第5話 反転世界
「……すげぇな」
俺はずるりと落ちたきたリュックの肩紐を掛け直しながら、再度俺の足の周りをぐるぐると回り始めた煙の犬を見た。
俺が召喚した犬は思っていた以上の働きをしてくれ、湧いて出てきた魑魅魍魎たちを全て消し去ってくれた。なんと心強いお供なのか。
「お前がいなくてもこいつ一匹でなんとかなんじゃねーか」
「センセー、上手くいったからって調子乗りすぎ~」
文句を言う鬼女を放って俺はしゃがむと、犬と視線を合わせる為眼鏡を押し上げた。
「お前、名前はなんていうんだ?」
『名前? 名前って?』
犬は俺の前でおすわりすると、きょとんとした顔になった。
「ないのか」
『そういえばご主人、すっごく変わったね! 背がおっきい! ヘンなもの顔につけてる! あと……ちょっとおじさん?』
「おじさんじゃ……! いや、30代は十分おじさんか……」
『匂いは一緒なんだけどー……ま、ご主人はご主人だからいっか!』
犬はそういうとハッハッと息を吐きながら笑顔のような顔付きになった。
俺は本当の主人じゃないことに少し申し訳なさを感じつつ、目の前の煙の集合体を不思議に思った。
「……どうやったら消えるんだ?」
「そのうち消えるんじゃないの~?」
「そのうちって、これから電車に乗らなきゃなんねぇし……」
どうしたものか、と思いながら犬を見ていると鼻先や耳の先の煙がそよそよと動き空気に溶けているのを見て、好奇心で強く息を吹きかけてみた。
『ワーッ!』
犬は遊んでいるとでも思ったのか楽しげな声を上げ、そして──霧散していった。
「……消えた」
「センセーが消したい時には消えるってことじゃん?」
「そういうもんか」
なんとも不思議な体験をし、俺は指先に挟んだまま小さくなった煙草を見つめ息を吐いた。
「ほんとに俺が、あんな……魔法みたいなことできるなんて」
「あはは魔法って! センセーもそーゆーの憧れちゃう系? やっぱ男の子っていつまでもお子様だね~」
「うるせぇよ、誰だって憧れんだろ」
「でもあのわんちゃんは別に魔法で出した~なんてキラキラしたもんじゃなくって、桃太郎とかいうクズと永久契約しちゃったが為に死んだ後も魂を縛られてる可哀想な子じゃん?」
「だからその永久契約ってなんだよ。大体桃太郎のお供って、きびだんご一個で鬼退治についてったわけだろ? もうそれ一時間契約とかでいいだろ」
「きびだんごに釣られたんじゃないよ、あの子たちは」
「はあ? じゃあ何で」
「んー、桃太郎の……フェロモン?」
「フェロモン??」
ぽかんとして俺は開いた口が塞がらなかった。
「犬・猿・雉って、メスじゃん?」
「は!? 全部オスじゃねぇの!?」
「きびだんご一個でいいからついてく~なんて尻軽のメスでしかないじゃん」
「お前言い方キツイにも程があんだろ……鬼かよ」
けらけらと可笑しそうに笑うこいつを前にして、俺は「そういえばこいつ本当に鬼だった」と改めて理解した。
そしてふと違和感を感じたことについて口に出した。
「つーかお前、さっき桃太郎のクズって……」
「あれー? もうこんな時間だけど、そろそろセンセーが乗りたい電車来るんじゃないの?」
「!? うわやべぇ今入ってきた電車! あれ乗るやつ!!」
俺は大慌てで煙草の吸殻を灰皿に放り込み喫煙所を出ていった。急いで改札を抜け閉まりかけの扉の中に体を滑り込ませると、動き出した車内でぜぇぜぇと息をした。
鬼女のことなんて全く考えちゃいなかったが、同じ電車に乗ったんだろうかとキョロキョロ辺りを見回す。見えるところにはいない。そりゃそうだ、あいつの登校時間にはまだ早い。俺は安心して空いている席に腰かけた。
