9.ふたたび晴天の下を歩く
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三日の後、ようやく長雨が明ける。朗らかな青天が顔を出した。
朝餉を済ませたところに老人が入ってくる。柚部は初めて、いわてとよう、二人一緒に顔を合わせた。
老人はにこにことして、手中の杖を柚部に差し出した。
「左衛さんが、出来上がったのを届けてくれましたよ」
手のひらに冷たくなじむ細身の杖は、白樫でできているらしかった。さっそくそれをついて、土間を歩いてみる…膝の痛みをずいぶんと和らげて、ぐっと速く歩くことができた。
自然に、柚部の口元がほころんだ。草履裏に踏みしめる地を感じる、…歩ける!!!
「もう薬湯も、要りませんね。おやっさま?」
老人の横、目を細めて見守るいわても微笑んでいる。
「ええ。痛みのぶり返しを感じられるかもしれませんが、すぐに慣れましょう。少し身体を動かしたほうが、治りも早まります」
柚部は二人に向けてうなづいた。
――これで待山の里を、自分の目で見ることができるようになる!
外に出る。やや柔らかくぬかるんだ地面に気を配りつつ、いわてに伴われて柚部は黒塚の屋形周りをめぐった。
柚部が寝起きしているのは、小さな離れ屋である。これを囲んでいる竹の透け垣を越えると、その前に緑豊かな畑が広がり、無数の青物が植えられていた。
「丸みがあって、変な畑でしょう?大昔は池だったのです」
いわてが示すさらにその先、どっしりと黒っぽく煤けたような屋形が見えた。記憶の中の熊河氏の屋形と比べればさほど大きくはないが、かなり古いもののようである。いわてはこの母屋に住んでいるのだと言う。
袴の足元に、ふわりとした感触があたる。見下ろすと、あの犬が柚部に寄り添ってきていた。
「…ゆきや」
柚部は身をかがめて、その真っ白な頭をなでる。犬は、犬なりの愛嬌をいっぱいに湛えて、笑い返してきた。
もともと毛色のよい雌犬なのだろうが、こうして朝の光の真下で見れば、本当に美しい獣だった。その主人に大切にされていることが、よくわかる。のぞいた歯なみさえ、つややかに輝いていた。
「…いわて様の犬ですか」
「ええ。仔犬のときに、隣の里からいただいてきたのです。本当に頭の良い子で、探し物はなんでも見つけてくれます」
そこで一瞬、いわては何かを言いよどむような素振りを見せた…が、すぐに明るく言う。
「わたしの妹のようなものです。美人でしょう?」
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黒塚の屋形は築六十年にもなると言う。
丸みを帯びた畑、ぽつぽつと椎や柏の樹が茂る庭をぐるりと巡ってくると、いわては柚部を母屋の厨口にいざなう。
「…正面からお通ししたいのですけど…」
台盤所の板敷に柚部を通す際、いわては何故か、決まり悪げな顔で言いよどんだ。
「少し…取り散らかって、おりまして」
うなづき目を伏せ、柚部は何も言わなかった。
いわては一見、だらしなさとは無縁に見える。けれど女の言葉を、いちいち額面どおりに受け取ってはならないのだ。弥衣と過ごした長い年月と苦い経験から、柚部もこれくらいは心得ていた。知らず触れずにいたほうがよいことと言うのは、この世にたくさんある。
そこで淹れてもらった香ばしいはと麦湯を飲み干し、よう老人は畑仕事に出ると言って辞していった。
柚部の杯に二杯目を注ぐと、いわては改まった態度で柚部に向き直る。
「どうでしょう、膝の痛みは?」
「杖のおかげで、かなり楽に感じます。けれどこうして座ると、やはり疼きます」
遠慮をしても意味がないと思い、柚部は正直に言った。
「そうですか…。絶対に無理はなさらず、当分はあまり長くは歩かないでください。けれど柚部さんはご自由の身なのですから、もちろんお好きに動いてもらって構いませんよ」
「あの。いわて様」
柚部は気になっていたことを、口にしてみる。
「私は凋落した側の者です。こうして匿っていただいたことには、心から感謝しているのですが…。一体どうしてこの御恩を返せばよいのかと、悩まない時はありません」
いわては柚部をまっすぐ見て、きらりと明るく微笑した。
「柚部さんは、なほさんがお墨付きで送られたお客様です。この待山の里の役に立って下さる日が、必ず来るでしょう。それまでお気を安らかに、まずはしっかり恢復なすってください」
なほの名が出た機会を、逃してはならないと柚部は思う。
「あの方は私を送り出した時、待山の皆様によろしくと仰いました。なほさんは、待山の人なのでしょうか?」
「ええ、そうです」
いわてはあっさりとうなづく。その拍子にはらりと髪がひと筋、前に流れ出た。それを右手でかき上げた時、目元の影…しわが、うっすら際立った。
「なほさんは、ようさんのお姉さんです。わたしが小さかった頃からもうずっと、あの大真狩の庵にいて、待山に招くべきかそうでないか、通る人を選り分けているのです」
柚部は首を傾げた。
「…人を、より分ける?」
「ええ。あの辺りで峠に足を向けるかどうかが、待山への岐点になりますでしょう?里に来てしかるべき方が通る時、正しい道を伝えるのがなほさんのお勤めです」
「では、私は…。来たるべき者として、道を示していただいたということなのでしょうか?…しかし一体、なぜ…」
「なほさんの考えは誰よりも深いですし、間違っていたことはほとんどありません。ですが里に来るべき理由については、まちまちなのだそうです。どうして待山にやって来たのか、何年も経ってからようやくわかる、というお客さまも珍しくはありませんよ」
柚部は首をひねり続ける。落人、しかもひどい傷を負った自分の、一体どこが老女の気に入ったのだろう?問いを変えてみることにした。
「それでは、来るべきでない人がなほさんの元を訪れたら、どうなります?」
「別の道、憩籠手への平坦な道を行くよう、示すでしょうね。それを素直に聞かず、無理にでも待山へ押し入ろうとするような輩であれば、もう先はありません」
「追い返すのですか」
「いいえ。待たれない人間に、里のことを知られては大変ですから、そこでなほさんが封じます」
「封じる…?」
「あの方の手刀・足刀は、里の守り刀です」
平らかに答えたいわてを見つめながら、柚部は絶句した。
自分に温かな粥をふるまい、傷を癒してくれたあの骨ばった手で、老女が人を殺めているとは想像できなかった。
わふん!
外で、ゆきがひと声鳴いたらしい。
「…わたしも、そろそろ勤めに向かいます。柚部さんはまた、離れでお休みください」
少しも急がない、落ち着いた仕草でいわては立ち上がる。
「昼餉は、ようさんかこめ小母さんがお持ちしますよ」
しなやかな腕に支えられて、柚部も立ち上がる。そのまま杖をとって晴天の下に戻るまで、いわては柚部の歩行を助けた。
頬に落ちる陽光が、やさしげに温かい。