30.夜叉、黒塚いわて
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確信が持てなかった。幸せな夢を見ただけなのかもしれない、と思う。
柚部は一人簀子縁に腰かけて、両手で顔を、目元の辺りを覆っていた。
時の流れがのろいのか速いのか、…早や薄闇が降りかけて、冷ややかな大気が室の中にまで忍び込み始めている。
いつのまにか静かにいわては帰って行って、…自分がどの位ここにこうしているのか、柚部には見当がつかない。
あの、いわてが。
気高く強く真摯な、待山の長のいわてが、自分を。
やはり夢だったのだろうと、柚部は嘆息をつく。
自分も位聡と同じだ。いわての良心にほだされて、いつの間にやら邪な下心を抱いてしまったと見える。しかも自分の場合は、年甲斐もなく…。柚部は心の底で恥じた。
「柚部さーん」
遠くで呼ぶ声を聞いたような気がして、柚部は両手を下ろして顔を上げる。
これも現なのか、夢なのか。ためらって返事をせずにいると、甲高い老女の声が再び呼びかけてきた。
「柚部さーん。お休みのところ、すみません…」
こめである。
「…はい、」
「おやっさまがお呼びです。直衣を着て、母屋へいらしてくださいまし…」
「わかりました」
擦れ声で応えると、こめの足音が離れ玄関先から遠ざかる。
――直衣?
どうしてそれを指し定めるのか、理由を思いあぐねる気も削げている。
柚部はゆらりと立ち、室の隅の籠櫃の中に衣を探した。そう言えばつい先日、こめが縫い上げてよこした新しい衣が直衣であったはず…。
柔らかい生成色の衣に着替えていると、ふと足先に何かが当たった。
裾を上げると、丸みを帯びた薄紅色の小さな香袋らしきものが、板敷床に転がっている。拾い上げて凝視しても、やはり見覚えのないものだ。
何故こんなものが、と何気なく袋を開くと、紙にくるまれた枯花が出てきた。野菊の芳香がかすかに漂い、柚部はどきりとする。
自分が摘んでいわてが持ち去った、月見の菊ではなかったか?
いわての物だと確信した。袂に入っていたのが、衣とともに床に落ちて、転がった…。
唇と、次いで心を重ねた数刻前の“夢”の記憶があらたに脳裏に蘇って、柚部は眩暈を感じかける。
一体どんな顔をして、いわてに会ったらよいのだろう?
もう陽の沈むところ、薄闇の降りた小径では虫がかすかに鳴いている。
困惑を振り払えないままに柚部が母屋台盤所の戸を開けると、板敷に誰かが振り返った。
その立ち姿を見て、柚部は息を呑む。
いわては漆黒の衣を身に着けていた。
それは褐衣に括袴、いわての身体に合わせてあるものの、どう見ても武官装束である。
白い頬の脇に老懸が際立つ、小さな冠…その中には高く結った、あの黒髪が入っているのか。
紅をさしたいわてを、初めて見た。その唇が、血の気のない顔に映えてとてつもなく美しかった。
「…柚部さん。どうぞ、おかけになってください」
低い声で柚部に優しくすすめて、いわては自分もその側に座った。
いわての身体を前にして、あの強烈な記憶が蘇る。自分の動悸がうるさい。
しかし女は、まったく別の話を切り出した。
「西国の戦へ赴くことになりました」
突飛である。柚部は唖然として、声も出せない。
「今朝、お産の後に知らせがありました。寧降で叔父が負傷したので、わたしが代わりに黒塚本隊の指揮を執りに参ります。幾月か屋形を留守にしますので、柚部さんはどうぞお大事に」
あまりの衝撃に、柚部は押し黙るしかなかった。いわては穏やかに続ける。
「雪の具合にもよりますが、年内にもう一度、湯治に行って下さい。それで調子が良いようであれば、養生はおしまいです。年明けに、教所に移っても構いません。ただし杖は手放さず、絶対に無理はしないでくださいね」
「…いわて様…」
ようやく、しゃがれた声が出た。続ける言葉が見つからず、必死で袂をたぐって例の香袋を取り出した。