「はー……朝から疲れた」
「ほんとだよね~、マジねむい」
「!! だからお前なんで急に出てくんだよ!」
見れば鬼女は隣の席に腰かけ、俺の肩に頭をのせようとしてきていた。俺は慌てて体を離す。鬼女は頬を膨らませて不服そうにしていた。
「さっきも言ったじゃん、あたしがいないと困るでしょ?」
「別に困んねぇよ! い、犬だって呼べたわけだし」
「センセーは甘いなぁ~」
チッチッチ、と舌打ちし、鬼女は人差し指を俺に向けた。爪の先が俺の鼻先をかすめた。
「ちょー弱いのばっかだったから一撃で助かったわけじゃん? あれより強いのが来たら?」
「な、何度も吠えりゃいいんじゃねぇの?」
「その間にセンセー本体が攻撃されてお陀仏になったら一巻の終わりじゃ~ん。第一章で主人公死亡、連載打ち切り、○○先生の次回作に乞うご期待! だよ~」
「なんだよそれ」
「とにかく、今はあたしが守ったげる。センセーに死なれちゃ困るのはあたしなんだもん」
ね、と俺に笑みを向けると、鬼女はシートの背もたれに体を預けた。
俺はというと、しばらくの間ぼうっと視線を彷徨わせていた。
こいつがいないと、俺はどうやら死ぬらしい。
あの気持ち悪い化け物たちに食われて。
でもなんで急にこんなことになったんだ。
大体、あの変な世界は一体なんなんだ。
いつもの場所と同じはずなのに、急に同じじゃなくなる。
あれは……
「なんつーか、ひっくり返った、みたいな……」
「え? なになに?」
「……あの世界だよ。今までいた場所と同じなのに、急に変わるだろ。あれってなんなんだ?」
「んー、『反転世界』かな」
「反転世界?」
鬼女はずいっと俺の目の前に手の甲を向けた。カラフルな付け爪が並んでいる。
「こうやって見えてたものがさ~、ぐるっと変わったら──」
手の甲が、ゆっくりと回転して、手の平が見えた。
「同じものだけど表と裏があるじゃん?」
「こっちが表で、あの変な世界が裏ってことか?」
「まー実際は裏表~とかそーゆーんでもないんだけどさ。なんてゆーか、ちょっとズレてる? みたいな?」
「ズレてる?」
「うん、あたしや他の妖怪たちはそのズレた世界で生きてる」
「……妖、怪」
少しだけ耳に馴染む言葉が出てきた。
と言っても、小さい頃からそういうものが出てくる漫画やアニメが好きだった──ってだけだけど。
「そうか、鬼って妖怪なのか」
「まあ何ってひとまとめにするならそれじゃん?」
「……それで、その世界って一体どういうところなんだ?」
「別にこっちと変わんないよ。山も川もあって、食べ物があって、それぞれ家があって、でもこっちほど面白いもんは少ないかな~。だからみんな人間のいるところに行きたがるの」
「行きたがる?」
「昔っからあるじゃん、河童が出た~、化け狐が~とか、後ろからヒタヒタ足音が~なんて、そういう妖怪話?」
「ああ……それは、あるけど」
「みーんな人間がいる方の世界に滑り込んで遊んでんの。今も昔も」
「今もって……妖怪がいるのか? この現代に? 昔の話じゃねぇのか」
「ねー、センセの隣にいるあたしって何?」
目の前のむすっとした表情に、俺は言葉を詰まらせる。
そうだ、
俺の問いは
こいつの存在を否定することになる。
「……悪かったよ」
「あれ? 随分素直じゃん。どしたの?」
「別に……お前の存在を否定したいわけじゃねーからよ。悪かった」
俺の謝罪に、すぐ何か言ってくると思ってた。
それなのに隣からは何も返事が返ってこない。どうしたもんか、とちらりと様子を伺えば──
「……!」
目を大きく見開きぱちぱちと瞬きをして、
どこか堪えるように両手をぎゅっと握っている。
そんな、
そんな……どういう感情だ?
