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夜叉と落武者  作者: 門戸
30/35

30.夜叉、黒塚いわて

 

 ・ ・ ・ ・ ・



 確信が持てなかった。幸せな夢を見ただけなのかもしれない、と思う。


 柚部ゆべは一人簀子すのこ縁に腰かけて、両手で顔を、目元の辺りを覆っていた。


 時の流れがのろいのか速いのか、…早や薄闇が降りかけて、冷ややかな大気がへやの中にまで忍び込み始めている。


 いつのまにか静かにいわては帰って行って、…自分がどの位ここにこうしているのか、柚部には見当がつかない。



 あの、いわてが。


 気高く強く真摯な、待山まつやまおさのいわてが、自分を。


 やはり夢だったのだろうと、柚部は嘆息をつく。


 自分も位聡いさとと同じだ。いわての良心にほだされて、いつの間にやらよこしまな下心を抱いてしまったと見える。しかも自分の場合は、年甲斐もなく…。柚部は心の底で恥じた。



「柚部さーん」



 遠くで呼ぶ声を聞いたような気がして、柚部は両手を下ろして顔を上げる。


 これもうつつなのか、夢なのか。ためらって返事をせずにいると、甲高い老女の声が再び呼びかけてきた。



「柚部さーん。お休みのところ、すみません…」



 こめである。



「…はい、」


「おやっさまがお呼びです。直衣のうしを着て、母屋おもやへいらしてくださいまし…」


「わかりました」



 かすれ声で応えると、こめの足音が離れ玄関先から遠ざかる。



 ――直衣のうし



 どうしてそれを指し定めるのか、理由を思いあぐねる気もげている。


 柚部はゆらりと立ち、室の隅の籠櫃かごびつの中に衣を探した。そう言えばつい先日、こめが縫い上げてよこした新しい衣が直衣であったはず…。


 柔らかい生成きなり色の衣に着替えていると、ふと足先に何かが当たった。


 裾を上げると、丸みを帯びた薄紅色の小さな香袋らしきものが、板敷床に転がっている。拾い上げて凝視しても、やはり見覚えのないものだ。


 何故こんなものが、と何気なく袋を開くと、紙にくるまれた枯花が出てきた。野菊の芳香がかすかに漂い、柚部はどきりとする。


 自分が摘んでいわてが持ち去った、月見の菊ではなかったか?



 いわての物だと確信した。たもとに入っていたのが、衣とともに床に落ちて、転がった…。


 唇と、次いで心を重ねた数刻前の“夢”の記憶があらたに脳裏に蘇って、柚部は眩暈めまいを感じかける。


 一体どんな顔をして、いわてに会ったらよいのだろう?


 もう陽の沈むところ、薄闇の降りた小径では虫がかすかに鳴いている。


 困惑を振り払えないままに柚部が母屋台盤所だいばんどころの戸を開けると、板敷に誰かが振り返った。


 その立ち姿を見て、柚部は息を呑む。



 いわては漆黒の衣を身に着けていた。


 それは褐衣かちえ括袴くくりばかま、いわての身体に合わせてあるものの、どう見ても武官装束である。


 白い頬の脇に老懸おいかけが際立つ、小さな冠…その中には高く結った、あの黒髪が入っているのか。


 紅をさしたいわてを、初めて見た。その唇が、血の気のない顔に映えてとてつもなく美しかった。



「…柚部さん。どうぞ、おかけになってください」



 低い声で柚部に優しくすすめて、いわては自分もその側に座った。


 いわての身体を前にして、あの強烈な記憶が蘇る。自分の動悸がうるさい。


 しかし女は、まったく別の話を切り出した。



「西国の戦へ赴くことになりました」



 突飛である。柚部は唖然として、声も出せない。



「今朝、お産の後に知らせがありました。寧降ねふるで叔父が負傷したので、わたしが代わりに黒塚本隊の指揮をりに参ります。幾月か屋形やかたを留守にしますので、柚部さんはどうぞお大事に」



 あまりの衝撃に、柚部は押し黙るしかなかった。いわては穏やかに続ける。



「雪の具合にもよりますが、年内にもう一度、湯治に行って下さい。それで調子が良いようであれば、養生はおしまいです。年明けに、教所に移っても構いません。ただし杖は手放さず、絶対に無理はしないでくださいね」