はっとした様子で、いわてはそれを受け取る。わずかに頬を赤くしながら、自身の懐中へしまい込んだ…大切そうに。
「ありがとうございます。…落としたことに、気づきませんでした」
やはり夢でなかったと知れて、柚部の中に痺れるような、安堵のような感情が湧き上がる。知らずと胸中に育んでいた、いわてへの思慕が見せた幻影などでは、なかったのだ。
いわては柚部を真っ直ぐに見つめ、そしてついと近くに膝を進める。
母屋の中は静まり返っていたが、誰かの耳を気にするようなごく小さな声で、いわては囁く。
「先ほどは、本当に失礼しました。想いが叶ってわたしは嬉しゅうございましたが、柚部さんにはご迷惑だったと、反省しております。どうかさっぱり、お忘れください」
寂しげなような、照れたような顔で言う。それが本当にいじらしかった。我慢がならなくて、柚部は両手でいわての右手を取った。
「…それは、できません」
いわての瞳に、悲しくも美しいあの輝きが灯る。
「…柚部さん。正直に仰ってください…いわては、お気に召しましたでしょうか?」
内心、柚部は泣きたいような気持でいる。悲愴な唸り声で応えるしかなかった。
「あのような幸せを授けられたのは、前にも後にも一度きりです」
重ねた手に力がこもり、いわては潤みかけた目を閉じる。しばらくしてそれを見開くと、今度は朗らかな調子で言った。
「お願いがございます」
「…はい?」
「柚部さん。今度の勤めを終えて帰ったら、いわての旦那さまになっていただけますか?」
「はい」
「教所から毎晩、ここへ通っていただけますか?」
深く頷く。
「それでは、わたしはそれを楽しみに、一生懸命に勤めて帰ることにしましょう」
言いながら立ち上がった。
「そうそう。ゆきちゃんのことを、どうぞよろしくお願いします。どうもお腹に仔を宿しているようなので、どうか気をつけて見てやってくださいませ」
いわては柚部を板敷の先の廻廊へ、母屋の奥へと導き、扉を引く。
そこは広大な室であった。几帳が三方にめぐらされ、南側に大きく開いた側から外が見える。
何脚もの灯台明かりが照らす板敷の中央には、六人の男たちが座していた。
いつか会った忠葦と、他に青年壮年がまじっている。皆、いわて同様の黒づくめの恰好をしており、旅仕度なのか小ぶりの葛籠のようなものを脇に置いていた。
その室の隅に、こめとようが控えている。いわてはそこへ行くよう、柚部に目で促した。
老夫妻と目礼を交わし、そして柚部を優しく見つめてから、いわてはくるりと身を翻した。
「参る」
よく通る声で、いわては言い放った。
さっ、と六人の男たちが立ちあがり、葛籠を背にする。いわては男達のもとに歩み寄り、自分も葛籠を背負うと、南側の縁に立った。その先に見える大小の裏山に向かって、宣言しているようだった。
「夜叉、黒塚いわて。参る」
そして段を下りる、庭へと至る。
「御夜叉様」
「御夜叉様」
男たちは口々に呼び合いながら、一人また一人といわてに続く。
最後にようとこめが続き、左脚を引きずって柚部もそれに倣う。ようが持ってきてくれていたのか、ちゃんとそこに置いてあった杖を手に、履物をはいてついてゆく。ふわり、とゆきが出てきて柚部の右側に寄り添った。
いわてを先頭に、黒衣の男たちの行列は門を出る。
そこには何十人もの里人たちが、おのおの松明を手に、無言で佇んでいた。
いわてと黒衣の男たちは、進んでゆく。ようとこめの背後に、柚部が付き従う。少し間をおいて、里人たちがついて来る。
やがて樹々が少なくなり、里の境である粟畑の広がりへ来たところで、ようとこめは立ち止まった。他の里人たちも、もう先へは進まない。
いわてと男達の黒い後ろ姿だけが、峠に向かって黙々と前進を続けてゆく。…やがてその影も気配すらも、森の闇の中へと吸い込まれてしまった。




