碧の洗礼 ―沖縄編・前編:南風と、脱ぎ捨てたコート―
第10章:碧の洗礼 ―沖縄編・前編:南風と、脱ぎ捨てたコート―
1. 境界線を越える熱
フェリー「あけぼの」の巨大なランプウェイが、ゆっくりと那覇港のコンクリートに接地した。重厚な鉄の音が響き、外光が暗い車両甲板へと差し込む。 湊は、ハナちゃんの運転席で、これまで一度も感じたことのない種類の「高揚」に震えていた。
ゆっくりとアクセルを踏み、ハナちゃんが沖縄の地に降り立つ。 その瞬間、窓から流れ込んできたのは、十二月の日本列島ではありえない、むせ返るような熱気と、生命の匂いだった。
「……あつい」
思わず声が漏れた。 数日前、東北のサービスエリアで震えながらハナちゃんの窓を閉めていたのが嘘のようだ。湊はすぐに路肩に車を止め、着込んでいたウールのコートを脱ぎ捨てた。ニットの袖を捲り上げると、むき出しになった腕に、湿り気を帯びた南風がまとわりつく。
それは、彼女が九ヶ月間、自分を縛り付けてきた「防衛本能」を一枚ずつ剥ぎ取られていくような感覚だった。
那覇の街は、極彩色の看板と、異国の言語のようなイントネーションの会話に溢れていた。 国道58号線を北上し始めると、街路樹のガジュマルが、まるで大地を掴む意思を持っているかのように、複雑な根をアスファルトの上に這わせている。その圧倒的な「生の肯定」を前に、湊の心は心地よく波打った。
「ハナちゃん、ついに来たんだよ。私たちは、本当に日本を縦断したんだ」
ハナちゃんのダッシュボードに置かれた、色褪せ、ボロボロになった全国地図。その上に、那覇のスタンプが力強く押される。 それは、28歳の湊が、自らの意志で勝ち取った最初の「勲章」だった。
2. 知念岬、水平線に浮かぶ「鏡」
那覇を抜け、湊は本島南部の知念岬へと向かった。 そこは、太平洋を一望できる絶壁の岬だ。
車を降り、芝生の広がる遊歩道を歩くと、視界が突然、抜けるような「青」に支配された。 「……っ!」 言葉を失う、とはこういうことか。 眼下に広がるのは、珊瑚礁が作り出す幾層ものグラデーション。透き通った浅瀬のターコイズブルーから、深い海溝のサファイアブルーへ。 水平線は、定規で引いたように真っ直ぐで、空と海の境界線が溶け合っている。 湊は、展望台の手すりに寄りかかり、しばらくの間、呼吸を忘れてその青を見つめていた。 三月の鹿児島。 四月の熊本。 五月のしまなみ。 六月の島根。 七月の北陸。 八月の東北。 九月の北海道。 これまでの旅で見てきた、どの海とも違う。 沖縄の海は、すべてを包み込む「許し」の色をしていた。 会社員時代、彼女は常に「正解」を求めていた。 誰かに評価されること、期待に応えること、正しくあること。 でも、この広大な青を前にすれば、正解なんてどこにもないのだと思い知らされる。海はただそこにあり、太陽はすべてを等しく照らす。 「私は、私でいいんだ」 九ヶ月かけて、ようやく辿り着いた、あまりにもシンプルで、けれど最も困難だった答え。 湊の目から、一筋の涙がこぼれ、沖縄の熱い風にさらわれていった。
3. ゲストハウスの夜、命薬の味
その夜、湊は車中泊を休み、本部町にある小さなゲストハウスに泊まることにした。 「はい、これ。命薬さぁ」 宿の女将さんが差し出してくれたのは、島豆腐とゴーヤのチャンプルー、そして透き通ったシークヮーサーのジュースだった。 「命薬……ですか?」 「そう。心と体に効く、最高の薬。お姉さん、いい旅をしてきた顔をしてるけど、少し肩に力が入りすぎてるね。沖縄ではね、頑張らなくていいんだよ」 女将さんの温かな伊予弁ならぬ「ウチナーグチ」が、湊の心に染み渡る。 苦味のあるゴーヤを噛みしめる。 それは、人生の苦さを知っているからこそ感じられる、深い旨味だった。 同じ宿に泊まっていた、地元の工芸家だという青年が、三線を奏で始めた。 ポロン、ポロンという素朴な音色。 湊は、その音色に身を任せながら、自分の300万円の「軍資金」のことを思い出していた。 残り、あとわずか。 でも、後悔は一ミリもなかった。 もし、このお金を銀行に預けたまま、あのオフィスで働き続けていたら。 私は、この風の匂いも、この三線の音色も、このチャンプルーの苦さも知らずに、20代を終えていただろう。 それは、どんな贅沢な海外旅行よりも、どんな高価なブランドバッグよりも、私の人生を豊かにしてくれた。 湊は、静かに目を閉じた。 明日は、いよいよこの旅の「最果て」へ向かう。 ハナちゃんと共に。




