2.白髪原の戦い
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男はその名を柚部主水といった。
曽祖父の代より、地元豪族の熊河氏に仕える武者の出自である。
とは言え、自分の下にある地元若衆と太刀・長刀の鍛錬を日課にしていることをのぞけば、その他の農の者と何ら変わりない生活を送っていた。
弁舌のたつ父、弟ふたりに挟まれてぽつんと寡黙な長男は、若い頃から言われたことに文句を言わず、黙々こなして片付ける男である。あんまり静かすぎて、言いつけた方は柚部のした仕事を忘れてしまうこともよくあった。
上背はなかったが、広い肩ががっしりと巌のよう、腰を落として構えれば若者数人の押し引きにも余裕で耐える。
だからこそ、間合いを取りつつ体躯の差を問題としない戦い方のできる、長刀の扱いに秀でるようになった。
馬の脚を薙ぐだけでなく、白兵の切り合いにもいつか活用できるかもしれない…。そう思いながら、静かに耕すばかりの日々年月を繰り返していた。
戦に行ったことはあるにはある、…原や谷を挟んでの双方軍にらみ合いを実戦、と呼ぶとしての話だが。
ごく若い頃、父に従ってそういう熊河氏のはったり利かせに付き合った以外、本来の殺傷ころしあいとしての戦を経験したことはない。
だから今回の戦は、実は柚部にとっての初陣だった。
「…お前のことだから、派手なことも情けないことも、まあなかろうが」
奥の地全体に、西から漂ってきたきな臭い空気が淀み、やがて近隣豪族たちの頭目たる阿武一族が立ち上がるに至った。
柚部の属する熊河氏は、もちろん阿武の軍下である。
直令があり次第、ただちに武装して屋形に馳せ参じるべし、と熊河の使者が慌ただしく言い置いていった後、老いた父は板敷にじっと座って柚部に言った。
「…しかし今回の戦は、これまでの騒動とはわけがちがうらしい。よくよく用心して生き残り、大事の折には儂や弥衣たちのことは気にせず…、まず己の身の無事を考えなさい」
若者たちの間に血気殺気がはやっても、柚部は疑問を持たず、黙々としていた。
配下の若衆たちに相応の身支度と得物の準備をさせ、妻の弥衣には娘二人を連れて、実家に戻る手はずを整えさせた。
妻は阿武の範疇を出た、海側あわいの集落にて農を営む古い家の出である。仮に負け戦になったとしても、危険は及ばないはず。父も柚部もそう考えてのことである。
もっとも弥衣は嫁いで以来、頻繁に実家に暮らしていたのだが。
果たして柚部が熊河の直令を受け、若衆五人と出征することになった日、妻と娘二人の姿は既に屋形から消えていた。阿武氏の動向は、妻もそれなりに掌握していたようである。
調度だけではない。ご丁寧に汚れ物の衣なども全てまとめて、女たちの持ちもの一切が、弥衣の実家へと運び去られていた。
「…頭の回る女だ。何という要領のよさよ」
唯一屋形に残ることになった父は、苦々しげに笑いながらそう言った。弟たちは婿入り先から、それぞれ阿武勢として加わるはずである。
冷えた粟飯に塩菜と湯をかけまぜて、それが父との最後の慌ただしい食事となった。
父から譲り受けた青色の大鎧は、見栄えはしないがよく手入れされている。いまだ冷えの厳しい春先のこと、柚部はしなびて枯草に変色した元萌黄の鎧直垂の上にそれを重ね、太刀と弓、長刀を携えて、父に別れを告げた。
柚部に従う若衆はそれぞれ、腹巻(胴を覆うだけの簡易鎧)姿である。屋形の門前、篝火の脇でちょうど集まった所だった。
出立を促すと、最年少の竹雄は初戦の興奮を抑えられない様子である。
「お屋形さま、ほんとの戦なんだから、手加減なしでぶった斬ってかまわないんでしょう!?」
肌寒い乾気の中、若者が汗まみれの手で握った槍の柄が、変に湿った音を立てている。
「いいがな、竹雄。いきがっている奴に限って、しょっぱなぶった斬られる側になるものなんだから。まぁ気をつけなさい」
