慣性の法則
僕は本を読んでいる。中身は頭に入らない。
秋の長雨をうけた電車は鉄錆びたため息をもらして、僕らの学校から遠ざかっていく。彼女の席はいつも決まっている。僕の席はその向かい。
僕は彼女と同じ文庫本を読んでいるのだけれど、文字の上で目がすべる。やっぱり頭に入らない。同じ駅でおりる彼女が手を休めて、顔を上げるのを待っている。彼女は僕が同じ本を読んでいることを知ると、ふわりと笑う。人を寄せつけない表情がふと和らぐのを見て一人悦に入るのが、僕の習慣になっていた。電車が止まるとつり革がいっせいに慣性の法則に従って揺れ、つづいて人の波が動きだした。
駅名を確かめるように、彼女が顔をあげる。僕はようやく彼女の泣き腫らした瞳に気づいた。
こんなとき、話しかけられたらいいのだけれども、声をかけるのははばかられた。暑さの薄れる九月の半ばにようやく、彼女が同級生だと知ったくらいだ。本の貸し借りをするわけでも感想を語りあうわけでもない。会話をしたことは一度もなかった。同じ駅から同じ時間の電車に乗って同じ学校に通う僕らは文庫本数冊の関係でしかなく、慣性の法則に従うつり革同士のように、互いの距離を縮めることをしなかった。
大きな時計台のある駅でおりる。乗客の波に乗って定期券で改札をくぐり、人波をかきわけて彼女を探した。話しかけたくて、でもできなくて後を追う。緑のつらなる公園沿いを、彼女は濡れるのもおかまいなしに進んでいく。雨に濡れた半袖のブラウスが透けて、目のやり場に困った。彼女の右腕でゆれる閉じられたままの傘は、電車のつり革のように規則正しい動きをしていた。
彼女は足を止めなかった。住宅街を素通りして海浜公園の階段を上りきると、防波堤の向こうに白く煙った水平線が見えた。彼女はようやく足を止めてふりかえり、ちょうど今日の雨のように静かな瞬きをした。無口な横顔は、ひょっとしたら僕を待っているのかもしれない。それでも僕は声をかけることができないでいる。彼女も声をかけようとはしなかった。
雨が僕のビニール傘に当たって音をたてはじめた頃、彼女ははじめて、文庫本のない僕に向かってほほえんだ。背中まである髪が濡れて、彼女のほおや首筋にしっとりと貼りついていた。髪からしたたる雫が、雨の激しくなったことを伝える。
「来たかったの、ここに」
僕は黙ったまま、彼女に傘をさしかけた。まだ、何も言えそうになかった。