16.山の湯につかる
柚部は、よう老人とともに湯場へ赴く。
三人も入ればいっぱいになる程の小さな岩湯だった。里人の仕事で板塀ができており、それがない側の眺めが美しい。緑色に連なる山々が、白い湯気の向こうに見える。
二人は湯に向かって一礼し、外側で全身を清めてから湯に入った。
そこで柚部は少々驚く。ひょろひょろっと痩せて見えていたようの身体が、意外に逞しいのである。すっと通った背の筋が、老人にあるまじき頑強さを放って異様だった。
…熱い湯が、じんわりと柚部の体にしみわたる。特に左膝の痛みが、やんわりと溶け出るようで心地が良かった。
「よろしいですねぇ!」
ようは、さも嬉しそうに言う。
「ええ、本当に」
遠く山鳥の鳴く声が、たえまなく聞こえていた。
「位聡さんはね、おやっさまに懸想してしまってるんです」
ごく小さな低い声で、ようはしみじみと語り出した。
「あの方も危ない怪我を負って待山にやってきて、生死の間を彷徨われました。長いことおやっさまに介抱されているうちに、情を感じてしまったんだと思います。まあ、それはないことではありません…」
ようは目頭を指で揉んだ。
「…ですが大概の方は、恢復してゆくうちにだんだんと理解されます。益ある客人を癒して、里での暮らしになじめるよう助けるのが、おやっさまの役目のひとつ。あの方は勤めを果たしているだけなのだと、わかってゆくものなのです」
いわてが自分に対してしてくれていること、まさにそのものだと感じ、柚部はうなづいた。
「…ですから全快して個々の勤めを始める頃には、おやっさまを尊ぶ気持ちこそありすれ、我がものにしようなどという気は失せるのですよ。ところが位聡さんには、それがわからない。おやっさまを普通の女と同様に見て、自分のものにしようとどこかで考えているふしがあります。困ったものです」
「お若いですからね…」
「いえ。若いものでも、大抵の方は分別を持ちます。けれどあの人はそれが出来ない…。いわば子どもの性質のまま、大人になってしまったのですね。おやっさまを独り占めしたくてたまらないから、屋形にいる新しい客人に我慢がならないのでしょう」
――なるほど。長刀を使う以上に、位聡は自分に嫉妬していたというわけか…。
若い男の態度の理由を、柚部は理解して苦笑した。自分のような落ちぶれた手負いの年寄りに、やっかむ必要なんて何もないのに、と思う。
小屋に戻ると、いわてが竈の前にいた。
「少なくとも、位聡さんは火を起こしてくれていましたし、焚き付けもずいぶん集めて下さったようです。これを使わせてもらうとして、今日のことはまあ…大目に見てあげましょう」
鍋の加減をように任せ、今度はいわてが湯に向かった。それまで小屋の前に伏せていたゆきも、むっくり起き上がってついて行く。ゆきも湯あみが好きらしい。
陽が翳ってきた頃、早めの夕餉をとる。持参した米と粟とで炊いた粥に、緑あざやかな芹の葉が散っていた。ここまで来る道すがら、いわてが沢に寄って採ってきたものだ。
三人は、狭い板敷で大きな椀を抱え込むようにして食べる。人と会食するのは本当に久しぶりのことだ、と柚部はふと気づいて嬉しくなった。
「おやっさま、美味しゅうございますよ」
ようは目を細めている。少食らしく、柚部の半量ほどの粥をゆっくりすすっていた。その脇、いわても微笑を浮かべながら食べている。
「季節のものは、味も香りもすばらしいですね。明日、少し摘んで帰ろうかしら」
穏やかな二人の手前、少し気後れして柚部は無言である。しかしいわてはすぐに気づいて、いつもと変わらぬ仕草で柚部の空椀に手をのべる。お代わりをよそってくれた。
夕餉が済むと、ようは奥の物入れからいくつも几帳を引っ張り出してきて、板敷を三つに仕切る。
「では、私はお先に」
その一画で、長衣をくるりと被って横になってしまった。
柚部は就寝する前に、膝だけ軽く湯に浸けておきたいと思い、岩湯に向かう。ゆきがついて来る。
陽は沈んでいたが、空はまだ明るい青色を残していた。
岩場の縁に腰を下ろし、袴の裾をぐうっとたくし上げて、脚を湯につける。柚部の背中に、ゆきがふかふか身体をくっつけて座った。肩越し、低い声で問うてみる。
「お前はもう、入らないのかい?」
先ほどいわてと一緒に浸かったらしいが、その時の湿り気はとうに乾いている。今はどうも、岩湯の温かい湯けむりにあたるのを喜んでいるらしい。
刻々と闇が濃くなるにつれて、西の空の橙色が目にあたたかい。初夏と言えど、山中の空気は冷たかった。やがて天が深い縹から闇に染まってしまうのを待ち、脚を上げて出かけたところで、ふわりと背後に声がかかった。
「柚部さん」
いわての低い声である。
「よろしいですか?」
柚部は慌てて手巾を使い、裾を直す。
「どうぞ、今出るところです。長湯しすぎました」
「あ、いえ、わたしはお湯はもうたくさんですから…」
すぐに姿は見えないが、いわても心もち慌てた様子であった。
板塀のかげに、ゆきがふわふわと歩んでゆく。いわての顔が、そこに白っぽく浮いて見える。
濃い藍色の衣を着ているから、体のほとんどが闇に溶け込んでいるようだった。女はゆっくりと、岩場の縁に立つ柚部のもとに近づいてきた。
「ごめんなさい、お邪魔をしてしまって」
「いえ、私こそ。のんびりしすぎて、つい時を忘れてしまいました」
「…」
暗くとも目は慣れて、手前の女の表情が見てとれる。
自分を見るいわては、何かを言おうとして言わないでいる、という風だった。だから柚部も、そこをふいと立ち去れないでいる。




