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夜叉と落武者  作者: 門戸
14/35

14.鬱々と病む梅雨、いわての提案

 

・ ・ ・ ・ ・


 雨が続いた。


 まる二日間、柚部ゆべはいわてと顔を合わせずにいた。いわてはずいぶん遅くに帰宅しているらしい…柚部はすでに夕餉ゆうげを済まし、就寝している。


 ぬかるみの中で難儀していなければいいが、と夢うつつの中で思った。



 湿気のせいか、寒暖差が開いたためか、柚部はあくる日発熱した。喉の奥がひりついて引きれ、胃の腑がきりきりと痛む。こめの持ってきた粥もほとんど受け付けられず、詫びるしかなかった。


 左膝は、そこが体の中心であるかのように熱を帯び、鈍痛がわだかまって重い。


 せっかく傷が癒えかけていたところに、このような病み方をしてしまうとは。柚部は自分の衰えが、信じがたかった。


 重い頭の中を巡るのは、熊河くまがわに残してきた父たちの記憶だ。悔やみごとばかりが、とりとめもなくあふれ流れる。



 家督を継いでずいぶんと経っていた。自分は父に、何か誇れることをしただろうか?


 弥衣やえは笑わない女だった。そういうものだと思っていたが、そもそも自分は妻を笑わせる努力をしなかったではないか、と気づく。


 そして娘たちは、娘たちである…。弥衣がその腕の中にしっかりと抱きこんで、自分にはまじまじと顔を見つめる機会もなかった。だから思い出せない…おぼろげな輪郭すら。



――俺は一体、今まで何をしてきたのか?



 毎年、畑には豆の花が満開にあふれる。芋はたっぷりと採れた。しかし石にまみれたその畑には今年、雑草がはびこっているだろう。


 敵勢が故郷のあの村にもやってきて、自宅に火をつけたかもしれない。


 父は家も権威も失い、今頃とぼとぼと路上を彷徨さまよっているのではないか。自分が率いた若衆の家の者は、そんな老父に石を投げつけるだろう。…


 柚部は再び、絶望の暗闇に落ちて行った。



・ ・ ・ ・ ・



 しばらくすると熱は下がったが、そこかしこにあおがねでも埋め込まれたかのように、全身が重くなる。


 戦での負傷からのことだが、柚部はここまでずるずると長く臥せった経験がない。時の感覚が薄れ、空腹も感じない。


 ぼんやりと簀子すのこに座り込んだまま、ひたすら父と妻子、自宅のことを考え続ける。


 何とかしなければいけないという焦りと、もうどうにも自分の力で出来ることはないのだという諦めが矛盾して、柚部の想いは堂々巡りにしかならなかった。


 縁の下にはたいていゆきが寝そべっていたが、賢い獣は柚部の忸怩じくじたる思いを感じ取ってか、ひたすら静かに寄り添うのみだった。



 梅雨の晴れ間を狙い、無理にも外に出てみる。身体が重いばかりか、左脚の自由がますます利かなくなっていて、一番近い左衛さのえの家の前に来ただけで、ずいぶん骨が折れた。以前は、もっとたやすくこなせた距離だったのに。


 ように頼んで、畑仕事を手伝ってもみた。久しぶりの土の感触に一時喜びを感じたが、身体はすぐに悲鳴をあげる。低くうめく柚部の様子に、老人は傍で唇を引き結んでいた。


 その後十日ほど、いわてには会わなかった。



・ ・ ・ ・ ・



 長らく続いていたぬか雨が、ようやく降りやんだ晩のこと。


 夕餉ゆうげを終えてこめが器を持ち帰るのと入れ替わりに、いわてが離れを訪れた。


 ふた回りほど会わなかったうちに、いわての顔は疲労にやつれ、幾年分か年を経たように見える。しかし表情はほぐれて明るく、やわらいだ眼差しをしていた。



「この時季はどうしても、厄介な仕込み仕事から手を離せないのです。今年の分が終わって、ようやく安堵いたしました」


「それは、お疲れ様でした」



 柚部がねぎらうと、一瞬笑顔がほころぶ。しかしすぐに真顔に戻して、いわては問うた。



「ようさんに聞きましたが、膝の様子がよろしくないようですね。風邪もひかれたと」



 情けなさが募って、柚部はうつむく。つ、といわてが板敷上の膝を進めて、側に寄った。



「柚部さん、湯治とうじをされたことは?」



 唐突な問いである。柚部は面食らって思わず顔を上げた。すぐ近くに女の顔があり、丸い双眸をまっすぐ向けている。気恥ずかしいような居心地の悪さを、かすかに感じた。



待山まつやまから三里ほどのところ、北の峠に滋養のある湯場がございます。わたしもこの時期は毎年疲れがたまりますので、里人と連れだってたびたび浸かりに行くのです。柚部さんの膝にもきっと効きますから、梅雨が明けたらご一緒しませんか?」



――湯治…!



 柚部の故郷近くにも、古い湯場がある。冬のさなか、そこに父を連れてゆくのが毎年の楽しみでもあった。にわかに心は浮き立ったが、すぐに弱気が覆いかぶさる。



「しかし…。今の私の歩き方では、一体どれだけかかりますやら。身体じゅう重くてかないませんし、三里と言えど山道を抜けて、果たしてたどり着けるのかどうか…。ご迷惑をかけてしまうのでは」


「あら、大丈夫ですよ。里人がよく行きますから、道はしっかりついております。大真狩おほまがりからの道に比べれば、ずっと楽ですよ。私もようさんもゆっくり休み休み行くつもりですから、柚部さんもお気楽にいらして下さればいいんです」



 いつもより少しだけ高めの口調で話すいわての話を聞いていると、柚部の気持ちも何となく軽くなった。ようが同行する、と言う安心もある。柚部はうなづいた。



「梅雨明けが楽しみですね…!」



 いわては微笑んで言った。




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