む大きな呼吸のようだった。    ふと、隣に横たわっていた女性が話しかけてきた。 「お姉さん、一人旅?」    目を開けると、そこには白髪が混じった、品の良い老婦人がいた。同じように首まで砂に埋まっている。 「あ、はい。そうです。鹿児島は初めてで」 「そう。いいわね、若いうちの一人旅。私はね、主人に先立たれてから、こうして毎年ここに来るのよ。砂に埋まってるとね、なんだか、あの世にいる主人と少しだけ繋がれるような気がしてね」    老婦人は、穏やかに笑った。 「お姉さん、何か重たいものを抱えてる顔をしてたから。でもね、大丈夫よ。ここの砂は、全部吸い取ってくれるから。戻る時は、軽くなって帰りなさいね」    その言葉に、湊の胸の奥がギュッとなった。  自分はまだ、何かを失ったわけではない。ただ、新しい何かを始めるために、古い自分を脱ぎ捨てようとしているだけだ。    十分後。  砂から這い出した時、湊の体は驚くほど軽くなっていた。  シャワーで砂を洗い流すと、肌は赤らみ、目は以前よりもはっきりと開いている気がした。    脱衣所の鏡に映る自分を見る。  メイクは落ち、髪はボサボサ。でも、そこには確かに「湊」という一人の女性が生きていた。   「よし」    小さく呟き、彼女は再びハナちゃんのキーを握った。


4. 車中泊、第一夜の洗礼

 その夜、湊は指宿市内のキャンプ場に車を止めた。  いよいよ、本格的な車中泊の始まりだ。    ハナちゃんのシートをフルフラットにし、あらかじめ用意していた低反発のマットを敷く。  その上に寝袋を広げれば、そこはもう、彼女だけの小さな寝室だった。    夕食は、地元のスーパーで買った「カツオの腹皮はらかわ」の塩焼きと、薩摩揚げ、そして一本の地ビール。  小さなキャンプ用のテーブルをハナちゃんのダッシュボードの前に置き、LEDランタンの明かりを灯す。   「お疲れさま、私。そして、よろしくね、鹿児島」    ビールを喉に流し込む。  キリッとした苦味が、今日一日の緊張を溶かしていく。    車内は、決して広くはない。手を伸ばせばすぐに天井に届き、寝返りを打つたびに車体がわずかに揺れる。  けれど、この狭さが、今の湊には心地よかった。  東京の1Kのマンション。無駄に広いキッチン、一度も使わなかったベランダ、空虚な壁。  それに比べて、ここには必要なものしかない。    ふと、窓の外を見ると、都会では決して見ることのできない星空が広がっていた。    ――私は今、本当に自由なんだ。    そう実感した瞬間、目から涙がこぼれた。  悲しくはない。ただ、あまりにも解放感が強すぎて、感情のダムが決壊してしまったのだ。    明日からは、北へ。  熊本、大分、そして福岡へ。  まだ旅は始まったばかり。  三月、鹿児島の夜風は、湊の頬を優しく撫で、新しい明日へと誘っていた。



5. 旅の洗礼と、小さなヒーロー

 翌朝、湊を揺り起こしたのは、ハナちゃんのルーフを叩く雨音だった。  三月の鹿児島の雨は、どこか温かい。車内の窓ガラスは湊の体温で白く曇り、外の世界との境界を曖昧にさせていた。   「……っつ、痛たた」    初めての車中泊。どれだけ厚いマットを敷いても、やはり自宅のベッドのようにはいかない。固まった節々を伸ばしながら、湊は狭い車内で身をよじった。  結露をタオルで拭き取り、カセットコンロで湯を沸かす。車内に広がるインスタントコーヒーの香りが、少しずつ彼女を「旅人」の顔に戻していく。    だが、出発しようとキーを回した瞬間、湊の血の気が引いた。   「キュル……キュルル……」    力ない音がして、エンジンがかからない。   「えっ、嘘でしょ? ハナちゃん、昨日まで元気だったじゃない」    何度も試すが、結果は同じだ。頭の中に「修理代」「レッカー」「旅の中断」という不吉な単語が並ぶ。都会ならスマホ一つでロードサービスを呼べば済む話だが、ここは見知らぬ土地の、静かなキャンプ場だ。    パニックになりかけた湊の窓を、コンコンと叩く者がいた。   「お姉ちゃん、バッテリーかね?」    そこに立っていたのは、作業着に身を包んだ、日に焼けた初老の男性だった。近くでキャンプ場の管理を手伝っているという。   「あ、あの、エンジンがかからなくて……昨日、室内灯をつけっぱなしにしちゃったかも……」    湊の声は情けなく震えていた。  男性――大造さんは、ガハハと豪快に笑うと、自分の軽トラックをハナちゃんの前に回してくれた。   「心配せんでよか。旅にハプニングはつきものたい」    手際よくブースターケーブルを繋ぎ、火花が散る。大造さんの合図でキーを回すと、ハナちゃんのエンジンが力強く目覚めた。   「……よかったぁ」    安堵で膝から崩れ落ちそうになる湊に、大造さんは缶コーヒーを差し出した。   「日本一周のステッカー、後ろに貼っとるね。28歳か。俺の娘もそれくらいやけど、毎日会社と家の往復で死んだような顔しとる。お姉ちゃんみたいに、バカなことできるうちにやっときなさい」   「バカなこと、ですか」   「褒め言葉よ。レールを外れる勇気がない奴が、一番損をする。鹿児島はよかところやっど。しっかり楽しんでいけ」    大造さんの無骨な手が、ハナちゃんのボンネットをポンと叩いた。  それは、見知らぬ誰かから贈られた、初めての「肯定」だった。


