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夜叉と落武者  作者: 門戸
15/35

15.もの恨む男、位聡との対峙

・ ・ ・ ・ ・



 それから数日後、待山まつやまの里の上に晴天がかかった。


 伸びやかに枝葉を広げる樹々の隙間を通して、まぶしい程の青空が垣間見える。


 こめが笹葉にくるんで蒸したもち米、竹筒の水などを携えて、いわてとよう老人、柚部ゆべは出立した。


 気温が上がって蒸し暑さも感じるが、こめが用意してくれた夏用の麻の狩衣かりぎぬは清々しく軽い。


 里の外れから谷沿いに続く道は、いわてが言うようにさほどきつくはなく、柚部は何とか二人について行ける。すぐ脇を、尻尾をふり振りゆきが伴い歩く。


 大籠を背負ったようが先頭に立ち、いわては頻繁に柚部をふり返りつつ、ゆっくりと歩みを進めていた。



 道は谷底を流れる川に沿っているので、常に水音が聞こえる。そこかしこに沢があるそうだ。里の子ども達が夏の間、蟹やせりを採りに来るのだといわてが言う。



「わたしも若い頃は、毎日のように通っていましたっけ」



 懐かしむように、いわては微笑む。今でもお若いでしょうと柚部が言うと、女は目を丸くしてみせた。よく表情が変わるなあと妙なところで感心していると、意外なことを言われる。



「若くはありません。これでも出戻りなんですよ」



 そう告げられて柚部は思わず、ぽかんと口を開けてしまった。



「十年以上も前ですが、一度外の集落へ嫁ぎました。事情がありまして、一年も経たずに待山に帰ってきてしまいましたけど」



 さすがにその先の理由までは明かさないが、言いにくそうな経緯をあけすけに語るいわてという女に、柚部はどこまでも驚かされている。


 どう反応してよいものかと内心で狼狽していると、いわては自然な所作でふいと路傍にかがみこんだ。


 右手に、鮮やかな若草を摘む。



薄荷はっかですね。いい香り」



 目を細め、草を鼻先にくゆらせる様子は、ゆったりとしてまさに貴人の動作である。



「ほら、ゆきちゃん」



 犬は鼻先に押しあてられて、べぇっくしょいと盛大にくしゃみをした。




 清涼な空気の中を歩くのは、気分が良い。


 やがて木立がまばらになって行き、ごつごつとした岩肌がそこかしらに見え始めた辺りで、ようが声をあげた。



「あそこですよ」



 簡素な造りの小屋が見える。そこの裏手に湯が湧いているということだった。


 揚がった気分のおかげで何とかごまかしていた膝の痛みが、少しずつぶり返してきていた…。柚部は安堵しかける。


 その時、目前に迫った小屋の戸が、からりと開いた。


 出てきたのは位聡いさとである。


 若い男は先頭のいわてに向かって礼をしたが、その後ろにいるよう老人、やや離れてついてきていた柚部の姿をみとめると、さっと眉根を寄せて目に敵意を宿した。



「…位聡さん。お越しになっていたのですね」



 柚部の位置からいわての顔は見えなかった。しかしいわての声音に尖ったものを聞き取って、柚部はおやと思う。



「ええ。あなたがじきにいらっしゃると思ったので、先に来てお待ちしておりました」



 若者は、丁寧な調子でいわてに話す。



「…こんなに大勢でみえるとは、存外でしたが」



――大勢?



 内心で首を傾げた柚部は一瞬のちに、位聡が皮肉を放っているのだと察する。いわて後方の柚部を、位聡は視線すら向けずに無視していた。



「さあ、どうぞ」



 小屋の入り口に向かい、大仰に腕をさしのべる位聡の誘いに対し、いわては動こうとはしなかった。



「この湯は、里のもの皆にむけて開かれているのです。大勢でもひとりでも、湯治を必要とするすべての里人が入ってよいのですよ」



 静かだが毅然とした態度で、いわては位聡に告げた。そこでくるりと振り返る。



「柚部さま、こちらへ」



 促され、気後れしながら進み出ると、位聡の視線が真っすぐ柚部に刺さってきた。明らかな憎悪だ。



「…その新参者は、よほど心配な傷を負うて来られたのですか」



 位聡の声音が、やや震えている。



「ええ、そうです。癒え方が芳しくないので、だからこちらへお連れしたのですよ」



 いわては位聡から視線を外し、乾いた声で応えた。



「私のことはもう、案じて下さらないのですか?」



 かすれかけた声を絞り出し、ふっと位聡はいわてに歩み寄った。


 そこへゆきが、遮るように割り込む。ううっと小さく唸られて、位聡は右手に持っていた扇子を勢いよく振り上げた。


 男がゆきを打ちすえようとしているのを見た瞬間、柚部は右足を踏み出した。何か考えたわけではない、ただ反射的に体が動き、それに従ったまでである。


 踏み込む右足のその勢い、大きく振り出した左手の杖を、ゆきの頭上にかざした。


 ぱきん!


 乾いた音がして、位聡の扇子と衝突する。


 左足が着地すると同時に柚部は半身の構えになって、ゆきを位聡から守る姿勢になっていた。膝の痛みが鈍く浮き上がって来る…柚部はぐっと、奥歯を噛みしめる。



「位聡さんっ…!」



 いわてが低く、鋭く唸った。


 その声がはらむあまりの怒気に、思わずぎょっとして柚部が振り向くのと、位聡が身をひるがえして屋内へ駆け込むのとは、同時だった。


 ここまでの道中を朗らかに過ごしてきたのとは全く別の女が、そこに立っているようだった。目尻がつり上がり、白眼がぎらぎら光っている。


 位聡の狼藉にも腹が立ったが、それ以上にいわてのあまりの変貌に、柚部は目を疑う。


 …ばたばたと音がして、位聡が大きな包みを手に小屋から出て来た。顔が青い。



「…お許し下さい、いわて様。…里でお待ちしております」



 いわてに向けて顔を伏せたまま、位聡はあたふたと道を駆け下りて行った。


 無言のまま、いわてはゆきの側にしゃがんでその白い頭を抱え込む。ようが柚部に寄り添って、そっと右腕をつかんだ。



「…大丈夫ですか。お膝は…」



 柚部は苦笑した。



「いえ、何でもありません。位聡さんは、どうも扇子を壊してしまったようですが…」



 ふいと立ってきたいわてが、柚部の顔をのぞき込む。いつもの表情に戻っている、…杖にすがる左腕の肘に、軽く手で触れて来た。



「本当に、位聡さんは仕方のない人です。わたしのゆきちゃんに、あんなことをするなんて…」



 首を振って、ふうと溜息をついている。



「あの人ばかりは、なほさんの仕分け判断が鈍っていたとしか思えないわ」



 よう老人も苦笑いをして、うなづいている。やがて気を取り直すように明るい声で、お湯を使いましょうかといわてが言った。






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