34.生きてゆく意味
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雪が降り、積もり始める。
待山の里は冬籠りに入った。よう、こめ、なほに柚部と、四人がかりで屋形周辺の雪をのけても限りがない。
故郷熊河には、ここまでの雪というのは積もらない。柚部はよう達に教えられて、どうにか母屋や小家、離れの屋根の雪を下ろしてゆく。
そして、名に反してゆきは寒いのが苦手らしかった。柚部が古籠にぼろ布を敷き詰めたのを床下に置くと、もうそこにこもってしまって出てこない。
ある朝早く、寝床の中で柚部は夢うつつに妙な声をきいた。うんにゃあ、と猫のように長く引く声である。
明るくなってから床下をのぞくと、ゆきが腹に五匹の仔を抱いて乳をやっているのが見えた。
柚部は息を止めて、干し魚と水の器をそうーとその近くに押してやる。
待山の年末年始は、ごく質素なものだった。
神棚に酒を供え、新年の膳では強飯に酒杯がつく。雪に閉ざされない熊河ではもう少し賑やかな宴を催し、人びとは足繁く知己のもとを行き来するのが常だったが、白い厚壁に全てを囲まれるこの地では、そういった難儀は誰もが避けるようである。
晴れわたった正月七日、乾物などを利用して作った七種の粥はなほの手によるもので、柚部は嬉しかったがようとこめは軽く一杯を食するだけである。
それを食べ終えるとなほは暇乞いをして、雪の高く残る森中の道を矍鑠と去って行った。
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麻見と話した通り、柚部は教所へ移り住むつもりでいたのだが、ようとこめとは二人がかりでそれを引き留める。
床下で仔を産んだままのゆきが心配らしく、離れで寝起きしながら教所に通って欲しいと言う。さほどの距離ではないのだが、それを聞いて麻見はやや鼻白んだらしい。
「まるで、ゆきの夫君のようですな」
皮肉を言われ、そこにいわてとの揶揄を感じて、柚部は恐縮した。
そう言う訳で、柚部は門前小家で朝餉をとって教所へ赴き、麻見の傍らで子ども達の素読を助け、庭で長刀の稽古をつける。昼は近所の女房の世話になり、麻見の身の回り、教所の片づけなどをこなしてから、黒塚の屋形に帰ると言う日々が始まった。
内々のことは近所の女房がこなしてくれて不足はないが、家屋と塀の傷みが目に余った。雪の合間を見て、小刻みに修繕を入れていく。
ぞんざいに始末されていた竹まがきの結び目を見て、位聡はこの手の仕事に向いていなかったのか、と思う。
教所内の小室が与えられていて、柚部が希望すればそこで寝起きできるのだが、位聡の使っていた所と思うとやはり気持ちが悪かった。
そのことを麻見に正直に打ち明け、祓をしたいと言うと、「それは要りません」とあっさり返された。
「柚部さん。あなたあの男がどうなったか、聞いていますか?」
背中に悪寒が走るのを隠し、努めて冷静に答える。
「…ご遺体は、裏山の蔵に入れられたと」
「そうそう。身体は死んでおったが、蛭に悪い血と邪な気を吸われ、魂は浄くなって来世に向かったことでしょう。そのうち、春の花にまぎれて美しく咲くやもしれません」
「…」
「来て間もないあなたは抵抗があるでしょうが、待山の蛭は山神の使いです。夜叉衆の勤めを大いに助けてくれますし、悪いものを吸って身や心を浄めてくれるからこそ、罪人はあそこに入れられるのです。位聡のことはまあ、時々西に向かって供養の祈念を送ってやれば、化けて出ることはありませんよ」
白い長髭をゆらして、翁は淡々と語った。
「万が一、あれが怨霊になってあなたに迷惑をかけるようでしたら。愚痴を好きなだけ聞いてやるから、酒を持って私のところに来い、と言ってやって下さい」
どこまで本気なのだろう、老人の妙な理屈を聞いていると肩の力が脱けてくる。
この男もかつては、西の都で手腕をふるっていたという。貴人出の識者だが政敵に謀られて一族郎党を滅ぼされ、寒河美辺りに逃げ延びたところで、たまたま夜叉衆に見出されたらしい。
以来数十年にわたって待山で子ども達に教えているという話だが、麻見なりに若い位聡を案じていたのだろうことは、言葉の端々に汲み取れた。
「全く。男子が恋に身をやつし、果てにおのれの情欲に敗けるとは、けしからんこと甚だしい。そもそもは生を昇華させるための情念だというのに、身を亡ぼす種にしてしまうとは言語道断だ」
老人は、ぷりぷり腹立たし気に続ける。
「…だからと言って、女子のみめ麗しいのを罪作りと責めるわけにもいかん。若い者たちに、人を恋うなと言うのも馬鹿げておる。何しろ自分ですらどうにもならんのが情念なのだから、周りの者がどう言おうと、心は嘘をつけずに泣いたり叫んだりするのですな…」
はあー、と溜息をついて老人は一時口をつぐんだ。この機会を、柚部は逃すまいとする。
「麻見先生は以前、待山に至ったことの意味を見出したか、と私に聞かれましたね」
「? ええ、聞きましたね」
「里の外に残してきたものが、全て過去となった今。私は、私を求めてくださる皆様に応じることこそ、自分がここにいる意味と感じています」
ほうほう、と老人は頷く。
「ですから私はこの教所で、精一杯先生にお仕えしようと思いますし、百乃や子ども達にもできる限りを教え、伝えようと思います」
ごくり、と唾を飲み込む。
「そうして、このような手負いの落武者を求めて下さるいわて様に、身を捧げる所存です」
低頭したまま、今後も黒塚の屋形…いわての元に通うことを一気に告げた。
老人は、うわあ、と声を上げてひっくり返りそうになり、慌てた柚部に支えられる。
「ちょっ、ちょっと柚部さん、じゃあ…あなた!?あの夜叉と契ったのですかッッ」
「…そんな風に仰らないでください」
「何をどうしたら、そういう成り行きになるんです!ああそうか、承知せねば蛭責めにすると脅されたんですな、そうでしょう!?いやはや、何と言う恐ろしい女だ!!さすがはいわて、我らが待山を統べる裏の大夜叉ッ!!」
格調高くもおどけて唸り上げるその言い方に、こらえ切れず柚部は噴き出した。愉快な上司を持ったものである。
――そう。恐ろしくも最惜しく、離れがたい夜叉。落武者の我が背と、慈しんでくれるか。いわて様。