6. 霧島神宮、朱色の誓い

 雨が上がり、霧が立ち込める山道を北上する。  ハナちゃんのエンジン音を聞きながら、湊は自分の中にあった「完璧主義」が少しずつ崩れていくのを感じていた。  会社員時代、ミスは許されなかった。スケジュールは分刻みで、不測の事態は「無能」の証だった。でも、この旅では、バッテリーが上がることさえも、誰かと出会うためのエッセンスになる。    辿り着いたのは、霧島神宮。  深い森の中に現れた朱塗りの社殿は、雨上がりの陽光を浴びて、燃えるような鮮やかさを放っていた。    湊は長い参道を歩きながら、背筋が伸びるのを感じた。  賽銭箱に五円玉を投げ入れ、二礼二拍手一拝。  願ったのは、再就職の成功でも、良縁でもなかった。   「この旅を、最後まで私の足で歩ききれますように」    ふと横を見ると、自分と同じくらいの年齢の女性が、ベビーカーを押しながら夫と仲睦まじく歩いていた。女性の左手薬指には、上品なダイヤの指輪が光っている。  一瞬、胸の奥がチクリと痛んだ。  もし、あのまま東京で働いていたら。もし、マッチングアプリで出会ったあの男性と、我慢して付き合い続けていたら。  今頃私は、あの女性の側にいたのかもしれない。    けれど、湊はすぐに顔を上げた。  今の自分には、ダイヤの指輪はないけれど、ハナちゃんのキーがある。三百万円の自由がある。そして、これから北上していく果てしない道のりがある。   「私は、こっちを選んだんだ」    社務所で「交通安全」の御守りを買った。ハナちゃんのルームミラーにそれを吊るすと、ハナちゃんが少しだけ誇らしげに見えた。


7. 黒豚の脂と、孤独のスパイス

 鹿児島最後の夜は、自分へのご褒美に「黒豚しゃぶしゃぶ」の店を選んだ。  一人で入るには勇気のいる、老舗の佇まい。   「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」    仲居さんの視線に、かつての湊なら「寂しい女だと思われていないか」と身構えていただろう。だが今は、堂々と胸を張る。  運ばれてきた黒豚は、芸術品のように美しいピンク色をしていた。    黄金色の出汁にくぐらせ、ポン酢ではなく「そばつゆ」でいただくのが鹿児島流だという。   「……っ!」    口に入れた瞬間、脂が甘く溶け出した。豚肉特有の臭みは一切なく、ただ純粋な旨味だけが広がる。    美味しいものを、一人で、全神経を集中させて味わう。  それは、究極の贅沢だった。    隣の座敷からは、サラリーマンたちの宴会の声が聞こえてくる。 「今年の予算がどうの」「部長の機嫌がどうの」  その会話は、まるで遠い異国の言語のように聞こえた。    一ヶ月前まで、自分もその騒音の一部だった。  飲み会の隅っこで、愛想笑いを浮かべながら、早く帰って泥のように眠りたいと願っていた。    今の湊は、誰に気を遣うこともなく、最後の一片まで黒豚を堪能し、〆の雑炊をゆっくりと啜る。  孤独は、自由の別名だ。  その味が、少しだけ大人びた苦味を伴って、彼女の身体に染み渡っていった。


8. 境界線の向こう側(鹿児島から熊本へ)

 三月下旬。  ハナちゃんの走行距離は、鹿児島を出発してから既に数百キロを刻んでいた。    国道3号線を北へ。  車窓に流れる景色が、ダイナミックな火山灰の街から、次第に穏やかな田園風景へと変わっていく。    熊本県境。  小さな看板が見えた時、湊はハナちゃんを路肩に止めた。    車から降りると、風の匂いが変わっていた。  鹿児島の、あの力強い南風ではない。少しだけ冷たさを孕んだ、春の柔らかな風。    湊はガードレールに腰掛け、これまで過ごした鹿児島の日々を思い返した。  白熊の甘さ、砂蒸し風呂の重み、大造さんの缶コーヒー、霧島の静寂。    まだ旅は始まったばかりだ。  四十七都道府県のうち、まだ一か所を終えたに過ぎない。  けれど、湊の心境は、出発前とは劇的に変わっていた。   「20代でやりたかったこと、一つ目クリア」    彼女は、スマートフォンのカメラを自分に向けた。  背景には「熊本県」の看板。  画面に映る湊の顔は、少し日焼けして、でも東京にいた頃よりもずっと、生き生きとした瞳をしていた。   「次は、熊本。ハナちゃん、行こうか」    エンジンの始動は、今度は完璧だった。  ミルクティー色の軽自動車は、軽やかな音を立てて、境界線を越えていった。    湊の日本一周、300日の旅。  その最初の1ページが、鹿児島の灰と南風によって、力強く書き込まれた瞬間だった。


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