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上も下もわからない状態で、全身をひどく揺さぶられた。
焦ってもがくのだが、身体がもったりと重く思うように動けない。冷たい海の中、視界も効かず、息もできず、己は混乱してますますでたらめに身体を動かした。
『わあ、人間だ。すごい、こんなに近くで見るのは初めてだ』
すぐ間近で気の抜けるような声がする。次いで、何かが己の身体に抱き着いた。
『まぬけな人間もいたものだなあ。人間は水の中では生きてはいけないのに』
身体が浮かび、海面に顔が出る。己に抱き着く何か——おそらくあやかしものに運ばれたようだ。
激しく咳き込み、必死で空気を取り込みつつ、口の中の塩辛い液体を吐き出していると、すいすいと海辺の方へ移動してるのに気が付いた。波の揺れる音で足音などは聞こえないが、己を追っていた奴らはまだこの辺りで己を捜しているはずだ。
「ま、待て、己は追われているのだ。陸に運ぶのは少し待ってくれ」
『わあ、人間喋った。かわいいなあ』
移動は止まらない。己が焦って身をよじると、身体に巻かれた腕に力がこもる。
『怖がらないでよ、人間さん。いいところがあるから連れてってあげる』
「いいところ?」
『そう。あっちに大きな穴があるんだ。陸からは入れないし、夜の海に人間は普通入ってこないでしょう?』
なるほどそれならばと、己は身体の力を抜き、おとなしく運ばれるままになる。
目の前にそびえ立つ崖が暗闇からぼんやりと見えてきた。崖の一部がさらに暗く沈んだ色をしていて、それがあやかしものの言う大きな穴らしい。暗闇の中へ侵入し少し進んだところで、己は水からはい上がった。地面に足をついてやっと生きた心地になる。
『人間さん、大丈夫? 痛いところない?』
「いや、平気だ。おまえのおかげで助かった」
己を洞窟まで運んだあやかしものが、笑った気配がした。
闇の中、己の手さえも見えないので、当然あやかしものの姿も確認することが出来ない。
『ねえ人間さん、人間さんはなんで水に入って来たの?』
「足を踏み外したんだ。それで、落ちた」
『人間さん、追われてるってことは、人間さんは悪い人間さんなの?』
「己がいいか悪いかは知らんが、己を追っていた奴らは人魚の肉などと偽ってまがい物を売りさばく悪い奴らだ。己が商売を邪魔したから、その報復に追われていた」
『へええ、人魚の肉って、売り物になるの?』
「ああ、どこをどう間違えたのか、食うと不老不死になるなどと噂されているからな。死にたくない金持ちが大金をはたいて買い漁っているのさ」
『ふうん。変なの』
ちゃぽん、ちゃぽん、と水を混ぜるような音がする。
あやかしものが立てているのであろう。何度目かのちゃぽん、という音の後、思い切った様子であやかしものが言った。
『じゃあさ、人間さんにいいものあげるから、オレと友だちになってよ』
はい、となにか差し出されたようだ。暗闇の中で、声を頼りにあやかしものの方へ手を伸ばすと、その手に小さく平べったく固いなにかを握らされる。
『オレの鱗だよ。肉はやれないけど、自慢の鱗だから、きっといい売り物になるよ』
鱗?
己が怪訝に思っていると、洞窟の入り口から呼ぶ声がある。
『おおーい、犬ー! そこにいるのかー?』
白いカラスだった。遠目だったがよく見ると、カラスの体にしがみつく欠けた皿と欠けた徳利、それから欠けた鏡の姿もあり、カチャカチャと騒がしく、犬、犬ー! と声を上げている。
「ああ、己はここにいるぞ」
呼びかけに答えると、あやかしものたちをひっつけたカラスが危うげなくこちらへ飛んでくる。暗闇にもかかわらず、白いカラスの姿はくっきりとしていて、カラスの周囲がうすぼんやりと照らし出されていた。
白いカラスが己の隣にスタリと舞い降りる。
すると己を助けたあやかしものがカラスの光にうっすらと照らし出された。
らんらんと光る大きな目。鋭く生えそろった歯。ぐっしょりと重く濡れた独特な質感の長い髪。差異があるとすればそのくらいか。これら差異を除けば、そのあやかしものの見た目はほぼ人間だった。
しかしふと、己の手の中にあるものに目を落とす。そこには半透明に透ける平べったい何かがあった。あやかしものはこれを鱗と言っていたのではなかったか。
ちゃぽん、また音がする。水面の下にゆうらりと揺れ、なまめかしく細かな光を照り返すそれは、たくさんの鱗だった。
あやかしものの水から出ている部分は人間なのに、腹より下は鱗が光り、それはまるで……。
『おや、犬。そいつは人魚じゃないか。捕まえたのか?』
カラスがさらりと言った。
そうか、やはりこいつは人魚だったかと、己はまじまじとそのあやかしものを見る。
人魚のあやかしものは不満げに頬を膨らませ、カラスに抗議した。
『オレは捕まったんじゃないよ。そいつと友だちになったんだ』
『へえ、犬。よかったじゃないか、友だちが出来て』
人間の友だちは一向に出来ないのにねえと皮肉交じりに言う白いカラスに、己はほっとけと返してそっぽを向く。
『ねえ、オレの鱗、きれいでしょう?』
手のひらの鱗をカラスの光に透かして見る。
それを欠けた皿と欠けた徳利、それから欠けた鏡も一緒になって見つめ、うっとりとため息なんてものを吐き出すものだから、笑ってしまった。
「……ああ、きれいだな」
人魚が嬉しそうな声を上げ、白いカラスが柔らかく目を細めた。




