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夜叉と落武者  作者: 門戸
20/35

20.妻に殺された柚部

 


 老父の死と、冷たく訣別を叩きつけるかのような妻の言行。背走る悪寒に耐えながら、柚部は唇を引き結んで、忠葦ちゅういの話に耳を傾けている。


 熊河くまがわの民からこれらの話を聞いた後、忠葦は弥衣やえの里へ赴いた。


 喪に服した様子では一応あるものの、弥衣の両親はたびたび貴代川きよかわの手の者を屋形やかたに招き、食事をふるまうことがあるという。何とそのうち幾人かに、二人の娘たちをめあわせる算段をしているらしい。


 茫然とする柚部ゆべを前に、忠葦は言葉を切った。柚部といわての顔を交互に見やり、気遣きづかわしそうな様子をしている。



「…私は、貴代川勢に命じられてやってきた西国商人を装い、屋形をおとないました。奥さまとそのご両親と、じかにお話をいたしました」


「妻は…弥衣は。元気そうでしたか…」



 しゃがれた声が、ようやく柚部の喉からほとばしる。



「はい。お召し物なども麗しく、たいへんお達者でいらっしゃいました。その…申し上げにくいのですが、…」



 その先を聞きたくない。聞かずともよいような気がした。しかし自分にはもう道は残されていないのだと、柚部は心のどこかで悟っている。



「…続けてください」


「…お嬢さま二人の嫁ぎ先に加え、どこぞ後妻を探している有力な殿方の伝手つてがあったら、ぜひとも教えて欲しいと頼み込まれました」



 目の前が、白くちらつき始める。



「柚部さんのことについて、奥さまに慎重にうかがってみました…」



≪義父が亡くなった後、夫が暗い墓穴の中に横たわっている夢を何度も見た。やはり死んでしまったのだとわかり、義父と夫、ふたりのとむらいの儀を行った。自分はもはや寡婦なのであり、実家と娘たちを守って行かなければならないのだから、柚部にとらわれて生き続けるつもりはない≫



 弥衣は忠葦に、きっぱり言い放ったと言う。


 我慢の限界が来た。


 ふらり、と柚部は板敷から立ち上がる。そのまま必死に左足を引きずり、台盤所だいばんどころから外に出ると、そこに嘔吐した。


 ようがやって来て手を貸してくれる。柚部はよろよろと離れに立ち戻った。


 少し経ってから、いわてがやって来る。簀子すのこ縁にがっくりと肩を落として座る柚部の脇に、いわても腰を下ろす。


 焚きしめてある除虫菊の香が漂っていた。



「また、面目ないところをお目にかけてしまいました」


「…無理もございません」


「忠葦さんは危険を冒してまで、私の故郷くにと家のことを調べて下さったのに…」


「お父さまと、弟さま方のことは…。お悔やみを申し上げます」



 いわてが静かに首を振るのがわかる。柚部は顔を上げられなかった。



「…失意の底で死んだ父のことが、不憫でなりません。少なくとも、長く苦しまずに済んだのは良かったのでしょうが…」



 これからは毎日、父と弟たちの供養をしなければと思う。



――それにしても。



 弥衣という女に、ここに来て思い切り頬を引っぱたかれたような思いがした。


 平然と夫の自分を亡きものと決めつけ、すぐに身の振り方を考えるふてぶてしさは、長年包み隠していたのだろうか。


 悲しさ悔しさ、苦々しさが心の中に積み重なる…それ以上に、妻に完敗したと感じている。待山まつやまの外界、もといた世界において、柚部は故人となってしまった。弥衣に殺されたのだ。


 そこまでされる落ち度が、自分にあったろうか?


 妻は自分に、心を開かなかった。そういうものだと受け止めて、弥衣の心をこじ開ける努力をしてこなかった。だから妻が笑ったところを、柚部は一度も見たことがない。というより、弥衣の顔を思い出せない。


 長い年月を夫婦としてともに過ごしてきても、自分たちは赤の他人でしかなかったのか、とつくづく思う。そして妻はそのいなくなった他人を、消し去ることで一蹴した…。



「奥さまのことが、心配ですか」



 低い声で、いわてが問う。



「…生きるために、より良い道を選んだのでしょう。娘たちの行く末も気がかりですが…。私にできることはもう何もないと、よくわかりました」



 無理矢理に苦笑して見せる。いわてと視線が合った。



「…少なくとも、穴の中の私を夢に見たようですし。供養をしてくれた以上は、薄情者とののしることもできません」



 何とか良い部分を見出そうとした。そうなのだ、鬼とまでは言えないかもしれない。ただ、虫の息だったところを既に死んだと見切ってしまうあたり、やはり弥衣は冷酷か。


 いわては小さく頷きながら、柚部の言葉を聞いている。


 そのまなざしに、柚部は今慣れていた。こうして向き合い続けても、以前感じていたような気まずさや居心地の悪さを感じることはもうない。


 十数年も一緒に暮らしたというのに、弥衣とこうして視線をまじえることはほとんどなかった。もと妻の面影や声は遠く、過去へ溶けだしている。思い出せないものを、無理に思い出そうとするのもやめよう、と心の底で柚部は思う。


 つい、といわてが立ち上がる。



「少し、横になられた方がいいでしょう。お床を用意しておきますので、どうぞお休みください」


「ありがとうございます」



 行きかけるその背中に、柚部は声をかけた。






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