「センセーあたしのことちゃんと認めてくれてるんだ! うれしー!!」
「ちょっ、うえええ!?」
いきなり横から抱き着かれ、俺は慌てて押し返そうとする、が、こいつの怪力はちょっとやそっとじゃ押し戻せそうにもない。
「は、なれろっ……!」
「あたしの目に狂いはなかったってゆーかー、やっぱしセンセーは運命の人ってことだよね」
「おま、いいから、聞け……! 力入れすぎ……!」
「学校来るって決めて大正解~! 近くにいるのってマジ大事♪」
「………」
俺はげんなりとした表情で抱きしめられたまま、しばらく電車に揺られることとなった──。
***
電車を降りて駅から出ると外の空気を目一杯吸い込んだ。
この鬼女に抱きしめられている間、
酸素不足と
『川下高校の生徒さんと教師らしき男性がいかがわしい関係に見えます』
などと通報されるのではという恐怖で俺は生きた心地がしなかった……。
「あー、今日センセーと一緒に来たからお昼ご飯買ってくるの忘れちゃった~。コンビニ寄ってこよっかな~」
「お前、コンビニとかちゃんと使えんのかよ。ってか金払ってんだろうな?」
「あったりまえじゃん! 何の為に人間の格好してると思ってんの?」
「お、俺を誑かす為……?」
「間違ってないけどさぁ」
いーじゃん別に~とぶつぶつ文句を言っているそいつを見ながら、俺はここ数日で起きたことを整理した。
何でだか知らんが、
急に俺は反転世界っていうのに引きずり込まれるようになって、
その世界には魑魅魍魎っつーばけもんがウヨウヨしてて、
しかもそいつらは俺を狙ってる。
俺には桃太郎の血ってのが流れてるらしくて、
そんでそのお供を俺も呼び出すことができる。
そしてこの鬼女は何故か俺の血筋を……
というか、
俺と子どもを作ることを、狙ってる……。
いや、なんでだよ……。
とにかく今では、こいつはうちの学校の制服を着てて
何なら俺のクラスの生徒で、
俺たちは鬼と人間、っていうだけの関係じゃなくなったわけで。
教師たるもの、きちんと生徒を指導してかなくちゃな。
まずは教師である俺との距離をきちんと測るところから──
「おい、鬼!」
「……ねぇあたし今人間ってことになってるんだけど~、学校でもずっとその呼び方すんの?」
「うっ」
「いちおーあたしのセンセでしょ? 鬼! って呼び方、結構な悪口だったりすんじゃないのぉ~?」
「………」
ぐうの音も出ない。教師として指導を~とか思ったくせに初っ端から生徒に説教されている。ダメ教師でしかない。
「ってか昨日はあたしのこと名前で呼んでくれたじゃん。いーよ、ミキで」
「呼ぶかよ! 大体その後は鬼村って苗字で呼んだだろ!」
「そうだけどさぁ~。ちゃんと可愛い名前あんのに~」
「……知るか!」
「ちぇーっ」
鬼村は唇を尖らせ、目を伏せた。
俺は「このめんどくさいクソガキめ!」と思ったものの、でもこいつ俺よりめちゃくちゃ年上だったな……とふと冷静になる。
人間が教師で鬼が生徒をやってて、しかも勉強を教えないといけないなんてわけが分からん。妖怪って化学とかちゃんと理解できんのか?
「おい鬼村、もし勉強でわかんないことがあれば──」
「あーあ、好きな人には名前で呼んでほしーんだけどな」
…………?
「んじゃあたしコンビニ寄ってくから~。また学校でね、セーンセ♪」
鬼村はそう言うと「ばいばい」と手を振って横断歩道の先にあるコンビニへと行ってしまった。
俺はというと、ぽつんとそこに一人取り残されている。
今、あいつは何と言ったんだろうか。
好きな人には、名前で呼んでほしい?
好きな人?
いやいやおかしいだろ。
だってあいつが俺に付きまとってんのは桃太郎の血だかなんだかで鬼を繁栄させたいのであって、それは別に俺である必要なんてないわけで、というか俺とあいつはこないだ初めて会ったわけで……
「……ってちんたら歩いてる場合じゃねえ、早く行って仕事しなきゃなんだっての~!!」
今考えていたことなど一瞬にして頭から振り払い、
俺はここから数百メートル先に見える学校へと一目散に駆けていった。




