5.墓の底から春天にむかって
ざっ。
――音が聞こえた?いいや、気のまぎれだ。岩と土の壁は厚い。外の音は聞こえるはずがない。
ざっ、ざざっ。
――俺を喰いに来た、土虫のたぐいだろうか?おあつらえ向きに、俺は腐りかけているぞ。ひどい臭いにも、慣れきってしまったが。
ざあん。
仰向けのまま、柚部は強烈なものを見た――…突如、洞窟の天井部分のごつごつした岩肌が、明らかに目に入ってきたのだ。
驚くと同時に、強い痛みを瞳に感じ、柚部はぎゅっと目を閉じる。
「おおーい」
「わっふ、わっふ」
人と、獣の声…。
くぐもって幾重にも響き渡るそれらの声は、混じり合ってしまってよく判別できない。
だが、自分の存在を知らせねばならないということだけは、すぐにわかった。
「助けてくれ…」
言ったつもりが、しゃがれた擦れ声が弱々しく喉から漏れ出ただけだった。
それでも、外からの声はたちどころに静かになる。
「…ご無事ですか!」
低いが、はっきり女とわかる声が、柔らかく降りてきた。
「立ち上がれますか?」
見えない何かが、柚部を支えつつあった。
ゆっくり目を瞬きながら、明るさを感じる方へ顔を向ける。
「難儀して…います…」
「犬がそちらに降ります。良い子ですからご安心ください。縄の輪を両の脇に通したら、引き上げます!」
ようよう上体を起こした柚部が目を細めていると、洞窟が完全に塞がれる前にあった上方の孔のあたりから、光が漏れているのがわかった。そこからふわり、と何かが顔をのぞかせる。
そのかたまりは優雅な動作で、苦も無く柚部のすぐそばに降り立った。すとん!
豊かな毛に包まれた、大きな犬のようだ。しかし柚部のいる暗がりでは、それがどんな色をしているのかまではわからない。
犬は、柚部に向かって何かを押し付ける、…口にくわえてきた太い縄だ。
ふらふらと力の入らない身体を、柚部は無理に動かす。片膝をたてて、その縄の輪に肩をくぐらせた。
「ゆきちゃーん!大丈夫?」
わふっ、女の声に犬が応えた。
「孔は細うございます。鎧や武具などは、どうかお棄ておきください」
もとより大鎧はだいぶ前に脱いでしまって、柚部は直垂姿で右手に長刀を握っていた。
両脇に縄がはさまると、犬が大きく吼える。
「では、引きますよ!ゆきちゃん、準備はいい?」
柚部はよろよろと腰を落とし、犬を抱えようとしたが力が入らない。それを見て、賢い獣は全てを心得ているかのように背に回り、前脚をそろそろっと柚部の肩にかけた。ずっしりと重かった。
太く硬い縄が張り詰めていく。洞窟の口を塞いだ巨大な岩の粗い表面に擦り付けられながら、柚部はずるずると上昇していく力に乗った。つかみどころのない岩表面に、必死に右足左手を押しつける。
縄を引く力は強かった。話し声は女のものしか聞こえなかったが、孔の向こうには屈強な男が何人もいるらしい。
柚部の頭が孔と同じところまで来ると、犬がぎゅうっと前脚に力を込めた。続いて後ろ足、柚部の背から孔へと飛び移る。光の差し込むその先へと続く孔の中へ、柚部が続くのを待っている。
犬にはちょうど良くても、肩幅のある柚部には絶望的なほど狭い孔に見えた。縄をつけたまま、引く力に助けられつつ這い進むと、果たして胸がつかえた。
疲労が一挙に押し寄せる。先を進んでいた犬がくるりと振り返った。励ますかのように「わふん」とささやき、鼻づらを柚部の頬に寄せてくる。
「…つかえたのですか?皆、引くのを止めて」
女の声は、あくまでも冷静である。
今にも気を失う寸前、切れ切れに揺らぐ意識を必死に押しとどめつつ、柚部はつかえた胸をよじった。
そして、いまだ右手に持っていた長刀のことを思いだす。その柄を握り直し、渾身の力をこめて石突を後方へ押してみた。
二度、三度、…
ずっ、と音がして柚部の胸は前方へすべり出る。
弾みで長刀はそのまま後ろへ飛び、柚部の手を離れた。
犬がほえ立て、再び縄が引かれ、
…そして柚部は再び世界を見た。
額に触れる細かい霧雨の粒、冷たく甘い、清らかな空気の流れ。
煙るように柔らかい、淡い新緑の背景…。
そこには何人もの男たちがいた。全員が泥まみれで、歓声を上げていた。
やはり泥まみれの女が、泥の中に横たわった柚部の上にかがみ込み、その肩に優しく触れてささやいた――
「おいでなさいまし。もう、大丈夫です」
本当の空の下、女の顔はあふれかえる光のせいで見えなかった。
光と生の渦の中、柚部は静かに意識を手放す。