第15話 日常から
──フィルター越しに、息を吸い込む。
肺にたっぷりと蓄えられた煙は一時行き場を無くし、そこに漂う。
それから吸った分と同じだけの煙を外に吐き出した。
「はああああー……」
半分ため息だが、吐き切ると少しすっきりする。
普段煙草を吸う時は換気扇の下だが、ここ最近はベランダにいる。朝の空気は気持ちがいい。同じアパートの住人がベランダで洗濯物など干していれば俺の煙は厄介者扱いだが……特段洗濯をしている人も、文句を言う人もいなさそうで一安心である。
左腕につけた腕時計を確認してもう一息深く煙草を吸う。そろそろ出勤時間だ。今週に入ってからだいぶ仕事も落ち着いた。新学期に入ってもうひと月が経つ、生徒たちも新しい教科に慣れた頃だろう。そろそろ重い宿題でも出すか。
足元に置いている灰皿に煙草を押し付け火を消すと、俺は中へと入って出勤準備をした。電車までは時間に余裕がある。いつも通り、いつも通り。
──ガチャ
玄関のドアを開ければ鬼村がそこに立っていた。
「おはよ♪」
これが『いつも通り』に含まれ始めていることに、俺は頭を悩ませた。
***
「センセー! いっしょにごはん食べよ♪」
昼時、いつものように化学準備室でカップ麺を啜っているとノックも無しにドアが開いた。来ることはわかっていたが、鬼村だ。俺の承諾も無しに隣の椅子に座ると持参した昼ご飯を広げ始めている。
「じゃじゃーん! 今日のお昼見て見て」
「何それ」
「お弁当♪」
「お前、いつの間に弁当なんて作れるように……えらいなぁ」
「ちょっとちょっと、褒めてくれんのはうれしーんだけどなんか褒め方がちっちゃい子に言ってるみたいじゃない?」
「先生にとっちゃ生徒なんて全員子どもだよ」
鬼村から視線を外すとズルズルズル、と味噌味のカップラーメンを啜った。
「もー、センセーの為にいろいろ作ってきたんだよ~?」
「いろいろって?」
「ほら、お野菜のおかずいっぱい~」
そう言って弁当箱の中身を見せてきた。ほうれん草のお浸しに、きんぴらごぼう、きのことか人参の……なんていう料理かわからん。他全部炒め物かなんか。
「このマリネとかちょー美味しいから食べて~」
「何? マリネ?」
さっそくどれのことかわからない料理名が出てきて困惑する。そんな俺をよそに、鬼村は箸でそれを取るとこっちに向けてきた。
「はい、あーん」
「いらねぇよ」
「美味しいのに?」
「いや、あーんはしねぇっての!」
「え~新婚さんごっこしとこうよ」
「しねぇよ!!」
鬼村がめげずに俺に向かって箸を突き出している中、準備室のドアが叩かれた。
「っ! は、はいー!?」
俺は慌てて席を立とうとしたが、来客は鬼村同様俺の返事を待たずにドアを開けてきた。
「あらら、もしかして僕お邪魔でした~?」
……河原先生だった。
邪魔かと聞く癖にそのままずかずかと中へ入ってくる。
「鬼村ちゃんは今日もいるんだね~」
「昨日も一昨日もその前も居まーす」
「毎日だろ」
ぎりりと歯軋りをする。何をしに来たんだこの二人は。
「桃間先生、僕もここでお昼食べていいです?」
「ここは食堂じゃないんですよ……」
「やだな~そんなの見りゃわかりますよ。それじゃ失礼しまーす」
河原先生はそう言うと奥へ歩いて行き、窓際のソファへと座った。
「いやぁ、ここソファあっていいですよね。先生の私物ですか?」
「んなわけないだろ。もう長いことあるんですよ」
「へぇ~確かにこの辺とかぼろいですね。新しいの買ってくださいよ」
「買いません」
鬼村一人でも面倒だというのに面倒くさいのがもう一人増えた。俺の昼休みが全然休みじゃなくなっていく。
「あ、桃間先生今日飲みに行きましょうよ!」
「河原先生、生徒の前でそういう話するのやめてくださいね」
「ええ~いいじゃないですか。鬼村ちゃんも来る?」
「え、行っていーの?」
「いいわけないだろ! あんたも冗談でも生徒を誘うな!」
「桃間先生はお堅いんだから~。鬼村ちゃん、この人のどこがいいの?」
「えー、全部」
「うっそぉ~」
わけのわからないやりとりを無視して、俺は昼飯を食べ終えた。ペットボトルの濃いお茶で喉を潤すと「あ゛ー……」という爺さんみたいな声が出た。
