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夜叉と落武者  作者: 門戸
32/35

32.あはむとぞ思ふ

 

 ・ ・ ・ ・ ・



 やがて、初めての便たよりが届く。


 いわてと共に出立した者たちとは別の、しかし同様に黒い衣姿の男がやってきて、よう達の前に文の束を置いた。


 その中からこめに、ように、そして柚部にとり出してから、男は別の家に向かうと言って去ってゆく。



「出立から二月ふたつきも経ちましたし。おやっさまもようやく陣に落ち着いて、筆をとれたと見えますねえ」



 自分宛の文を手に、こめは嬉しそうだった。


 いわてと同行の男たちは戦の中でも、里の家族や親しい人たちに向けて、様々に便りや勤めの指示を書き送ると言う。


 奥の地と西国の間を、各地に散る夜叉衆や信頼のおける商人などがつないで、文が頻繁にやりとりされるのだそうだ。ふと、なほのところにも文が渡っているのかなと、柚部は何気なく気づく。



 そっと門前小家を辞して離れに戻り、いわての文を開いてみる。


 柚部の名が堂々と記されていた。


 初めて見るいわての漢文はゆったりと豪放で、知らなければ男の書かと思うほどである。


 自分が健在であること、現在地の気候、柚部の膝への気遣いなどが読みやすく綴られていた。



「…」



 もちろん、後朝きぬぎぬの文めいたものが送られてくるわけはないのだが、あまりの簡潔さ明快さに、柚部は肩透かしを喰った気がする。


 しかし一番最後の折り返しをひらいたところで、おやと思う。



 あはむとぞ思ふ  祝風



 それで終わり、である。


 柚部はしばらく首を捻った。そうしてようやく、それが自分のう女の正しい名、祝風いわてなのだと気がついて、胸が熱くなる。



 ――…?それにしても…。



 この部分だけがかな・・で、しかも蚯蚓みみずがのたうち回ったかと思えるような、強烈にまずい字であった。


 井戸端で水を汲みかけるこめを手伝いかけて、さりげなく問うてみる。



「いわて様は、漢文がたいへん上手なのですね」


「ええ!もう亡くなられたのですけど、おやっさまが子どもの頃、教所にいた先生がとてもいい方でしてね。それにあんなお勤めですから、夜叉衆への指示は全部漢文で書かれるんです。わたしどもへの文もそうですし、柚部さんにも漢文で書いてよこしたのでしょう?」


「はい」



 柚部は小さな嘘をついた。



「他の女房がたのように、かなは使われないんですね」



 こめはくすりと笑った。



「それが、ねえ…。おやっさまはあれで、色々と得手・不得手が激しいのですよ。ずっと小さい頃から歌を詠むのも大きらい、自分には通ってくる男なんているわけないから、歌の作り方も文のかな書きも要らないんだ、なんて。かわいい屁理屈ばっかり言って、お稽古を逃げていましたっけ」



 その日から柚部は、いわての文を枕元に置いて眠った。あはむとぞ思ふ。




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