8.雨夜の悪夢
・ ・ ・ ・ ・
その日は続く雨のせいで、床から見える景色は長いことけぶっていた。
かなり遠くで蛙たちが歌っているらしい。
鬱々とした眠りの合間、柚部は子どもの時に味わった、映山紅の花蜜の甘さを想っていた。
あの鮮やかな赤い花が熊河に咲くのは、もう少し先だ。たくさん吸い過ぎてはだめだよと言った、母の面影はもうはっきりと思い出せない。
昼餉と遅めの夕餉には、また重湯然の粥がよう老人によってもたらされ、日が暮れてぼんやりとした夜になる。
そして柚部は目覚めた。
何度まばたいても、自分の周りの闇が払えないことに気づいて、全身が強張ってゆく。
瞬時にして、身体じゅうの汗腺から冷たいものが噴き出す。耐え難い恐怖で喉が詰まり、息ができなくなった。
四肢の末端にむけて臍から震えがとどろき、そしてぱくぱくと開閉する口からようやく――…叫び声が出た。
少し離れたところで物音が起こる。
がたがたと戸が開いて、やわらかい光源が視界にふれた。
「柚部さん、いわてです」
手燭に照らされた顔が見え、あの力強い腕が首の根に差し込まれる。それで柚部はようやく、上半身を起こした。
どくどくと気持ち悪く脈が体内をめぐる、荒い息をいくらついても胸中に空気が入ってこない、満たされない。
「ここは。私は」
絞り出した言葉が、頭の中でわんわんと重く響いた。
「ここは待山です、柚部さん」
身体全体を巻き包む重苦しい空気をつき抜けて、さっと力強いものが背中の中心にふれた。
「あなたは今、黒塚の屋形にいるのです。松山の里の、黒塚の屋形です」
おだやかに繰り返す低い声が、柚部にまとわりついた闇を徐々に払って行った。
…どれだけそうしていたのだろう。ようやくいつもの呼吸を取り戻した柚部は、ゆっくり顔を回して左脇のいわてを見た。
女が無言で差し出した手巾を受け取る、…首筋と額に浮いた汗をぬぐい、そのまま両手で目に押し当てた。
「…お見苦しいところを…」
「落ち着かれましたか」
「夢かと」
「?」
手巾に目の周りを埋めたまま、柚部は呟くように言った。
「…いわて様に助け出されたことは全て夢で、私はまだあの穴底の暗闇の中…朽ちていく最中なのではないかと。そう思ってしまったのです」
柚部は目元から布を離せずにいる。恐怖のあまり潤んでしまった双眸を、いわてに見られるのが辛かった。たとえ薄暗い灯りのもとであっても。
いわては何も言わない、…背中の中心に添えられた手のひらだけが、熱をもってしなやかだった。
柚部がようやく顔を上げると、女は穏やかなまなざしでこちらを見ていた。手が背を離れる。
「…今日は、久方ぶりの雨でした。月明かりも差さない暗い夜ですから、無理もございません」
平らかに言いながら、いわては立ち上がる。手燭を、床から離れたところ…簀子に置いた。
「灯りを、ここに残していきましょう」
静かに去っていった。
しばらくぼんやりとしていた柚部は、ふと枕元の盆に気づく。杯の中の水を飲み、それから再び目を閉じる。
翌朝まで、安堵に包まれて眠った。
・ ・ ・ ・ ・
あくる日の朝も、柚部はいわてと顔を合わせた。
いわてが持ってくる朝餉は、様々な青物が入って目にも美しく、柚部は感慨無量で平らげる。
薬を塗って、ほかの食事を持って来るのは相変わらずよう老人であったが、こちらはごく平凡な味わいの粟粥だった。
しとしとと小雨が止まない。
暗い夜の訪れ、またしても穴底の夢に襲われるのではと危惧していたら、よう老人が土間にあの犬を連れてきた。
「このゆきはかしこい子ですから、お邪魔はいたしませんよ。いやな夢でうなされたら、起こしてくれましょう」
「…」
自分に向けて、にこにこ笑顔を向けている(ように見える)毛むくじゃらを前に、柚部は何も言えない。
犬は床下、重ねた古いむしろの寝床におさまって静かだった。
…果たして闇の中、眠る柚部はうつつの合間に、何度か「わふん」と鳴き声を聞いた気がする。
それで陥りかけた悪夢は遠ざかった。
眠りを貪って明けた朝、用足しのために柚部が戸をあけると、犬はそこからするりと抜け出て、あっという間にどこかに消えてしまう。