第8話 消して
喉がカラカラだ。
水が欲しい。
今は煙草じゃなくて。
水が──。
ガタガタと震える体を右手で抑え込む。
向こうの景色が見える犬の体が全身の毛を逆立てて大きくなり──咆哮した。
俺に群がっていた魑魅魍魎が吹き飛ばされる……が、消えてなくなったのは三分の一だけだ。
木の枝が生えた妖怪は
全く微動だにせずに
そこにいた。
「……はっ、はっ……」
短い呼吸しかできない俺は、どうやって逃げればいいかの算段も立てられない。
犬はまだそこにいるものの、戦力は微々たるものだろう。
ダメだ
もうダメだ
このまま殺される──
恐怖のあまりぎゅっと目を瞑った。
「うっ、おぇっ……」
急に眩暈が起きて吐きそうになる。
「はっ……はぁっ……あ、れ?」
今目の前にいた化け物たちは
すべて消え去っていた。
「……はぁっ、はぁっ、なん、なんで……」
「──センセ!!」
廊下の向こうから鬼村の声が聞こえてくる。それに安堵し俺がその場にへたり込むと、犬も同時に消えていった。
「だいじょーぶ!? 声が聞こえたから来てみたけど、もう終わっちゃった系!?」
「あ、ああ……」
「もー! あの日下とか言う奴があたしに話しかけてこなかったら間に合ってたのにー!」
鬼村は俺の肩を掴みがくがくと揺らしてくる。正直、さっきの緊張と眩暈のせいで今にも吐きそうだ。俺はくわえたままになっていた煙草を口から離した。
「あ! さっきあの禿げた人こっちに向かってたよ!」
「禿げた人?」
誰か考えようとして、すぐにそれが教頭だとわかった。
やばいな、煙草の火……まだ点いてる。
「センセ、ほら!」
「ん?」
鬼村が、笑みを浮かべて俺に掌を向けた。
真っ赤な掌を。
「……?」
肌は俺と同じような色をしているはずなのに、俺に見せた掌だけがペンキで塗ったみたいに赤い。
「ほらほら、来ちゃうよ早く!」
「え?」
「煙草! 学校ん中で吸ったら怒られんでしょ? 消して!」
「け……ああ、吸い殻入れ……あれ、どこだっけ。いや、持ってくんの忘れたか……準備室に」
「消して!」
赤い掌が
俺の視界いっぱいに広がる。
あ
これで消せってことか。
「……って、んなことできるか馬鹿!!!」
「!!」
鬼村が驚いた顔をし
廊下の奥に教頭の姿が見えた瞬間
俺は煙草を右手の中で握りつぶした。
「っつう……!!」
「え、センセ、熱くないの!?」
「っっっ……あ、あちーに決まってんだろ……」
よろよろと立ち上がり、化学準備室のドアノブに手をかける。ふらふらになりながらも準備室から繋がる実験室へのドアを開け流し台へと近づいた。水を勢いよく出し、掌を冷やす。
「……いてぇー」
「センセー、なんであたしの手で火消さなかったの? あたしセンセーよりめっちゃ頑丈なんだけど?」
「アホか」
じんじんと痛む掌と、流しに落ちた煙草の吸殻を見つめた。吸い殻は水によって紙が溶かされ、中に少し残っていた煙草の葉がばらばらと排水溝に流れていく。
「生徒に煙草の火当てる教師とかクズすぎるだろ……」
「は? 教師と生徒の前に、人間と鬼じゃん」
「ここをどこだと思ってんだお前」
「……学校?」
鬼村が首を傾げた。
俺はそれを目の端で捉えてため息を吐く。
「そーだよ」
「でもさぁー……」
「あと、
綺麗な手してんだろ。
大事にしろ」
ぼそりと呟くように、言った。
鬼村がどんな表情してんのかは見るつもりもなかったけど、「えへへ」という反応が聞こえて俺は目を瞑った。見てやるもんか。
「セーンセ♡」
「なんだよ」
「今日は一緒におうちまで帰ろうね♪」
「どこで待ってるつもりだよ」
