縋る想い
朝の空気は、やけに澄んでいた。
昨日の夜、あれほど胸の奥がざらついていたのに、不思議と今は静かだった。
目覚ましの電子音が鳴る前に目を覚まし、天井を見上げる。
あの決断から、一夜。
重くのしかかっていた何かが剥がれ落ち、代わりに冷たい空気が肺の奥まで満ちていく。
制服に袖を通し、鏡の前でネクタイを結ぶ。
映る自分の顔が、昨日よりわずかに大人びて見えた。
もう誰かに合わせて笑う必要もない。
自分の足で歩いている、それだけで少しだけ胸が軽くなる。
靴を履き、玄関を出る。
まだ朝の通学路は薄い霧のように静かで、遠くで自転車のベルが鳴っている。
冷たい風が頬を撫でるたびに、頭の中の靄が少しずつ晴れていくようだった。
――もう、終わったことだ。
そう言い聞かせながら、駅へと向かう。
昨日の駅前の光景が一瞬、脳裏をかすめた。
待ち続けたあの時間も、最後にブロックした瞬間の静寂も、すべて過去のこと。
振り返らない。それが俺の答えだ。
教室の扉を開けた瞬間、空気がわずかに変わる。
ざわめきが途切れ、次の瞬間にはまた元の喧騒が戻る。
けれど、その一瞬の沈黙が俺の胸に刺さる。
視線の先、窓際。
そこに――桐原雫がいた。
長い黒髪が朝の光を受け、ゆるやかに揺れている。
机に頬杖をつき、退屈そうに窓の外を眺めていた。
けれど俺の姿に気づいた瞬間、雫の肩がぴくりと揺れた。
そのまま、じっと俺を見つめる。
その瞳は、怒りでも悲しみでもなく、焦燥と混乱が入り混じったような光を宿していた。
「……おはよ」
その声は、いつもより少し低い。
けれど、その奥に熱を感じる。
俺は視線を合わせず、淡々と自分の席に向かった。
「おはよう」――その言葉さえ、口にはしなかった。
椅子を引き、鞄を机に置く音がやけに大きく響く。
「ちょっと、無視?」
背後から聞こえる声。
昨日までなら、すぐに笑って誤魔化していた。
でも今日は違う。
俺はゆっくりと顔を上げ、冷静に答えた。
「……別れたんだろ。話す理由、もうないだろ」
その言葉に、雫の眉がぴくりと動いた。
彼女の唇が、かすかに震える。
「……本気で言ってるの?」
「昨日、ちゃんと送った。見たろ」
「見たけど……あれ、本気なの? 冗談じゃなくて?」
笑おうとしても笑えていない。
その微妙な表情に、少しだけかつての面影が残っていた。
でも俺は、もう戻らない。
目の前の雫がどんな顔をしていようと、もう揺らぐことはなかった。
「冗談で別れようなんて言わないよ。昨日のことは、もう終わりだ」
「…なんで、そんなこというの……?」
雫が小さく吐息をつく。
そして、机を指でトントンと叩きながら、かすかに笑う。
その笑みは、強がりのようでもあり、怯えのようでもあった。
「ねえ……そんなに怒らないでよ…」
その声には、ほんのわずかな甘さが混じっていた。
怒りでも責めでもなく、まるで“試している”ような響き。
それが逆に、俺の胸を冷やす。
「疲れたって言って、約束を平気で破る。俺がどんな気持ちでいたか、考えたことあるか?」
「……でも、たかが一回じゃん」
「そうやって何度も軽く扱われてきたんだよ。もう十分だ」
雫の肩がびくりと震えた。
唇を噛みしめ、机の端をぎゅっと掴む。
いつもは冷静な彼女が、感情を抑えきれずにいる。
その様子に、少しだけ胸が痛む。
でも、ためらうつもりはなかった。
「……ねえ、春人。私たち、そんな簡単な関係じゃないでしょ」
「簡単だったよ。お前が壊したんだ」
「違う! 私は……!」
雫が立ち上がり、周囲のクラスメイトがちらりと視線を向ける。けれど雫は気にも留めず、机の上に手を置き、顔を近づけて俺をにらむように見下す。
「別れるだなんて……そんなの、絶対に認めない。私は絶対に認めないんだから…」
言葉が途中で途切れる。けれどその空気は圧倒的で、俺の胸を押さえつけるようだった。
俺は視線を落とし、淡々と机に手を置く。心の中で、苛立ちがじわじわと膨らんでいく。
「……もういい。話すことはない」
俺の声は静かだ。だが冷たく、揺らぐことはない。
教室のざわめきも、雫の迫力も、すべて遠くに感じる。
俺の中で、これ以上譲る余地はなかった。
「……なにそれ…」
雫の顔が紅潮する。唇が震え、まるで怒りと困惑の両方を押し殺しているかのようだ。
その迫力に、普段の俺なら何か言い返していたかもしれない。
だが今は違う。もう揺らぐことはない。
「昨日のことはもう終わりだ。もう関わる必要はないだろ」
静かに、しかし確固たる意志を込めて言い切る。
その瞬間、雫の目に一瞬の戸惑いが走った。高圧的な彼女の態度が、かすかに揺らぐ。
「……そんな……そんなこと……許さない……」
机に両手をつき、全身で俺を押さえつけようとするかのような圧迫感。
けれど俺は微動だにせず、淡々と椅子を引き、鞄を肩にかける。
その背中には、もう誰にも振り回されないという強さだけがある。
「……私は……私は、春人が……私から逃げるなんて……絶対に認めない……!!」
その言葉に、クラスの空気が一瞬止まる。
でも、俺は立ち止まらない。視線を合わせず、ただ静かに教室を後にする。
背後で雫の声がかすかに震える。
「……春人……」
けれど、それももう届かない。
俺の中で、吹っ切れた何かが固まっていた。
もう、誰の都合にも振り回されることはない。
廊下の窓から差し込む朝の光が、静かに俺の歩幅を照らしていた。




