表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜叉と落武者  作者: 門戸
27/35

27.嵐の晩の出産

 

 ・ ・ ・ ・ ・


 その二日後、待山まつやまの里は野分のわき※に遭った。不穏な風が吹く、徐々にその威力を増してゆく。



「この辺に野分が来るのは、珍しいのですけどねぇ…」



 そう言うよう老人に従って、柚部ゆべ母屋おもやに離れ、門前小家と次々に用心の打ち付けをしていった。


 畑の青物はどっしり実る途中の瓜の類と芋ばかりだから、特に心配はしない。近隣をまわって、左衛さのえ宅や教所の打ち付けにも手を貸す。


 日の暮れとともに嵐がうなり始める。


 いわてと柚部、よう・こめ夫妻は例外的に、母屋の台盤所だいばんどころで冷えた強飯こわいいの夕餉をとった。


 食事を終え、柚部が離れに引き取ろうとした所で、誰かのおとなう叫び声がする。ごうごうと吹きすさぶ風にあらがって、必死に呼びかけているらしい。ようが素早く出て行き、間を置かず戻って来た。



「今朝から産気づいている美葛みかずさんが、どうも良くないそうです」



 老人の言葉に、いわてとこめは無言で立ち上がる。奥の間へ行くと、幾つかの包みを抱えてきた。


 嵐の中を産婦宅に向かうのだと知れ、柚部も立ち上がる。



「ご一緒します。ようさん、どうぞ雨衣を貸してください」



 こめがぎょっとした様子で、慌てて柚部に向き直った。



「柚部さん、お産の場は不浄ですから…」


「いわて様が嵐の中を行かれるのに、のうのうと寝ているわけには行きませんよ」



 こめの手から、持ち重りのする包みをさっさと取ってしまって、柚部はそう告げる。


 降り叩く雨の中では、雨衣もみのもさして役には立たなかった。


 袴をびっしょり濡らして産婦宅にたどり着けば、家の中はもうもうと温かい。家の主である青竹をだけひしの中年夫婦、同年代の女房ひとりが疲れた様子で、湯を沸かし続けていた。


 他にもうひとり太りじしの老女がいて、これが産婆とわかる。産婆は柚部に目を向けて、一瞬おどろいた様子を見せかけたが、すぐにいわてに向き直り、低い早口で話し始めた。


 子は双子であった。一人目は何とか生まれ出たものの、二人目に時間がかかって母親を弱らせていた。


 いわては奥の間、大きな几帳きちょうの向こう側へと回る。そこに産婦が寝かされているのだろう。


 苦しげな女のうめき声に加えて、もうひとつ妙な物音がするのに柚部は気づいた。へやの隅に目を凝らすと、板敷が濡れて小さく水が溜まっている。青竹は、娘の出産で打ち付けを入念にできなかったのかもしれない。


 柚部は暴風の中に再度出て、乱れた茅葺かやぶき部分をかき寄せる。わら束を詰めてどうにか固定した。道具を借り、改めて戸を打ち付ければ、柚部はずぶ濡れになっていた。


 小袖一枚になって衣とあこめを炉端に干していると、奥の間から女のきつい声があがる。周りは俄然ばたばたと騒がしくなった。


 低いがはっきりとした口調で、いわてが矢継ぎ早の指示を出している。菱と手伝いの女房は、ひっきりなしに奥と台盤所を行き来する。火の番をする青竹は、両手を揉みしだいて不安に暮れているようだ。



「柚部さん、こちらへ!」



 ついに柚部にも指示が飛ぶ。左脚を引いて駆けつけてみると、いわては両袖をまくり上げて、腕をむき出しにしていた。その先の手が両方とも、血塗ちまみれである。


 几帳すぐ脇の床にいる産婦の方は見ないように努めながら、いわての前に寄る。



「先に生まれた赤子が冷えないよう、肌抱きにしてやってください」



 きっぱりと言いながら、いわては母親の夜着の脇、布にくるまれていた赤子を目で示した。柚部はそれを抱いて台盤所の板敷に戻る。小袖をはだけて、赤子を胸と腹に重ねた。


 小さな赤い生きものは、目を閉じたまま時折ぴくぴくと動くだけで、静かに柚部に抱かれている。青竹は火の前を離れられない。何も言わずに、穏やかな視線をこちらに注いできた。


 この台盤所は家の中でも特に温かいが、母体から出たばかりの弱々しい赤子には、寒かろうと思う。生まれて初めて接した小さな生命に、柚部は恐々としていた。どうにか無事に生き延びてくれと、それだけを願っていた。


 自分の娘たちが生まれた時のことを、柚部は何も知らない。


 弥衣やえは習慣通りに里に帰って出産し、十月とつき熊河くまがわに帰ってこなかった。だいぶ大きくなってから、それぞれ初めて娘たちと対面したのである。…


 家の外では、嵐が轟音をたてている。屋根や壁が、絶えず揺さぶられた。


 自分の身体の熱を分け与え、ひたすら小さな存在を冷やすまいとしていた柚部の周りでは、時が止まってしまったようだった。



 ・ ・ ・ ・ ・


 ※野分:秋口の嵐、台風のこと




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