「教室♡」
「警備のおっちゃんに怒られるぞ」
「じゃあ怒られる時間になる前にセンセも帰ろ~」
「あのなぁ、家だと仕事にならな──」
鬼村の方を見ようとすると、すぐ傍に顔があった。
驚きのあまりつい固まってしまう。
「……なんだよ」
「ちゅーしよっかなって」
鬼村が目を閉じる。
艶やかな唇が迫ってくる。
──準備室の方のドアがノックされた。
「……はいはーい、今出まーす」
多分、教頭だ。
俺は鬼村を置いて準備室へと戻り、実験室への扉は閉める。
「ちぇー、もうちょっとでちゅーできそうだったのに」
ドア越しに聞こえた声とうるさく騒ぐ拍動を俺は無視した。
***
放課後、俺は職員室のデスクで仕事をしていた。クラス関係のものは全部こっちにあるのだ。授業関係は全部準備室、と分けている。いや嘘だ。たまにごちゃごちゃになる。もしも俺がきっちりやれる人間だったら今頃来客用スリッパじゃなくてちゃんと靴を履いてるだろう。
「はー……もう時間かよ」
「あれれ? 桃間先生もうお帰りですか?」
隣のデスクから積み上げられた書類を避けて顔を覗かせるのは、河原先生。仕事溜めすぎだろ。
「今日は早く帰る用事があって」
「へーめずらし! 惜しいなー明日だったら僕も早く上がって飲みに行ったのに~」
「先々週行ったじゃないですか、行きませんよ」
「桃間先生付き合い悪~い」
「他の先生誘えばいいじゃないすか」
パソコンを閉じ、USBを引っこ抜く。必要な書類をまとめて帰り支度を終えると、ガラガラと音を立てて回転するオフィスチェアから立ち上がった。
「……桃間先生、実は彼女とデートだったりして?」
「彼女なんていませんよ、河原先生じゃあるまいし」
「やだなぁ~、僕だっていませんよう」
「じゃ、お疲れ様です」
そう声をかけて俺はデスクから離れ、職員室を出た。鬼村が教室で待っている、と言っていたが教室を覗く気はない。そんなんしていたら他の先生になんと思われることか。
「あー、いでで」
右手の掌の小さな火傷が痛む。引き攣る感覚は数日はあるだろう。
「あんなかっこつけなくてもいーだろ俺……ガキかよ」
げんなりとして肩を落とす。何をやっているんだか。
階段を降り、職員玄関までやってくると俺は来客用スリッパをそのまま自分の下駄箱へと入れた。振り返って事務室を見るが、誰も咎めるような目はしていない。というか見ていない。
「早く靴買いに行かねーとな~……っと」
外靴に履き替えて外へと出る。若干暗くなり始めてはいるものの、まだ明るい時間帯に学校を出たのは久々だ。歩いて校門を目指していると、ふと隣に気配を感じた。
「センセ、かーえろ♪」
いつもの神出鬼没、鬼村だ。
どこから現れるんだか。
「……もしかしてお前、あっち側の世界通ってここまで来てるとか?」
「そーだよ」
当たり前のように言い、鬼村は鞄の中から出したパックジュースにストローを差した。
「あっちだったら廊下ダッシュしても、学校から飛び降りても怒られないじゃん?」
「……なるほど」
理解した顔をして俺は返事をしておいた。
飛び降りるって、なんだ。
あとこいつも他の妖怪たちもどうやって行き来してんだ。
「センセ、今日は帰ってお仕事? その間あたしがご飯作ってあげよっか~」
「お前飯作れんの?」
「作ったことない♡」
「人に飯作る時はまず練習してからにしろ! ってか部屋には入れねぇからな!」
「ケチ~」
「……入れねぇけど」
「?」
俺は家に着くまでの間に、鬼村と話をした。
でかい化け物が出たこと。
猿を召喚したこと。
そして──樹皮のような肌をした妖怪が現れたことを。




