15.もの恨む男、位聡との対峙
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それから数日後、待山の里の上に晴天がかかった。
伸びやかに枝葉を広げる樹々の隙間を通して、まぶしい程の青空が垣間見える。
こめが笹葉にくるんで蒸したもち米、竹筒の水などを携えて、いわてとよう老人、柚部は出立した。
気温が上がって蒸し暑さも感じるが、こめが用意してくれた夏用の麻の狩衣は清々しく軽い。
里の外れから谷沿いに続く道は、いわてが言うようにさほどきつくはなく、柚部は何とか二人について行ける。すぐ脇を、尻尾をふり振りゆきが伴い歩く。
大籠を背負ったようが先頭に立ち、いわては頻繁に柚部をふり返りつつ、ゆっくりと歩みを進めていた。
道は谷底を流れる川に沿っているので、常に水音が聞こえる。そこかしこに沢があるそうだ。里の子ども達が夏の間、蟹や芹を採りに来るのだといわてが言う。
「わたしも若い頃は、毎日のように通っていましたっけ」
懐かしむように、いわては微笑む。今でもお若いでしょうと柚部が言うと、女は目を丸くしてみせた。よく表情が変わるなあと妙なところで感心していると、意外なことを言われる。
「若くはありません。これでも出戻りなんですよ」
そう告げられて柚部は思わず、ぽかんと口を開けてしまった。
「十年以上も前ですが、一度外の集落へ嫁ぎました。事情がありまして、一年も経たずに待山に帰ってきてしまいましたけど」
さすがにその先の理由までは明かさないが、言いにくそうな経緯をあけすけに語るいわてという女に、柚部はどこまでも驚かされている。
どう反応してよいものかと内心で狼狽していると、いわては自然な所作でふいと路傍にかがみこんだ。
右手に、鮮やかな若草を摘む。
「薄荷ですね。いい香り」
目を細め、草を鼻先にくゆらせる様子は、ゆったりとしてまさに貴人の動作である。
「ほら、ゆきちゃん」
犬は鼻先に押しあてられて、べぇっくしょいと盛大にくしゃみをした。
清涼な空気の中を歩くのは、気分が良い。
やがて木立がまばらになって行き、ごつごつとした岩肌がそこかしらに見え始めた辺りで、ようが声をあげた。
「あそこですよ」
簡素な造りの小屋が見える。そこの裏手に湯が湧いているということだった。
揚がった気分のおかげで何とかごまかしていた膝の痛みが、少しずつぶり返してきていた…。柚部は安堵しかける。
その時、目前に迫った小屋の戸が、からりと開いた。
出てきたのは位聡である。
若い男は先頭のいわてに向かって礼をしたが、その後ろにいるよう老人、やや離れてついてきていた柚部の姿をみとめると、さっと眉根を寄せて目に敵意を宿した。
「…位聡さん。お越しになっていたのですね」
柚部の位置からいわての顔は見えなかった。しかしいわての声音に尖ったものを聞き取って、柚部はおやと思う。
「ええ。あなたがじきにいらっしゃると思ったので、先に来てお待ちしておりました」
若者は、丁寧な調子でいわてに話す。
「…こんなに大勢でみえるとは、存外でしたが」
――大勢?
内心で首を傾げた柚部は一瞬のちに、位聡が皮肉を放っているのだと察する。いわて後方の柚部を、位聡は視線すら向けずに無視していた。
「さあ、どうぞ」
小屋の入り口に向かい、大仰に腕をさしのべる位聡の誘いに対し、いわては動こうとはしなかった。
「この湯は、里のもの皆にむけて開かれているのです。大勢でもひとりでも、湯治を必要とするすべての里人が入ってよいのですよ」
静かだが毅然とした態度で、いわては位聡に告げた。そこでくるりと振り返る。
「柚部さま、こちらへ」
促され、気後れしながら進み出ると、位聡の視線が真っすぐ柚部に刺さってきた。明らかな憎悪だ。
「…その新参者は、よほど心配な傷を負うて来られたのですか」
位聡の声音が、やや震えている。
「ええ、そうです。癒え方が芳しくないので、だからこちらへお連れしたのですよ」
いわては位聡から視線を外し、乾いた声で応えた。
「私のことはもう、案じて下さらないのですか?」
かすれかけた声を絞り出し、ふっと位聡はいわてに歩み寄った。
そこへゆきが、遮るように割り込む。ううっと小さく唸られて、位聡は右手に持っていた扇子を勢いよく振り上げた。
男がゆきを打ちすえようとしているのを見た瞬間、柚部は右足を踏み出した。何か考えたわけではない、ただ反射的に体が動き、それに従ったまでである。
踏み込む右足のその勢い、大きく振り出した左手の杖を、ゆきの頭上にかざした。
ぱきん!
乾いた音がして、位聡の扇子と衝突する。
左足が着地すると同時に柚部は半身の構えになって、ゆきを位聡から守る姿勢になっていた。膝の痛みが鈍く浮き上がって来る…柚部はぐっと、奥歯を噛みしめる。
「位聡さんっ…!」
いわてが低く、鋭く唸った。
その声がはらむあまりの怒気に、思わずぎょっとして柚部が振り向くのと、位聡が身を翻して屋内へ駆け込むのとは、同時だった。
ここまでの道中を朗らかに過ごしてきたのとは全く別の女が、そこに立っているようだった。目尻がつり上がり、白眼がぎらぎら光っている。
位聡の狼藉にも腹が立ったが、それ以上にいわてのあまりの変貌に、柚部は目を疑う。
…ばたばたと音がして、位聡が大きな包みを手に小屋から出て来た。顔が青い。
「…お許し下さい、いわて様。…里でお待ちしております」
いわてに向けて顔を伏せたまま、位聡はあたふたと道を駆け下りて行った。
無言のまま、いわてはゆきの側にしゃがんでその白い頭を抱え込む。ようが柚部に寄り添って、そっと右腕をつかんだ。
「…大丈夫ですか。お膝は…」
柚部は苦笑した。
「いえ、何でもありません。位聡さんは、どうも扇子を壊してしまったようですが…」
ふいと立ってきたいわてが、柚部の顔をのぞき込む。いつもの表情に戻っている、…杖にすがる左腕の肘に、軽く手で触れて来た。
「本当に、位聡さんは仕方のない人です。わたしのゆきちゃんに、あんなことをするなんて…」
首を振って、ふうと溜息をついている。
「あの人ばかりは、なほさんの仕分け判断が鈍っていたとしか思えないわ」
よう老人も苦笑いをして、うなづいている。やがて気を取り直すように明るい声で、お湯を使いましょうかといわてが言った。




