6.待山の里にて
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柚部は眠り続けた。
時々、ふつりと短く覚める。瞼をほそく開ける瞬間、何かしらの彩を感じては、再び夢の中に落ちこむ。
あまりに長い時を闇の中に過ごした者にとって、それは幸福、至上の悦びでしかない。
自分が墓の中にいないことをぼんやりと理解して、それで柚部は安堵して眠ったのだった。
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そうしてある日、柚部は静かに覚醒した。
身体じゅうに痛み、重い倦怠感、不快感がある。しかし胸の中に、清らかな空気が満ちている…気分がよかった。
開いた目に、見慣れぬ天井がまず入ってくる。次いで、柔らかい寝具の感触に気づく。
古い家屋の小さな一間に、柚部はひとりで横たわっていた。
何となく気配を感じて頭を横に向けると、几帳のたてかけられた向こう、簀子※の板張り縁に頭だけのせて、犬が真っ白な笑顔をこちらに向けていた。
「…おまえは」
小さく呟きかけると、犬は元気にわふん、と鳴いた。
――これこれ、ゆきやー…。
声とともに、足音が近づく。犬の脇に、ひょろひょろとした長身の老人が立った。竹箒のようなものを手にしている。
老人は犬の視線をたどったらしい、…床の中にいる柚部と合った目が、まん丸くなった。
「これは、…これは…!気がつかれましたか!」
そのまま外から、板張り簀子の上を膝で進んできて、ほころぶような笑顔で柚部を見下ろした。
「ご気分は、いかがです」
「…ここは…」
「ここは待山の里ですよ。あなたは怪我をなさいましたが、うちのおやっさまとゆきと、里の者がお助けしたのです」
うんうん、と満足げにうなづきながら、老人は低く囁いた。
「危ないことはもう、何もありません。安心して、お休みください」
少し耳慣れない調子、…しかしはっきりした物言いで言ってくる。似たような誰かに会ったことがあるな、と柚部がぼんやり思っていると、老人は手をのばして柚部の枕を直した。
「…詳しいことは、おやっさまが帰って来たら、じかに話せます。傷が痛むようなら薬を差し上げますし…、それとも何か召し上がりますか?」
ようと呼んでください、と老人は言った。一度いなくなり、鼻孔に甘い香りとともに帰って来る。柚部の背を支えつつ寝具で背枕をこしらえ、温かい粥を口に運ぶのを手際よく手伝ってくれた。
「ずいぶん長いこと、胃の腑もつらいのに耐えてきたのでしょうからね。ちゃんとしたものを召し上がるのは、もう少し先です」
粟の粒がかろうじてわかるほどの、ほとんど湯のようなしろものではあったが、甘みも塩もきいている。柚部はうれしかった。
食べ終えて後、薬湯の小さな椀を手渡された。飲みながら、意識を失っていた間は老人が下の世話もしてくれていたのだと知り、柚部はさすがに気まずさを覚える。ようは飄々としていた。
「いえね、私は慣れておりますから」
よう老人にこの里のこと、阿武と貴代川のその後を質してみたかったが、頭の奥がいまだぼんやりと重く、話し考えるのにも骨が折れた。
思い出したように左膝が痛み始め、老人が軟膏を塗る。慣れた芳香が鼻腔にはいる。…薬湯もそうだが、親切にしてくれたあの庵の老女の薬と、同じ匂いだった。あの人の名は何と言ったか。確か…。
「私をここに向かわせたのは、なほさんという方なのですが…」
再び横になった柚部の身体に柔らかい夜着をかける、老人の瞳がきらりと微笑んだ。
「ようく休んだ後に、おやっさまに全てをお話しなさればいいんですよ。心配することは、何もありません」
痛みとともに、意識が遠のいてゆく。老人が繰り返す、“おやっさま”とはいったい、誰なのだろう…?
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その後も長く、柚部は似たような風景を繰り返し見た。
目覚めると、簀子の上にゆき犬の顔があって、こちらに笑いかけてくる。よう老人に助けられて水と薄い粥をすすり、膝その他の傷に薬をつけてもらう。老人の肩を借りて立てるようになり、屋外へ用足しに出られるようになると、ある意味ようやく緊張が解けた。
毎食後の薬湯は、柚部をおだやかな眠りへといざなった。彼は目の前の事象に集中できる性質の男であったけれども、それでも後ろに残してきたものを思い出さずにいられたのは、この薬のおかげだったかもしれない。
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はっきりと目覚めて、五日も経った頃の朝。
柚部が用足しに起き出すと、辺りはいつもより暗い。霧のような小雨が、顔や肩にまとわりついた。
あの洞窟から助け出されて以来、久し振りに見る雨である。家の壁をよろよろと伝いあるき、内に入ると人の気配があった。
よう老人とばかり思っていたので、戸口のかげに大柄な女の後ろ姿をみとめた時には、少々驚いた。
女はふいと振り返ると、柚部に向かって小さく、素早く頭を下げた。
「お早うございます。朝餉をお持ちするところでした」
すいと柚部の左脇に寄ると、よう老人同様そつのない動きで、柚部の歩行を支える。
背中と肘に添えられた手が、しなやかでたくましかった。
「…ようさんからは、今までお床で召し上がっていたと聞いていますが。今朝は板敷であがりますか?」
歩みに響いてくる痛みの隙間に、女はきびきびと聞いてくる。
この低く動じない声はやはり、あの洞窟の中で聞いた声なのではないか?
「いえ、私はどちらでも…。良いようになさってください」
気後れて、口の中で呟くように柚部は言った。見たところ若い女だが、どのように接したらいいのか見当がつかない。ただの婢女とは思えなかった。
「わかりました。では板敷に用意しましょう」
わら編み円座を重ねた上に柚部を座らせ、膝下に手早く支えを入れると、女は出て行った。
柚部が寝ている一間、それに続く板敷は、土間を経て戸口に連なる。傍らの炭櫃には火が活けてあり、室内はほの温い。
音もなく、女が再び顔を出した。手にした質素な木製の高坏※に、大ぶりの鉢がのっている。それを柚部の脇に寄せた途端、甘い芳香が広がった。
ごくりと喉を鳴らしたのは、気を引き締めたかったからだ。…決して、空腹のせいではない…のだが。
「あの。御方…私は」
おずおずと言いかけた柚部に、女は初めて笑顔を見せた。柔らかい微笑、大きな双眸にどこか面白がっているような煌めき。
「まずは、温かいうちに。どうぞお召し上がりください」
やはり彼女なのだ、と柚部は内心で確信した。その声で、自分を闇から引き上げてくれた人。
そこで一礼して、今度は鉢に目を向ける…まばゆい、湯気。
(作者注)
簀子:ここでは現代日本家屋における濡れ縁、縁側のようなものとする。
高坏:一本足のミニテーブル。今回は、脚の悪い柚部に配慮して使用したものと思われる。