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水平線を追い越して ―28歳、小さな愛車と私の日本一周300日―  作者: 久遠 睦


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砂時計をひっくり返す

序章:砂時計をひっくり返す


 午前八時三十分。スマートフォンのアラームが、枕元で無機質な電子音を奏でる。  みなとは重い瞼を押し上げ、白茶けた天井をじっと見つめた。ワンルームの狭い部屋。カーテンの隙間から差し込む光には、都会特有の埃が白く浮いている。   「……あと、三日」    掠れた声で呟く。それは、この部屋を引き払うまでのカウントダウンであり、五年間の会社員生活に終止符を打つまでの猶予だった。


 二十八歳。  大学を卒業して入社した中堅の商社では、営業事務として「そつなく」働いてきた。  伝票の処理、会議資料の作成、取引先からの理不尽な電話対応。湊は、周囲が期待する「若手女性社員」のロールを完璧に演じていた。お茶汲みはもう過去の遺物だが、それでも飲み会では空いたグラスに目ざとく気づき、上司の自慢話には適切なタイミングで相槌を打つ。そんな「処世術」だけが、彼女の手に残った唯一のスキルだった。


灰色のルーティン

 かつての彼女には、もっと鮮やかな色彩があったはずだった。  二十代前半の頃、手帳の裏表紙にこっそり書き留めた「いつかやりたいことリスト」。  その筆頭にあったのが、『日本一周。時間をかけて、自分の足で、すべての都道府県を巡る』という夢だ。    けれど、社会という大きな歯車に組み込まれた瞬間、夢は「いつか」という名のゴミ箱に放り込まれた。    毎朝、満員電車に揺られながら、湊は窓に映る自分の顔を見る。  メイクは完璧。髪も整っている。でも、瞳の奥が濁っている。  隣に立つ同世代の女性は、指輪をはめた手で熱心にスマートフォンのブライダルサイトを眺めている。別の車両では、同期の男が昇進試験の参考書を必死にめくっている。    ――私は、どこへ向かっているんだろう。    答えの出ない問いを、毎日、駅の改札に飲み込ませていた。


決意の引き金

 転機は、去年の秋に訪れた。  長年、実家で可愛がっていた老犬が死んだという知らせを聞いた夜のことだ。  仕事のトラブルで帰宅が深夜になり、最期に立ち会うことも、声をかけることもできなかった。    冷めたコンビニ弁当を口に運びながら、湊は不意に涙が止まらなくなった。  悲しみというより、恐怖だった。  このまま、何かに追われ、何かを諦め、自分の大切なものが指の間からこぼれ落ちていくのを眺めるだけの人生が、あと何十年も続くのか。    気づけば、彼女はクローゼットの奥から、ボロボロになった二十代前半の頃の手帳を引っ張り出していた。   『日本一周。時間をかけて、全国の土地を巡りたい』    色褪せたボールペンの文字が、暗闇の中で光って見えた。   「まだ、間に合うかな」    二十八歳。  世間は「もう遅い」と言うかもしれない。  再就職はどうするのか、結婚はどうするのか、将来の蓄えはどうするのか。  そんな正論のつぶてが飛んでくるのが容易に想像できた。    けれど、湊の心は決まっていた。  翌日から、彼女の「隠密行動」が始まった。


自由のための軍資金

 それからの湊は、人が変わったように節約に励んだ。  毎日のランチ代を浮かすために弁当を作り、付き合いだけの飲み会は「体調不良」を理由にすべて断った。    通帳の数字が増えていくたびに、彼女の背筋は少しずつ伸びていった。    三百万。  それは、彼女が五年間の労働と引き換えに手に入れた、自由へのパスポートだった。    そして、相棒となる「軽自動車」を選んだ。  馬力はない。室内も決して広くはない。  けれど、その小回りの利く小さな車体は、臆病で、それでいて大胆な自分自身に似ている気がした。   「ハナちゃん」と名付けたその車で、彼女は地図を広げた。    3月。春の訪れとともに鹿児島からスタートする。  そこから桜前線を追いかけるように北上し、新緑の季節を山陰で過ごし、夏を東北の祭りで燃やし、10月には紅葉の北海道へ。  そして年末、一年の終わりを告げる頃にフェリーで沖縄へ渡る。    それは、誰に強制されるでもない、自分だけの暦。


さよなら、昨日までの私

 退職当日。  湊は、デスクを綺麗に片付けた。  「お世話になりました」という定型句とともに配った菓子折り。  「寂しくなるね」「次は決まってるの?」という、好奇心半分、同情半分の言葉たち。    湊はただ、微笑んで首を振った。  行き先を告げる必要はない。  彼女が向かうのは、会社名や役職という肩書きが一切通用しない、真っ白な地図の上なのだから。    オフィスビルの重い回転ドアを抜けた時、春を予感させる冷たい風が頬を打った。  見上げた夜空には、都会のビルに切り取られた小さな星が見えた。    明日、この部屋を出る。  軽自動車のキーを握り、南へ向かう。    二十代のうちにやりたかったこと。  それを、二十代の終わりに、私は私にプレゼントするんだ。    湊は小さく深呼吸をして、駅へと続く階段を下りていった。  その足取りは、昨日までとは比べ物にならないほど軽やかだった。


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