第3話 あれは夢だった、
女に興味がないわけじゃなかった。
ちょっと気になる子、くらいなら小学校の頃からいた。
中学は部活が楽しくて色恋に目を向けることはなかったが、
高校に入って初めて彼女ができた。
相手は部活の先輩だった。
高校生の淡い恋愛事情はここでは割愛するが、
まあなんやかんやあって
ある日先輩に迫られた俺は──
性交渉に失敗して、
その後フラれた。
大学時代にも告白されることは時々あったが、俺の方はというと正直もう全てを諦めていた。
今の今まで一度もそうなったことのない俺が、
普通のお付き合いをして、
果ては結婚するなど無理があるってもんだろ。
そう、もう諦めてんだよこっちは。
今更『性欲お化けの家系だぞ』って言われても関係ねーよ。
「……なんて改めて考えたら泣けてくるわ、くそ」
「え? 何ちょっと、どーしたの?」
俺を組み敷いていた鬼女はどこか焦ったように俺の顔を覗き込んだ。
「とにかく、今言った通り俺は鬼どころか人間ともそういう行為は望めないんだよ。だからもう解放してくれ。それかひと思いに食うなり殺すなりしてくれよ……できるだけ痛いのは勘弁な……」
「はあ?? 何言ってんの?」
鬼女はそう言うと、「あ」と何かに気づいたように俺の手首を離した。
「やだっ、あたし……ごめんごめん! もしかして痛かった!?」
突然俺の上から体を退け、俺の手を引いて起こしたかと思えばワイシャツの袖口から覗く手首をじっと見つめた。
見てみれば鬼女の怪力によって両手首にはくっきりと赤い痕がついていた。
「あたし全然ここまでするつもりなくって。そりゃ逃げられたら困るからさ、力は入れたけど。でもこんなになるなんて」
「え……」
「んー、ま、あんたの事情はわかったから!」
そう言うと、鬼女は腕を組み一人頷いた。
そしておもむろに俺の下半身を指差し、困ったように唸り声を上げた。
「うーん……とにかくこのふにゃふにゃがちゃんとバキバキになるようにすりゃいーってことでしょ? よくわかんないけど、あたしがなんとかしてあげる♪」
「へ……?」
ぽかんとする俺を置いて鬼女は立ち上がり、地面に落ちていた金棒を拾い上げると肩にトンと載せた。
「んじゃ、あたし帰るわ」
「は?」
「なんかすぐにはあたしのお願いごと聞いてもらえないっぽいしー……また今度ってことで♪」
「いや、また今度って俺は……」
「それじゃまーたね、センセ」
鬼女は俺に背を向けると、金棒を軽い金属バットのように振り回しながら歩いて行ってしまった。
俺はひとりこの場所に取り残されてどうしようかと思った瞬間、
「うっ……」
急に目の前がぐらついたかと思うと
淀んでいた空気が晴れていくのを感じた。
「──あ、れ」
辺りを見回す。
先ほどまであった魑魅魍魎の死骸は見当たらず、
気持ち悪く感じていた匂いもない。
多分、元の世界に戻っている。
「い、っつつ……」
よろよろと立ち上がると、俺はスーツについた汚れを払い落とした。
と、その時
ブーッ、ブーッ、ブーッ……
スマホのバイブがリュックの中から聞こえてきた。
俺は先ほどの異様な事態から早く現実に戻りたくて、すぐさま電話に出た。
「──もしもし!」
『おおっと? やたら元気ですねぇ、桃間先生』
「河原先生……今どこに!?」
いくら相手が苦手な河原先生だろうと、自分のよく知る人物の声が聞こえたことで俺はひどく安堵した。
『いやいや、今どこにーってそりゃ僕の台詞ですよ~。学校出たところで急にいなくなるじゃないですか! まさか先に店に向かったのかな? って来てみたらいないし』
「じゃあ今店にいるんですか!?」
『そーですよう、今ついたばっかり』
「すぐ向かいますから、帰らないでくださいね!?」
『え、やだ何桃間せんせってば今日積極的──』
河原先生の言葉を最後まで聞かずにすぐさま俺は走り出した。
後ろを振り返らずに、
必死に。
とにかく今すぐこの場から離れたかった。
そして
とにかく誰か人間と
話したかった。
***
「──それでなんです? 急に周りの様子が変わって、桃間先生が異世界にでも行ったと?」
「……だから、そう言ってんだろ」
俺が飲み干したビールジョッキをどん、とテーブルに置くと河原先生は顔を背けて肩を震わせ始めた。
「ぷっくくっ……まさか桃間先生が仕事中に酒飲みながら仕事してたなんて」
「はあ!? 酔っぱらって見た夢って言いてぇのか!? 酒なんて飲んでたわけねーだろ!」