「……飲みは行かないですよ」
「えー? 行かないんですかぁ? 今日金曜日!」
「用事があるんですよ。今日は早く帰ります……多分」
「なんだぁ、残念」
そこまで言うと河原先生は持ってきたパンの袋をようやく開けた。あれは多分購買で売ってるコロッケパンか。美味そう。
「じゃ、またそのうち誘おーっと。いつか鬼村ちゃんも一緒にお酒飲める日が来ると良いね~♪」
「あたし飲めるよ?」
「鬼村ァ!!」
「おーっと、一応僕は聞かなかったことにしておきまーす」
先生だからね、と右手でVサインをして河原先生はもぐもぐとパンを食べている。俺はというと出かかったこの拳をどうしたらよいか彷徨わせていた。
「……センセー、拳骨出してどしたん?」
「お前がいらんことばっか言うからだよ……」
「あー、ね!」
あははは、と笑い声を上げながら鬼村は弁当を食べ進めた。これもまた、俺の日常になっていくのかもしれない。いつまでかはわからないけど、な。
***
──放課後、夕暮れ時。
部活を終えた生徒たちが続々と校舎を出ていく。それを眺めながら俺も帰り支度を始めようかとデスクの上のものを片づけた。
生徒がいなくなった後の校内は静かだ。とはいえ先生たちはまだいる為時折人の歩く音はどこからか聞こえてくるし、職員室の近くへ行けば人の声もする。だが、それを通り越して俺は玄関へと向かった。
未だに買っていない上靴を脳裏に掠めながらも、来客用スリッパを脱いで自分の下駄箱へと入れてしまう。外靴に履き替える時、ちらりと事務室の方を見た。そこにあるのは警備員さんの姿だけ。事務の人たちはもうみんな帰ったようだ。さあ俺も帰るとする。
校舎から出て、突風が吹いた。
それから
ズシン────!!!!!!!!!!
突き抜けるような地響きが起こる。
足を踏ん張ったが、眩暈で一瞬よろける。
反転世界が
俺を引きずり込んだ。
「……っ!」
駐車場だったはずの景色は、一面何もない赤黒い世界へと変わる。
魑魅魍魎たちがひしめき合い、
一つの大きな怪物へと姿を変えた。
「セーンセーっ!!」
頭上から聞こえてきた声が徐々に近くなっていく。
──ぐしゃあっ!!
何やらじゃらじゃらとアクセサリーのついた金棒が、大きな怪物の頭を押しつぶした。
「……ほいっと! いぇーい、褒めていいよ」
鬼村の姿はすでに人間ではなく、赤い肌を纏い大角を二本額から生やしている。
「全部終わったらな!」
俺はその場で前に手を伸ばし、頭の中で念じた。
ぼんやりとしたものが徐々に俺の手の中に現れ始める。
刀だ。
それを認識した途端、ずっしりとした重みを手の中に感じた。
「っ、重……にしても本当に出てきた。すげーな」
念じるだけで刀が出てくるなんてのは半信半疑だったが、ほっとした。それからもう一度、今度は違うものを念じる。
「分解したちっちゃいの、向かってきてるよ~」
鬼村が言うのと同時に、先ほど金棒によって潰された怪物はバラバラになって小さな魑魅魍魎となり襲い掛かってくる。
俺に飛びかかってくるのと同時に、
そいつらは弾け飛んでいった。
「……ここ数日、お疲れさんお前ら」
周囲に集まってきた煙が形を成して、動物の体へと変わっていく。
俺を守るように立っている犬が再び咆哮した。
俺にしがみつくようにしていた猿が、威嚇するように地面に飛び降りた。
俺の頭上を飛んでいる雉が風を起こして敵を近づけさせまいとした。
「ここ数日で少しは準備ってもんをしてきたんですよ」
ポケットから取り出した箱から煙草を一本取り出す。
「だから前よりはちょっとは持ちこたえられるんじゃねーかな、って思ってます」
硬い百円ライターをカチリと音立て、火を点けた。
「なんで、そこで見てないで出てきてもらってもいいですかね、山上さん」
火の点いた煙草を一吸いし、煙を吐き出す。
「ここいら一帯の山の神さん──『山神』さん、ね」
俺の吐き出した煙の向こうに、
背筋のピンと伸びたスーツ姿の女性が見えた。
『今日は帰るのがお早いんですね、桃間先生。──ゆっくりお話ができそうです』
メキメキと割れるような音がして、彼女の顔から太い枝が生え始めた──。