苦笑しつつたしなめた柚部の言葉に、熊市・熊次の兄弟がぷぷっと声を出して笑った。柚部とあまり年が変わらないが、若衆に数えられてしまっている加七と良生は、無言でにやりと笑っている。
…一応言ってみたものの、柚部にだって戦の経験なんてなかったのだ。いきり立った若者が最初に敵刃に斃れる可能性を、この時どうして語れたのだろう。
竹雄は、最初にぶった斬られはしなかった。
熊河の屋形へ集結した武者たちは、百余人にもなっただろうか。夜明けを待って出立し、阿武氏の本軍に合流すべく徒歩で十数里あまりを進んだ。
その一昼夜後に、敵が目前に見えた。
美しく晴れた暖かい日で、畑に出られないのがもったいない…と、柚部は心の隅で思ったほどだ。近づいて来る騎馬の影を前に、これが実は春の寝床の夢であったらいいがなぁ、と溜息すらついた。
しかし、熊河の騎馬武者が切り裂くような怒声で陣勢指導をがなりたてる。柚部以下の五名は、最前線にいるのだ…長刀使い、薙ぎ役なのだから。
柚部の手の中で、長刀の質感がやにわに躍る。腰をやや落として、半身中段の構え。両脇の熊市・熊次兄弟がそれに倣った。
冬の枯草にまじって若い緑が萌えたつ野、そこへ土埃を舞い立てながら、貴代川軍が迫ってくる。同じく奥の地に生じながら、西に与してその手先となった、阿武の好敵手!
騎馬列の後方から放たれた矢が、熊河の武者たちに降りかかった。
さほど威力はない、ぱらぱらと鎧兜に弾かれるものが多い中で、ぐうんとやたら音をはずませて飛んできた一本が、柚部のすぐ近くに着地した。びいん!
「げええ」
気色悪い声に柚部がはっと視線を投げれば、右後ろにいた竹雄が前に飛び出していた…。
矢の立った肩を鼓舞するかのように、長槍をぐるぐる振り回して狂った動き、あっと言う間に敵騎の前に出た。ころぶ。
ぐしゃん、…あっけなく馬の蹄の一撃を頭あたりに受けて、竹雄はつぶれた。
ぶった斬られたのではなかった。
柚部はこの光景を見届けはしたものの、何も感じなかった。
何か、夢をみているような妙な気持にとらわれていた。
そうこうしているうちに忙しくなる。熊河陣に達した敵騎をよけてその足元を長刀で薙ぐ、反動で振り落とされた武者たちを熊市・熊次とともに囲って屠る、そればかりになった。
三騎、四騎、五騎…。柚部はそこで数えるのをやめてしまったが、ふと気づけば周囲は白兵戦の修羅場。
兄弟は倒れて、柚部は一人で薙ぎ役をこなさなければならなくなっていた。敵の騎馬はほとんど見えなくなっていたが、押し寄せる歩兵たちはどんどん増えていく。
柚部は疲れを覚えなかったが、実際には長く時が経っていたようだ。熊河のではない…阿武本陣からの伝令らしき騎馬武者が、駆けずり回って撤退をがなった。
「柚部さま、下がんねば!」
長槍の石突をぶん回しながら、加七が息を荒げて叫ぶ。
「そうだ柚部さま、行ってけれや!」
長槍を両手に、傷ついた脚を引きずって必死に良生が寄ってくる。
「よし、退くぞっ…」
ず、どん!その良生の後ろに切りつけかけた敵兵のど元めがけ、柚部は渾身の突きを入れる。そいつは後ろにのけぞっていった、…どうしたかは知らない。
次の瞬間、後じさったその時に、柚部は左側方から例の一撃を膝に受けた。
それから後を、柚部は思い出したくない。でもちゃんと憶えている。
一緒に走っていた良生が、急に立ち止まると反対向きに駆けていった。
「柚部さま、加七、逃げろやぁ!!」
長槍の回転で何人かを薙ぎ倒したものの、その体にあっという間に十本以上の太刀が切りかかった。
加七は他の逃げ行く阿武勢にまぎれて見えなくなり、柚部はひたすら走り続けた。
つまづき、転びかけた。大鎧すれすれを、幾度となく矢がかすめた。
しかし柚部は止まらなかった。
やがて気がついた時には、濃い夕闇が支配する木立の中をひとりっきり、がくがくと抜けそうな脚で前進していたのである。