29.夜叉と落武者
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ぼんやりとするものの寝付くことも出来ず、朝餉の後で柚部は離れの外側や、畑を調べて回る。
大嵐の痕跡はいかほどかと思ったが、樹々の枝と青物の葉が散乱している程度で、さして目立った壊れものはなかった。
暗黒の闇夜から打って変わった青空が、初秋の澄んだ空気を湛えている。
昼過ぎだいぶ遅くなってから、いわてが膳を持ってくる。柚部は目ざとく、粥の量がだいぶ多いのに気づいた。
「今日は、わたしもご一緒してよろしいでしょうか?」
もちろん、柚部にいわてを拒む理由はない。
その粥は、見事なものだった。葱の緑が純白の米と粟を輝かす、そこに豆の赫さが散る。いつも通りに塩味と甘味が程よくきいた、いわて特有の味わいだった。
「お疲れだったでしょうに、こんなにうまい粥を作っていただけるとは」
満ち足りて食後の白湯をもらう。いわては食事中も静かだったが、やがてゆっくりと柚部に向き直った。
「柚部さん。…柚部さんからみて、わたしはどんな女でしょうか」
あまりに唐突な問いに、柚部はうすく口を開けた。
「…わたしは、鬼のような恐ろしい女です。先日お目にかけたように、わたしは里を支配して、人を殺めることも厭わない。わたしは、…」
いわての目は、真直ぐに柚部を見ていた。戯言を言っているのではないと、すぐに察して柚部は唇を引き結ぶ。
「…わたしは、夜叉なのです」
夜叉、という言葉をいわてはゆっくりと口にした。柚部は記憶のかなたから、その意味を掘り起こす。かつて熊河の寺にいた僧が説いていた、鬼に準ずる非情なばけもの。闇に乗じてひとを喰い殺す、なさけ容赦のない悪鬼。
なぜそんなものに自分をいきなりなぞらえるのか、…いわての考えがよくわからなかった。けれど何故か、その例えはしっくりと合うようにも感じられる。僧は話していたではないか、女の夜叉はうつくしき外見をしていることもあるのだと。
「…柚部さんは、わたしを恐れているのではないですか」
女の顔から視線を外さず、柚部は首を小さく横に振った。
「いいえ」
低く答える。
「私は、あなたを恐れません。死の墓穴の中から、私をこの世に引き戻してくれたのはいわて様です。そんな尊い方を、どうして恐れましょうか」
「…」
いわては眉間に皺を寄せ、双眸をいっぱいに開いている。内側に噛みしめた唇が、震えていた。
「あなたは死にかけていた落武者の私に、生を授け直してくれました。…そうして今も、生かし続けて下さっている」
「…?」
空の膳に目を落とした柚部を、いわては怪訝そうに見た。
「美味い粥です。…その、…」
本当のこと、真実を告げるだけなのだが、どうしても照れが混じってしまう。
「…亡き母の粥も、戦の後でいただいたなほさんのも、たいそう美味でした。けれどいわて様のは、食べた後にも次の粥が待ち遠しくなる。いちばん美味いと、思うのですよ」
途端、口を丸く開けて、いわては心底驚いているらしい。
「この世に生きて戻れて良かったと、毎回食べるたびに思います」
いわての白い顔に赤みがさした。驚いたままの大きな瞳が輝き潤んで、つるりと涙がこぼれる。次いでじわり、と笑顔が咲く。
「本当に…」
「ええ」
頷いた柚部の言葉を飲み込むかのように、いわては濡れそぼった瞳を閉じた。大きく息を吸い、吐いて、再び双眸を開ける。
次の瞬間、いわては柚部の前の高坏膳をたおやかに押しやった。
つい、と胸の中に取りすがってくる。
「ごめんなさい」
顔を柚部の左胸に押しつけたまま、くぐもった声でいわては囁いた。
目と鼻のすぐ先に、女の髪の分け目がある。その事実を受け止めることができず、柚部は息を詰めていた。
「ごめんなさい、本当に」
いわては繰り返し、囁いた。
「謝ることなど、何も…」
どうにか絞り出した声の語尾に絡めるようにして、いわては頭を揺らした。そうと離した身が温い。
「…夜叉に慕われては、柚部さんも迷惑千万でございましょう」
赤い目じりに泣き笑いをのせて言う女を、柚部は見つめ返す。
「けれど、そういう風にあなたに赦されているのであれば。わたしはこのまま、≪夜叉≫を続けてゆくことができます」
ほろりとそう言ったいわてを、――柚部は自分の胸の中に引き戻した。両腕の内にかき抱いた。
「わたしを赦してください」
呟く女の側髪のなかに、顔を埋めた。いわての髪も耳も首筋も、麻布を経て掌にふれるその身体も、全てがしなやかに温かった。
両腕いっぱいに抱き締めたその尊い生命の熱に、柚部は泣き叫びたいくらいのいとおしさを感じて震える。
いわてが満足気に吐いた深い息を、柚部は鎖骨で受けとめた。




