33.結ぶ粥
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どうか自身を大事にして欲しい、こちらは息災であると、柚部はいわてに簡潔な返信をしたためた。
それを黒衣の男に託して、柚部は一人で湯治に向かう。
いわてが言ったように、ゆきは本当に身重になっていて、門前小家や離れの土間からあまり離れようともしない。柚部の出立を、戸口の脇から恨めしそうに見送ってくる。
冷たい大気の中、もはや最後かと思われる紅葉が林に降り積もり、侘しくも絶景であった。
深閑とした湯治場で一人過ごせば、何やら時のはざまに迷い込んだような気になる。
夜は束の間、小屋から出て星空を見上げた。遠く離れた西の地で、自分を救った女も同じ星々を見ているだろうか、と思いながら。
三日とごく短い滞在を終えて、柚部は足取りも軽く待山に戻った。
あまり長丁場にしなかったのは、いわてから続く文が来るかもしれないと期待するがゆえである。
山路を行っても、膝の痛みはもう苦にならない。昔のような歩みには戻れずとも、自分の足で歩いているこの現在を、柚部は有難い奇跡と心から思った。
「ご快復なされて」
黒塚の屋形に帰りついた時、ようがしみじみと言う。その言葉が、胸に温かかった。
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その一回りほど後。便りの束を携えて、なほが待山の里にやって来た。
全く変わらない骨と皮ばかりの筋張った姿、しかし優しい笑みを湛えた老婆を迎えて、柚部は感慨で息がつまる。
毎年、師走から正月までは別の夜叉衆が大真狩の守りを引き受けるので、なほは唯一の肉親である弟ようの所で過ごすのだそうだ。
門前小家の板敷で、柚部はなほに向かって深く礼をする。
「いつぞやは、誠にお世話になりました。あの時助けていただけなければ、私は今ここにおりませんでした」
「いいえ。ここまでたどり着いたのは、あなた様ご自身の苦心の賜物ですよ…。行き来する夜叉衆から、お話は伺っています。まあ、本当によくご快復なされて、ねえ…」
里に帰省してくつろいだ様子の老婆は、前に会った時よりずっともの柔らかく、また柚部への話し方にも親しみがこもっていた。語尾に懐かしい響きを感じると思ったら、亡き母に話し方が少し似ているのである。
滞在中は母屋の台盤所脇、小さな室を使うと言い、こめが調度をしつらえるのを柚部も手伝った。
こめが小家になにがしかを取りに行き、二人になったところで、板敷を見渡したなほは何気なく柚部に問う。
「おやっさまは、柚部さんに朝餉夕餉のおしたくをしていたのかしら?」
「ええ。いらっしゃる時は毎日、粥を作ってくださいましたよ」
老女に自分といわてのことは知れているのかな、と柚部は思った。
「…なほさんに作っていただいた粥は、大層うまいものでした。いわて様の粥はなほさんのに、よく似ていると思ったものです」
なほは微笑んだ。
「ええ、それは道理ですよ。あの子に煮炊きを仕込んだのは、このわたしですから」
「ここで、ですか?」
目をしばたたかせる柚部を、なほはにこにこ見上げたまま言う。
「柚部さん。あの子は、わたしの姪でもあるのです」
いわての父は先代の大夜叉だったが、男児の出産時に妻を亡くす。その後、隣里に居たなほの妹・あずの元に通っていわてをもうけた。なほと弟のようは、近侍を多く輩出する待山の家に生まれ、自身も黒衣をまとって各地を転々とする夜叉衆だったが、あずだけは体が弱くて勤めに向かなかった。親戚筋に、養女として迎えられていたのである。
いわての出産後、あずは次第に病がちとなる。決意して幼い娘を黒塚へ送り出し、出家してその後亡くなった、となほは語った。
腹違いの兄同様、近侍として当時門前小家にいた夫妻がいわてを育てたが、なほやようは里に帰るたび、小さな姪を慈しんだのである。
「あの子は、わたしの作るお粥がいちばん好きだ、お母さんのにそっくりだ、と言いましてね。少し大きくなってからは、せがまれて作り方を教えたものです」
夜叉となるべく教育を受けはしたが、父と兄が健在であった頃は、いわては勤めに出る必要はなかった。近隣の里に嫁いだくだりは、いわて本人に聞いた通りである。
その安寧が父の逝去と兄の病没によって覆され、いわては父の弟である叔父に次ぐ、中夜叉としての運命をたどることになった。
柚部はここまで聞かされてようやく、ようやこめ、なほに対するいわての親しみを理解する。
「柚部さんもねえ、お粥さんでしたね…」
老女はふっと、遠い目になった。
「妹、あずのお粥は、まあ病がちの身でつくるものですから。どうしても汁気が勝って、目に躍る粟粒以外の鮮やかなのを入れたくなるんですよ。わたしは妹の供養の意味もあって、毎回ああいう風に作るのですけれども。普通の方ならまず、そこまで美味しいとは思わないのです。ところが、あなたと来たら、まぁあんなに美味しそうに召し上がって…」
くくく、と思い出したように含み笑いをする。少し剽軽なくらいだ、これが老女の素なのかもしれない。
「お婆さんなりに、うっとり惚れぼれしましたねえ!そうして、この人をおやっさまにも会わせたら、と思いついたんですよ」
「…」
「くくく、わたしの勘もまだまだ衰えちゃいませんね」
その時、門の方から自分の名を呼ぶ声がして、柚部はふわりと首を回す。甲高い少女の声、百乃だ。
長刀を見込まれたわけではなかったのか、と内心苦笑しつつ席を外そうとする。
「どれ。それじゃここにいるうちは、わたしもこめさんの邪魔をして、お粥をこしらえますかねえ」
すまし顔で、やっぱり老女は笑っている。
後で開いたいわての文には、前回同様の簡潔漢文で近況が記されており、最後はみみず調かなで結ばれていた。
あはむとぞ思ふ。
苦手なりに、かなで自分の胸中を示そうとしているのだとしたら、健気としか言いようがない。手燭の灯りで墨を擦り、返信をしたためる。
湯治に赴いて体調がますます良いこと、年明けに麻見の教所へ移り住む段取りを細かく取り決めたこと、既に子ども達と会って稽古を始めたことなどを、書き連ねる。
この文がいわての元へ届くのはいつになろうかと思案しつつ、無事に年の瀬を迎えて欲しいと結んだ。
「…」
熱き粥いと恋し と、こちらもかなで書き添えれば通じるだろうか。