「…いわて様…」



 ようやく、しゃがれた声が出た。続ける言葉が見つからず、必死で袂をたぐって例の香袋を取り出した。


 はっとした様子で、いわてはそれを受け取る。わずかに頬を赤くしながら、自身の懐中へしまい込んだ…大切そうに。



「ありがとうございます。…落としたことに、気づきませんでした」



 やはり夢でなかったと知れて、柚部の中に痺れるような、安堵のような感情が湧き上がる。知らずと胸中に育んでいた、いわてへの思慕が見せた幻影などでは、なかったのだ。


 いわては柚部を真っ直ぐに見つめ、そしてついと近くに膝を進める。


 母屋の中は静まり返っていたが、誰かの耳を気にするようなごく小さな声で、いわては囁く。



「先ほどは、本当に失礼しました。想いが叶ってわたしは嬉しゅうございましたが、柚部さんにはご迷惑だったと、反省しております。どうかさっぱり、お忘れください」



 寂しげなような、照れたような顔で言う。それが本当にいじらしかった。我慢がならなくて、柚部は両手でいわての右手を取った。



「…それは、できません」



 いわての瞳に、悲しくも美しいあの輝きがともる。



「…柚部さん。正直に仰ってください…いわては、お気に召しましたでしょうか?」



 内心、柚部は泣きたいような気持でいる。悲愴な唸り声で応えるしかなかった。



「あのような幸せを授けられたのは、前にも後にも一度きりです」



 重ねた手に力がこもり、いわては潤みかけた目を閉じる。しばらくしてそれを見開くと、今度は朗らかな調子で言った。



「お願いがございます」


「…はい?」


「柚部さん。今度の勤めを終えて帰ったら、いわての旦那さまになっていただけますか?」


「はい」


「教所から毎晩、ここへ通っていただけますか?」



 深く頷く。



「それでは、わたしはそれを楽しみに、一生懸命に勤めて帰ることにしましょう」



 言いながら立ち上がった。



「そうそう。ゆきちゃんのことを、どうぞよろしくお願いします。どうもお腹に仔を宿しているようなので、どうか気をつけて見てやってくださいませ」



 いわては柚部を板敷の先の廻廊へ、母屋の奥へと導き、扉を引く。


 そこは広大なへやであった。几帳きちょうが三方にめぐらされ、南側に大きく開いた側から外が見える。


 何脚もの灯台明かりが照らす板敷の中央には、六人の男たちが座していた。


 いつか会った忠葦ちゅういと、他に青年壮年がまじっている。皆、いわて同様の黒づくめの恰好をしており、旅仕度なのか小ぶりの葛籠つづらのようなものを脇に置いていた。


 その室の隅に、こめとようが控えている。いわてはそこへ行くよう、柚部に目で促した。


 老夫妻と目礼を交わし、そして柚部を優しく見つめてから、いわてはくるりと身を翻した。



「参る」



 よく通る声で、いわては言い放った。


 さっ、と六人の男たちが立ちあがり、葛籠を背にする。いわては男達のもとに歩み寄り、自分も葛籠つづらを背負うと、南側の縁に立った。その先に見える大小の裏山に向かって、宣言しているようだった。



「夜叉、黒塚くろづかいわて。参る」



 そして段を下りる、庭へと至る。



御夜叉様おんやしゃさま


御夜叉様おやっさま



 男たちは口々に呼び合いながら、一人また一人といわてに続く。


 最後にようとこめが続き、左脚を引きずって柚部もそれにならう。ようが持ってきてくれていたのか、ちゃんとそこに置いてあった杖を手に、履物をはいてついてゆく。ふわり、とゆきが出てきて柚部の右側に寄り添った。


 いわてを先頭に、黒衣の男たちの行列は門を出る。


 そこには何十人もの里人たちが、おのおの松明たいまつを手に、無言で佇んでいた。


 いわてと黒衣の男たちは、進んでゆく。ようとこめの背後に、柚部が付き従う。少し間をおいて、里人たちがついて来る。


 やがて樹々が少なくなり、里の境である粟畑の広がりへ来たところで、ようとこめは立ち止まった。他の里人たちも、もう先へは進まない。


 いわてと男達の黒い後ろ姿だけが、峠に向かって黙々と前進を続けてゆく。…やがてその影も気配すらも、森の闇の中へと吸い込まれてしまった。





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