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夜叉と落武者  作者: 門戸
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26.展望がひらける

 

 ・ ・ ・ ・ ・


 台無しになった月見の晩を境に、いわての態度が変わった。


 いつも通り、日に一度は食事を運んで柚部ゆべの傷をてくれるものの、口数が減った。何を話しても空気が妙に重く、会話が途切れがちになる。


 他の里人、こめやようは何も変わらず穏やかなのに、いわて一人が沈みこんでいるようだった。


 成り行き上とは言え、位聡いさとを自害させたことを苦にしているのだろうか、と柚部は思う。そしてそれは仕方のないことだと、いわての落ち込みをおもんぱかっていた。



 位聡に従って黒塚くろづか屋形やかたを襲撃し、柚部とゆきを傷つけた三人の子は、それぞれが別の里、親戚筋へやられることになったと聞く。


 柚部には、はっきりとわからない。しかし一度でもいわてに歯向かった者は、里に置かないという決まりがあるらしかった。



 ・ ・ ・ ・ ・



 ある日の午後、百乃ものが竹竿を持たずにやって来て告げた。



麻見あさみ先生が、呼んでるよ」



 位聡の件で何か言われるのかと思いつつ、少女について教所に行ってみる。初めて会う老人は、杖をついて門の前で待ち構えていた。


 助手を失った恨みごとを言われると思っていたのに、予想に反して笑顔で室内へいざなわれた。身の回りの世話をしているという近所の女房が、麦湯でもてなしてくれる。


 文机を脇に並べて片付け、伽藍洞がらんどうとした教所の板敷にあぐらをかいて、麻見老人は柚部に向き合った。



あれ・・の件は、まことに災難でした」



 あれ、とはもちろん位聡のことであろう。しかし誰にとっての災難だったろう…自分にとり、目の前の老人にとり、そして位聡自身にとり。恐らくはその全員にとっての大災難、いわてにとってもだ。



「あなたと違い、あれは最後まで待山まつやまの里を拒んでいたように思えます」



 老人は麦湯をすすった。白い豊かなひげの中に、小さな椀が埋もれてしまうように見える。



「柚部さん。あなたのことは、百乃からよく聞いております。ようさん達の話も聞きました、たいそう難儀されてこちらにいらしたと。…それであなたは、ここ待山に来た意味を、もう見出されましたかな?」



 不思議な問いだった。老人を前に、柚部は自分が小さな子どもに戻ってしまったような感覚をおぼえる。


 何も言えずにいる柚部をかす様子もなく、老人は静かに続けた。



「別に、まっすぐ見出す必要はないのです。ですから私は、あなたが迷っているのを自分の便宜に利用しようと、したたかに企みましてな。いずれ、教所の手伝いをしていただけませんか。私の老体はご覧の通り、なかなか自由がききませんで。どうしても人の助けが要るのですよ」



 驚いて目を見開いた柚部の隣で、百乃が甲高い声をあげる。



「そうね、麻見先生!柚部先生は漢詩も読めるんだし、お庭で皆に長刀なぎなたも教えられる!」



 期待いっぱいの声である。



「あたしと、お友達のさめちゃんと、他の女の子にも一緒にお稽古つけてくれるでしょう?…ね、お願いします」



 思い出したようにつけられた最後の言葉には、なんだか哀願がまじっていた。柚部は少女を見下ろし苦笑する。幼いその姿がいじらしく、また大切にしてやりたいとも思えた。そこで老人に向き直る。



「私にできることは限られていますが、皆さまのお役に立てればと思います。私の方からもぜひ、お願いさせて下さい」



 低頭した柚部に、老人は目を細めて喜んだ。


 左膝の養生が終わったら、教所に移り住むという話がまとまる。完全に位聡の後釜に座る形なのが苦々しくはあるが、老体が身の不便を訴えていることを考えれば、柚部に断る理由はない。まさか、位聡が怨霊となって仕返しにくることもないだろう。


 近しい将来の身の振り方が決まって、柚部は安堵してもいた。生をゆるされ励まされたこの里で、自らの居場所をつくり出せる気がする。



 ・ ・ ・ ・ ・



 いわてにそのことを伝えると、久し振りに大きな笑顔が浮かんだ。



「それは、ようございました!」


「私の膝ですが、じきに養生を終えることができるでしょうか?」


「ええ。何事もなければ、あと二月か三月…今年じゅうには。ああ、でもまた冬の間に、湯治に行かれた方がいいかもしれませんね」



 ようやく、明るく朗らかないわての声を聞けた、と柚部は思う。



「百乃ちゃんに長刀を教え始めた、と伺った時は本当に驚きましたが…。あの子が熱心に通ってくるのは、柚部さんの教え方が良いからでしょう」


「いえ、そんなことは」


「教所でも、きっとうまく行きますよ。男子にはもちろんですが、どうしても力で劣る女子にとっても、長刀は利点の多い得物だと思います。あまり肩肘を張らずに、どうぞ子ども達に楽しく教えてやってくださいませ」



 いつか満天の星の下、自分を励ましてくれた女が、再び柚部の目の前にいた。


 その後は麻見のこと、教所への移りのことなど様々を語り、やがていわては母屋おもやに戻ってゆく。


 引きかけた戸口の陰、何となくその後ろ姿を見送っていると、女は小菊の植えてある屋形の端のあたりで、ふと立ち止まった。


 そのまましゃがみ込んで、袖で顔を抱え込んでしまったらしい…。いつもまっすぐに伸ばしている背が、丸くすぼまる。大柄な姿がちんまりと弱々しく縮まったようで、柚部はどきりとする。


 見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて戸の裏へと身を引いた。


 しかし、ふるえ嘆いているらしいあわれな背中がいつまでも脳裏にちらつく。…いわてはいったい何を哀しんでいるのか、柚部には計り知れなかった。


 ただ、目にしたいわての悲しみそれ自体に、胸のうちが裂かれる思いがして痛かった。





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