「いやあでも、ぶっはは!! 一体どこにそんなこと信じる人間がいるっていうんです? ねえ?」
河原先生はそう言うとカウンター越しに立つ店主に話を振る。
この居酒屋に初めて来た時こそこのガタイのいい店主に少し気圧されていたものの実際はとても臆病で物腰柔らかい人物で、今ではいっそ河原先生より話し相手にしたい程だと思っている良い人だ。
そんな彼が作業をしていた手を一瞬止めて河原先生を見て、俺を見た。
「うーん……それは確かににわかには信じがたいですねぇ。急に空気が変わる? っていうのも、理解しがたいというか……あ、もしかすると『ガスを閉め忘れてた時に匂いを感じる』のと似てたりしますか?」
「いや……そういうのとはまた違うというか……いや似てんのか?」
「ううーん、そうなんですねぇ」
店主は「すみません」と一つ謝るとまた作業へと戻った。
俺もなんだか申し訳ない気持ちになって「いや……」と口ごもってしまう。
「ま、桃間先生が飲んでたわけじゃないんだったら……白昼夢ってやつなんじゃないです?」
「白昼夢?」
俺が聞き返すのと同じタイミングで二杯目のビールがテーブルに置かれた。後ろからやってきた店員に俺は気づいておらず、思わず声を上げそうになった。
「桃間先生は仕事しすぎなんですよ~、もっと手抜けるとこは抜かないと。あとで積もりに積もって過労で倒れちゃいますよ?」
「これでも体力だけは無駄にあるんで大丈夫です」
「ええ~? その細い体のどこに体力あるって言うんです?」
「別に、細かないですよ。最近歳なのか少し肉ついてきたくらいで」
「あちゃ~、ならおすすめのジム紹介してあげましょうか」
「は? 河原先生ジム通ってるんですか?」
「もちろ~ん、いつまでも女子高生からキャーキャー言われたいでしょ?」
そう言って河原先生はウインクしてみせる。
男の俺に。
気色悪くて全身の毛が総立ちした。
「俺は言われたくないんで、大丈夫です」
「またまた~!」
正直この河原礼二という男が随分整った顔であることは認める。去年赴任してきた時も挨拶の時に体育館内の女子たちが甲高い声を上げていたことは記憶に新しい。
「モテたっていいことないですよ」
俺がそう言ってビールジョッキを傾けると「ふぅん」と河原先生はつまらなさそうにしていたが、ふいに何かに気づいたように口を開いた。
「それで、その桃間先生が見た白昼夢の世界には一体何があったんです?」
「え? いや、だからー……別に普通に同じ場所なんですよ。学校あって、駐車場も見えて」
「その変な世界を、ぶらぶら歩いたんですか?」
「………」
──俺はこの居酒屋で河原先生と合流してから『奇妙な世界の話』はすでにした。
ただ、
あの俺に這い上がってきた『魑魅魍魎』だとか、
鬼女がでけぇ金棒振り回してたとか、
そのあとで俺に、迫ってきただとか……
そういったことはまだ言えないでいる。
それこそ「白昼夢だ」と言われるに決まってるし、
もし俺が話をされた側だとしても「何を馬鹿なことを」と一蹴するに違いない。
だから
俺もあれを、夢だと思うことにした。
***
結局──
翌日である土曜になれば俺はいつものように二日酔いの頭痛を抱えながら出勤し、どうにか一日でやることを終え、 日曜になればこの一週間の睡眠時間を取り返すように一日眠りこけていた。
二日も立てば俺の中であれはすべて夢だったことになっていた。
もうおかしなものも見かけることなく、
あのひっくり返るような眩暈も感じない。
とにかく全てが俺にはもう起きえない──
「あ、おはよーセンセ」
自分が担任である二年四組の扉を開けた時だった。
ホームルームを始めようと、鐘が鳴ったのと同時に教室に来たんだ。
生徒たちはもう全員教室の中にいて談笑しながらそこにいた。
その
一番奥の席に、
長い脚を組んで椅子に座り、
こちらをじっと見ている女がいた。
「桃間セーンセ♪」
肌は赤くない
長い角もない
だがあれは
あの鬼女だった。
「……お前!?」
「やだセンセー、お前じゃなくてみきでーす」
「は!? みき!?」
「あは、名前で呼んでくれんのマジうれし〜」
「そ、うじゃない……! おまっ、何で……!?」
一瞬にして教室内の視線が俺に集まる。
なんだ、
なんだ?
俺がおかしいのか?
何が起きてる?
あいつは全員に見えてるのか!?
混乱のせいで落としたクラス名簿が
床の上で開く。
その中に
<鬼村ミキ>という名前があるのを
俺の目が捉えてしまった。
「変なセーンセ♡」




