第7話 ぼとぼと
壁に掛けられた時計の秒針がカチカチと音を立てている。それが妙に眠気を誘い、俺は本日五度目の大きな欠伸をした。
「……くっそー、眠すぎて来月のテスト準備全然進まねぇ」
昨日、この今いる化学準備室で俺と鬼村は馬鹿でかい妖怪に出くわした。すぐそばの窓にべったりと張り付いたでかい手と、ぎょろぎょろ動くこれまたでかい目玉だ。あんなもん見ちまったら気にせざるを得ない。俺は昨日の残業も早々に切り上げて仕事を家に持ち帰ったものの、カーテンの外が気になって仕方がなく、さらには夜全然眠ることもできなかった。
「あー……十五分くらい、仮眠……」
そう言って窓のすぐ下に置いてあるソファを見るが──あの場所でさすがに寝る気にはなれない。またあのばけもんが来たらと思うと、怖すぎる。
「この眠気さえなんとかなりゃー……」
『セーンセー!!』
「……?」
誰かの声が聞こえた。
誰かっつーか、多分、あいつだけど。
「今は授業中……あ?」
そうっと窓に近づき下を覗き込むと、そこにはジャージ姿の鬼村がいた。
「……何だよ」
窓を開けて仕方なし返事をしてやる。
どうやら二時限目は体育らしい。
「あたしねー、足ちょー速いから見ててー!!」
「短距離のタイム測定かー?」
「そー!」
そう言って鬼村は俺に手を振ると軽い足取りでグラウンドへ向かって行った。その様子を目で追うと、鬼村が他の女子たちと話してるのが見えた。
「……友達もちゃんとできてんだよなぁ」
──鬼がある日突然普通の人間の高校に来るなんてどうかしてる、やってけんのか、なんて思ってたけど……思っていたよりも随分と馴染んでいる。時々ズレたことを言うものの、他の生徒とぶつかることもないし、あの馬鹿力で物を壊すこともない。
鬼の姿の時、綺麗な顔してるとは思っていたが……制服を着ている姿を見るとどこかあどけない顔にも見える。勘違いかもしれねーけど。
「他の妖怪ってのも、ああやって人間社会に溶け込んでたりすんのかな」
俺は窓枠に寄り掛かって頬杖をつくと、女子たちが走り始めるのを見ていた。鬼村の番は次だ。俺が見ていることに気づいたのかこっちに向かって両手を振っている。他の奴になんて思われんのかとか気にしねーのか?
「……っつーか、あとで日下先生に俺が怒られるよ」
日下先生は、二年女子担当の体育教師だ。体育教師はうちの高校にあと二人ほどいる。
「お、走り出した…………………いや、速すぎだろ」
鬼村は圧倒的速さで駆け抜けた。
タイム測定していた日下先生もぽかんとした顔をしている。
鬼村は走り抜けてそのまま楽しそうに飛び跳ね始めた。
あいつ、絶対このあと陸上部に勧誘されるぞ。
日下先生は顧問だからな。
「はー、なんかあいつ見てたらちょっと目覚めたな。仕事するかー」
俺はうんと伸びをすると、窓を閉めて自分の席へと戻っていった。
***
……あれ?
なんか、変だ。
真っ暗な中にいる。体は動かない。
……あー、これ、寝てるな俺。
仕事中に限界来てそのまま机に突っ伏しちまったか。
夢ン中でこりゃ夢だ、ってわかるんならよー……ここで仕事できたらいいのに。
そうすりゃ週末まで仕事に追われることなんてねーんだから。
『 』
なんか聞こえた?
『セーンセー、来ちゃった』
あ、
これ、
昨日のか。
夜俺が部屋にいたら、呼鈴が鳴って、あいつが玄関外に立ってて。
入れる気なんてなかったのに勝手に部屋に入ってきて。
俺も、昼間のことで結構参ってたから、愚痴なんか言って……
『あの窓の気持ちわりぃやつ見ちまってからよー……授業中にもどっかから視線感じるんだよ』
『外から見てんじゃん?』
『ええ? 窓の方見ても何もいねーよ』
そうだ、そう、なーんもいねぇの。だから怖くなるわけ。
『向こう側の世界は、センセーは同時に見えないんでしょ?』
『同時に?』
『あたしは見えるもん』
こいつが何言ってっか、よくわかんなかったんだよな。
同時に。
同時に?
ってか俺からは見えねーのに、向こう側からはこっち丸見えなのかよ。ずるくね?
