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静かな夜の灯



あれから俺はすぐに帰宅した。


玄関のドアを開けた瞬間、温かい空気が頬に触れる。

外の冷たい風が、まだ少しだけ服の隙間から入り込んでくる。

靴を脱ぐだけの作業も何故か、気怠げに感じる。

その理由を、自分でも言葉にできなかった。


リビングから、テレビの音と包丁のまな板を叩く軽いリズムが聞こえてくる。

照明の明かりが柔らかく、まるで別の世界に帰ってきたようだった。


「おかえりー」


台所から顔を出したのは、妹の紗菜だった。

エプロンをつけて、手にした菜箸を軽く振る。

中学生になって少し大人びたはずなのに、笑うとまだあどけない。


「今日、帰り早いね?」


「……ああ。予定、なくなった」


「え、あの子と出かけるんじゃなかったの?」


一瞬、呼吸が止まる。

“あの子”──つまり桐原雫のことだ。


「うん。……そう思ってたけど、向こうの都合で、ね」


言いながら、喉の奥が熱くなる。

笑うこともできず、靴下のままリビングに上がる。


「そっかぁ。……じゃ、ちょうどよかったじゃん」


「ん?」


「だってさ、今日一緒に出かけたかったんだよ。

最近、全然遊んでくれなかったし」


紗菜が笑って俺の方を向く。

エプロンの紐をぎゅっと結び直して、続けた。


「でも連絡したら、“ごめん、明日は用事がある”って言うから、あーあ、またかーって思ってたのに」


俺は視線を少し落とした。

昨日の夜の自分が、脳裏に浮かぶ。


──「仕方なく付き合ってあげてるんだから、それくらいできるよね?」


あの言葉を聞いたとき、急激に胸の奥が冷たくなった。

本来なら笑って受け流せる軽口のはずが、妙に刺さった。

彼女が本気でそう思っているように見えてしまったからだ。


「……ごめんな、紗菜」


「え?」


「本当は、今日一緒に行きたかったんだ」


紗菜は驚いた顔をしたあと、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。


「ううん、いいよ。

だってお兄ちゃん、最近ずっと頑張ってるじゃん。

部活も勉強もあるし……彼女もいるしね」


冗談めかして言うその声に、胸が締め付けられる。

“彼女もいる”──

その言葉が、過去形のように響いた。


俺はリビングの椅子に腰を下ろし、テレビの音をぼんやり聞く。

何もしていないのに、全身が重い。

感情が、どこにも行き場を見つけられない。


キッチンで紗菜が料理をしている音だけが、静かに響いていた。

包丁のリズムが、妙に規則正しい。

何かがずれてしまった自分のリズムと対照的で、

それがかえって、心の奥を落ち着かせてくれた。


「できたよー」


湯気の立つ皿をテーブルに並べながら、紗菜が言う。

煮込みハンバーグ。

昔から、紗菜が俺に作るときの定番だった。


「また作ったのか、それ」


「だってお兄ちゃん、これ好きでしょ?」


「まあ、好きだけど」


「でしょ?」


軽い会話の中に、何か懐かしい安心感がある。

こうして妹と話しているだけで、

自分が“普通の高校生”に戻れた気がする。


「じゃあ、いただきます」


「どうぞ」


ハンバーグを一口食べる。

少し焦げているけど、ちゃんと温かい。

味噌汁の湯気が、鼻をくすぐる。

その小さな温かさが、胸の奥の冷えた部分を溶かしていく。


「……うまい」


「ほんと? やった!」


笑い声がリビングに広がる。

その瞬間、駅前での重苦しい空気が少しだけ遠のいた気がした。


食後、紗菜が皿を洗っている間、俺はソファに体を預けた。

天井の灯りが、少し滲んで見える。


スマホを取り出す。

画面をスワイプしても、もう雫の名前はない。

ブロックしたのは俺だ。

けれど、その事実を頭では理解しても、

指が無意識に“連絡先”を開いてしまう。


そこに何もない画面を見つめて、

ようやく心の奥で“終わった”ことを認識する。


「お兄ちゃん、テレビつけっぱなしだよ」


紗菜の声で我に返る。


「あ、悪い」


「ねえ、今度さ。改めて出かけない? 久しぶりに」


「どこ行くんだ?」


「どこでもいいよ。なんか動きたい気分」


「……ああ、いいな」


紗菜が微笑む。

その笑顔は、どこか春みたいに柔らかかった。


その横顔を見つめながら、思う。

誰かに冷たく突き放されても、

誰かに温かく呼び戻される瞬間がある。


静かに過ぎていく夜の中で、

俺はようやく、自分の呼吸のリズムを取り戻していく。


冷たい風が、窓の外を通り過ぎる音がした。

でも、部屋の中には、

もうその冷たさは届かない。








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