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思い出せない記憶





 教室に、乾いた音が響いた。

 俺が椅子を押しのけたとき、誰もが息を呑んだ。


 雫は机の向こうで、目を見開いたまま動かない。

 その顔には、いつもの余裕も笑みもなかった。

 俺は視線を逸らし、鞄を掴む。


「……もういい」


 それだけ言って、教室を出た。

 ざわめきが背中に残る。

 だが、振り返らなかった。


 息を詰めるように階段を降り、昇降口のドアを押し開ける。

 外の空気はまだ少し冷たく、空は淡い光に包まれていた。

 朝の匂いがした。

 街が完全に動き出す前の、静かな時間。


 ――あいつといると、息が詰まる。

 そう思うたび、胸の奥で何かがきしむ。


 いつの間にか、誰かを気遣うことが“我慢”になっていた。

 そしてそれを優しさと勘違いしていた。

 だから、今日で終わりにした。


 下駄箱の前でネクタイを緩め、革靴を履く。

 足音がやけに響いた。

 まるで、何かを振り切るように。






 校門を出ると、風が生温い。

 まだ朝だというのに、空は少し霞がかっている。

 通学路を歩くたび、心の奥がどこか空洞みたいだった。


 ポケットのスマホを取り出しても、通知はない。

 昨夜、雫をブロックしたときから、ずっと。


「……なんで、俺はこんなに苛立ってんだろ」


 呟いても答えは出ない。

 けれど胸の奥では、何かが静かにざらついていた。


 あいつの言葉はいつも強すぎた。


 「私がいないとほんとに、何にもできないんだから。」


 「他の子と話してて何が楽しいの?」


 その度に、俺は笑ってごまかしてきた。


 でも今日、初めて思った。

 ――もう、いい加減にしてくれ。


 その瞬間、何かが切れた気がした。


 けれど不思議なことに、あいつが涙を浮かべたあの一瞬、

 心のどこかがちくりと痛んだ。


 怒りでも、後悔でもない。

 もっと深い、どこか懐かしい痛みだった。



 

 帰路への歩みを進め、公園の前を通ると、身体を風が吹き抜けた。

 ブランコがひとりでに揺れている。

 ぎい、ぎい、と小さく軋む音。


 その音を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。

 ――昔、どこかで同じ音を聞いた気がする。

 朝焼けと、涙の匂いと、誰かの声。


 けれど、それ以上は思い出せなかった。

 いや、思い出すことを脳が拒否しているようにも感じる。


 少し頭痛を感じ、俺は首を振りその場を離れる。

 アスファルトの冷たさが靴底を伝い、

 遠くで、校舎のチャイムが聞こえた。


 まだ日が高くもない。

 けれど、俺はもう帰る気力もなかった。











雫 視点




教室はまだ静かだった。窓から差し込む朝の光が、机の表面を淡く照らす。

誰もいない教室の中で、私は椅子に座ったまま、背筋を伸ばせずに手を握りしめていた。


あの瞬間、春人が立ち去った。

淡々と、何の迷いもなく。

声をかけても、振り返ることもなく。

まるで、私の存在など最初からなかったかのように。


机の上に落ちる光が、揺れ動く自分の影を長く伸ばす。

指先に力を込めても、胸の奥のざわめきは消えない。

肩を震わせることもできず、ただ静かに座っているしかなかった。


視線は自然とドアの方へ向く。

廊下を歩く誰かの足音、階段の軋む音、遠くで響くチャイムの音――

それでも、耳に届くのは彼が去った直後の空気だけ。

その静寂の重さが、胸を押し潰す。


小さく息をついた瞬間、喉の奥がきゅっと締め付けられた。


頬が熱い。

涙がこぼれそうになって、慌ててまばたきをした。

だけど、一度に押し寄せた感情は抑えきれない。


どうして、あんなに冷たく言えるのか――


どうして、あんな目で私を見るのか――


その答えは、自分でもわかりきっているはずなのに。


唇を噛みしめた。

噛んでも、痛みはほとんど感じなかった。

それよりも胸の奥が痛い。

呼吸をするたびに、そこがじんわりと焼けるようだった。



私は机に額を伏せ、両手で顔を覆った。

目の奥がじんわりと熱を帯び、視界が揺れる。

こぼれそうになる涙を、何度も、何度も飲み込む。


朝の光は優しいはずなのに、今は刺すように眩しい。

胸の奥で、わずかに疼く痛みだけが確かに残っている。

泣きたくないのに、頬の奥がずっと熱を持っていた。


どれくらい時間が経ったのか分からない。

呼吸の音だけが、ゆっくりと耳の奥で響いていた。

まるで、自分の存在が光の中に溶けていくようだった。


机の角に指先を当てて、ぎゅっと握る。

その瞬間、かすかな感覚が胸に蘇る。


――あの人は、覚えてくれていない。


――ようやく再会できたのに、何も感じてくれない。



視界が滲む。


頬を伝う雫を、もう拭う気力もなかった。

ただ、俯いたまま肩が小刻みに震える。

物静かな教室で、私だけが過去に取り残されていた。


朝の教室は、まだ明るいのに私の世界は静かに深い影に覆われていた。


「……どうして、思い出してくれないの……?」


小さな声が、机の上の光に溶けていく。

誰にも届かない、ただひとりの嘆き。






 


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