『てかさ、あのわんちゃん以外にも出してみた?』
『猿と雉か? いや、機会もないし、出してねぇけど……』
『どーやって戦ってくれんのかわかんないしさぁ、一回出してみた方がいいんじゃん?』
そうは言うけど、煙草吸えるとこなんて限られんだよ。
俺の部屋か、
駅の喫煙所か、
学校は本当は禁煙なんだけどー……まあ、あんまり見えねーとこで吸ってる先生方は多い。俺も空き時間とか放課後は外の駐車場側の校舎陰とかで……
『センセ、あたしいない時は気を付けてね』
夢の中の鬼村が、俺の手を握った。
──キーンコーンカーンコーン
「……!?」
がばっ!! と勢いよく起き上がる。
腕を枕にしていたせいか痺れていた上、ジャージの袖にはよだれがついていた。
「おいおい結構寝てたんじゃねぇかよ……」
壁の時計を確認して、もう昼休みなことに気が付く。今日の授業は午後からでよかった。いや、授業準備終わってたっけ……全然良くないじゃねーか……。
「はー……全然ダメだ、下の自販機でなんか飲み物でも買ってくるか」
よだれ付きのジャージを脱いで、「ついでに吸ってこよ」と煙草とライターをジャージのポケットからズボンのポケットへと移した。が、今は昼休み。生徒に見られる可能性がある為吸えないことに気が付いた。
「まぁ、あとで吸うからいいけどさ……」
そうぼやきながらドアを開けた。
ぐるんっ
と回転した気がして思わず廊下へ前のめりに倒れそうになる。
「う、わわっ……と」
危なかった、とほっとしかけたところで俺ははたと気づいた。
いや
危なかったじゃない。
もうすでに危ない
慌てて左右を確認する。
片側は壁で行き止まりになっているが、反対側は奥まで続く長い廊下だ。
そっち側から、
蠢く何かが近づいてきていた。
でかい、ばけもん。
廊下の幅がギリギリすぎるのか、あのでかい手で這ってこっちへ向かってきている。
腰から下はあるのかないのかここからはわからないが、顔にはでけぇ目玉が一つ付いていた。
『あああぁぁぁ』
『ぁぁぁぁあああい』
『ェあああああ゛あアアああ』
『た』
『た』
『タた』
『たタ』
『タ、食べる!!』
『オマえヲたべル!!!!』
何重にも聞こえる声が、その巨体から発せられている。
考える時間など無いことはもうわかっていた。
「くそっ、学校の中で襲われたことねーし油断してたな……」
「……さすがに誰も見てねーから吸っても文句言われねーよな?」
ポケットから取り出した煙草に火を点け、
恐怖心を押さえつけ
勢いよく吸い込んだ。
「出てこい────猿!!!!!!!!」
『ううウウウウウ
ヴぁぁぁぁああああああ、
食べルルるるるぅぅぅええあああ』
でかい化け物が俺に覆いかぶさろうとしてきた時だった。
吐き出した煙は瞬時に形を変え、
それはあのでかい目玉に向かっていった。
『キイイイイイイイ!!!!!!!!!!』
猿の甲高い叫び声が廊下に響き渡ったと同時に、その指先は鋭い爪のように変わりあのぎょろぎょろとした目玉を引き裂いた。
『ヴァぁああああアアアアぁぁあ!?』
悲鳴が上がる。
しかしその目玉から血が噴き出すわけではなく、
まるで決壊したようにぼとぼとと何かが床にたくさん落ちてきた。
落ちてきたものが
それぞれ意思を持っているように蠢いている。
「……あっ」
俺は息を呑んだ。
鬼村の言葉を思い出す。
『こう、ちっちゃいのがさあ~、核になる奴に虫見たいにわらわらわら~って群がってぇ、合体すんのよ』
『だからさっきの手も、よく見たらちっちゃいあいつらがわらわらわら~って密集してたんだって。目もおんなじ。見えなかった?』
目玉だったものは、
それぞれあの小さな魑魅魍魎へと元に戻り、
また、俺に襲い掛かってくる。
「うわあああっ!!!!!」
俺の体へ飛びついてくる奴らを振り払う。
何度か噛みつかれそうになるものの、剥ぎ取ってしまえばこっちのものだ。
俺が召喚した猿は、俺に飛びかかろうとしている魑魅魍魎を片っ端から攻撃している。
攻撃された奴は消えていくが──
いかんせん、数が多い。
「くそっ、全然終わりが見えねえっ! 」
その時、まだ残っていた大きな手が、俺を叩こうとした。
逃げようとしたものの、魑魅魍魎たちが足に群がり身動きが取れない。
猿は標的を手へと変え、応戦した。
あの大きな手さえも、猿の攻撃であっという間に無力化する──が、結局それは大量の魑魅魍魎へと姿かたちを変える為、意味はない。
多分、猿の殺傷能力は高い。
がしかし一体一体を相手する今の状況は相性が悪いようだ。
「犬は一回吠えただけで全部消えたってのに……くそ、もう一匹出すか!?」
俺は歯を食いしばってどうにか落とさないようにしていた煙草をくわえ直す。
とにかく犬を呼べばどうにか──!
「……えっ」
廊下の奥に
着物を着た女がいる。
静かに、こっちへ歩いてくる。
嘘だろ、俺以外にもこっちの世界に人間が迷い込んでんのか!?
あの人が襲われる前にどうにか……!
どう
にか
あ?
──森の中で聞こえるような葉の擦れる音が耳に届いた。
それと同時に、
あれが
違うものだと気づかされる。
近づいてくるあの女は
顔から
手から
木の枝が生えている。
「嘘だろ……あれも妖怪なのかよ……」
『!』
俺の言葉に反応したのか、猿は着物姿の妖怪に走って向かって行った。
「もしかするとあれが親玉なのか? よしやれ猿────!!」
ザアアッ…………
着物姿の妖怪が軽く手を払うと
葉擦れの音が響き
サルは真っ二つに裂かれ、霧散して消えていった。
「……え?」
俺に群がっている魑魅魍魎たちが動きを止めた。
女がゆっくり近づいてくる。
足音を立てずに
近づいてくる。
俺の呼吸が短くなっていく。
恐怖で
息が吸えない。
女が、俺の前で止まった。
まるで樹皮のような皮膚が
目のある部分を覆っている。
「あ、あ……」
わずかな煙を吸って
俺は出てこない声の代わりに念じた。
(頼む、出てきてくれイヌ……!)
『なんと粗末な』
そいつは静かに言った。
俺と木の妖怪の前に立ちはだかった
ほとんど透けている犬を見て──。




