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『犬は本当に聞き分けが無いのだから、仕方がないねえ』
己にしがみつく欠けた皿と欠けた徳利、それから欠けた鏡がカチャカチャと囃し立ててきた。
ほっとけ、と声にならない呟きを返す。
暗闇の中を限界まで走り、息が苦しい。
だが、まだ立ち止まるわけにはいかなかった。
後方から複数の足音が迫っている。
村を追われて二年が経っていた。
あの日、狒々の首なぞ見えぬ村人たちは、犬が錯乱したと恐れ、贄を台無しにしたと怒り、村を陥れたと憎んだ。己は村人たちからなじられ、殴られ、家を焼かれ、身一つで放り出されてしまった。
だが、一人ぼっちではない。
あやかしものたちが、なぜかずっと己についてくるからだ。
『犬がいないんじゃ、あの村にいても面白くないだろうが』
そう言って、こいつらはどこまでもついてくる。
行く当てもなく、金もない。途方に暮れている己に、物を売ることを勧めてきたのもこいつらだった。
最初は道中で採取した有用な野草や川で捕って干した魚の肉などを立ち寄る村や町で辻売りしていたが、そのうち資金ができると、立ち寄った村や町で特産品など珍しい物を仕入れて他の村や町で売るということもするようになった。
そうやって根無し草を続け、案外これが己の天職なのかもしれぬと思い始めていたのだが。
『あんなもの、ほうっておけばよかったろうに』
「そんな、わけにも、いかんだろう」
声が途切れ途切れになる。
足が鉛のように重く、思うように走れない。
己は自身の力の無さに苛立って、大きく舌を打った。
『そうかいそうかい、犬は本当にもう、頭が固いのだから仕方がないねえ』
己の横を並走するように飛ぶ白いカラスがケラケラと笑う。
辻売りが売るものは様々だ。
己と同じように別の村や町で仕入れた物を売る者もあれば、海でしか手に入らない塩を個人で専門に売り歩く者、ツチノコや河童の手など珍妙奇天烈で怪しげな物を売る者まである。
村にいたころよりも、己は幾分も“知らんぷり”が上手くなった。
以前までの己なら、売り物が本物のツチノコや河童の手でないとわかれば、その場で辻売りをとっちめていたところだが、別段売り手も買い手もそれを本物などと心より信じ込んでいるわけではないのだ。そういう色物が売っているという体で楽しむ、一種の娯楽なのだと、今の己は理解している。
しかし、今朝のあれは見過ごせなかった。
山も海もほど近く、そこそこに栄えているように見える町だった。
己の商売をどこでしようか町の下見をしている途中、大通りから少し離れた静かな道で、人魚の肉とやらを辻売りしているのを見たのだ。それだけなら、己も別段気にはしなかったであろう。
問題はその値段と客だった。
人魚の肉は金持ちの道楽に売買されている品だ。元々の相場も高いのだが、辻売りはそれにさらに色を付けた金額を提示していた。対して、客は見るからに貧相な身体にボロのような布で作ったほつれだらけの汚れた服を着ている。人魚の肉どころか、今日の食事にも困っているのではないか。
しかし、漏れ聞こえる会話を聞くと、どうやらその貧相な客は辻売りの常連のようなのだ。
「頼みます。家内はまだ、具合がよくならなくて……」
「ええ、ええ。そうでしょうねえ。もう少し量をね、継続して食べ続けないとね、ええ、本当にあともう少しの辛抱なんですがね」
「わかります、わかりますが、もう、金が……」
「いやー、まあ、お気の毒ではあるんでしょうがね、ええ、こちらも商売というやつでしてね、ええ、ええ」
「そこを、なんとか……頼みます……必ずお金は準備しますので……」
『おい、犬。てめえの考えなぞ、手に取るようにわかるぞ』
己が不快になりながらやり取りを見ていると、あやかしものたちがカチャカチャと囃し立ててくる。
「人魚なんてもんがいるのかは知らんが、あれはその辺の猿と魚をくっつけただけの、ただのまがい物だな?」
二年も辻売りを続けていれば、多少の知識もつく。人魚の肉に不老不死の力があるなどというたわ言が広がり、金持ちがこぞって人魚の肉を求め出した。確実に高値で売れるとあれば、まがい物が流通するのも時間の問題であろう。
『人魚はいるが、犬の言う通り、ありゃあ、まがい物に違いないね』
青い顔で頭を下げる客と、値踏みするようにそれを見下ろす人魚の肉売り。
己の中でふつふつとこみ上げてくるものがあった。
『だがなあ、犬よ。悪いことは言わんから、今回ばかりはおとなしくしておけ』
己はすでにあやかしものたちの声など聞いてはいない。
目の前の捻じ曲がった光景に心底腹が立っていた。
「おい、お前。それは人魚の肉なぞではないぞ」
己が吐き捨てるように言うと、人魚の肉売りと客がぎょっとしたように同時に己を見る。
「それはまがい物だ。そもそも、人魚の肉にある効能は身体を癒すのではなく不老不死になるというものだろう。量を食わねばならんというのも聞いたことが無いぞ」
「素人が口をはさむものじゃあ、ええ、ありませんよ」
人魚の肉売りが剣呑な顔をして、己に凄んでくる。己は何を言っても無駄だと判断し、人魚の肉売りに拳を叩きつけてやった。なぜか客が声を上げてひっくり返る。
殴られた人魚の肉売りは先ほどまでの余裕を無くしたようで、憎々し気に己を睨みつけると、覚えていやがれと捨て台詞を吐いた。
店をたたみ始めた人魚の肉売りに慌ててすがりついた客だが、軽くあしらわれてしまう。へたり込んだまま呆然と、足早に去る人魚の肉売りの後姿を眺めるその様子に、己は心配になってしまった。
「おい、しっかりしろ。具合の悪いカミさんがいるんだろ。さっさと帰って看病してやれ」
声をかけるが、ああ、ええ、などと呟くばかりで、立ち上がろうとする気配もない。
己は懐から紙に包んだ飴を出すと、いまだ立ち直れずにいる客に握らせた。
「あんな訳のわかんねえまがい物よりも、こっちの方がよっぽどいい」
困惑したように己と包みを交互に見やるその男を置いて、己は他の辻売りのできそうな場所を探しに来た道を戻ったのだった。
そして、今である。
『あのまがい物売り、質の悪い人間たちと繋がってたんだねぇ。商売を邪魔されたと、カンカンじゃないか。どうするんだい?』
「どうも、こうも、逃げる、しか、ねえよ」
泊まっていた宿に奇襲をかけられ、あやかしものたちの手引きで何とかここまで逃げ延びたが、相変わらず己を追う足音は消えない。
暗闇の中、道なき道を走ったものだから、ここがどこかもわからなかった。ただ、波の音がかなり近くからしているし磯の匂いが強まっていることから、海に出たのであろうということはわかった。
となると、いよいよ逃げ道は無くなって来たというわけか。
ほんのわずかに考え事をして意識が逸れた瞬間、己の足元から地面が消えた。
『犬!』
あやかしものたちの己を呼ぶ声が、あっという間に遠のいていき、目の前が真っ暗になる。