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夜叉と落武者  作者: 門戸
11/35

11.待山の里、位聡に出会う

 

・ ・ ・ ・ ・



 朝はたいてい、具合がよかった。


 百姓仕事の習慣で、この時季はかなり早くに目覚める柚部ゆべである。


 左膝から下は相変わらず重く疼くが、いわての朝餉あさげを待つ間に、寝具をそろえて身のまわりの始末をするくらいは苦でなくなった。


 いわてやよう老人が薬を塗りこんでしばらくすると、その痛みはぐっと軽くなる。


 時々顔をしかめるほどの鈍痛が走りはするが、…これにもじきに慣れよう、と柚部は深く考えなかった。



 昼前、ゆきを伴って里の中をゆっくり歩く。


 起伏の激しい待山まつやまの里は、すべての家屋がたがいに死角に立とうとして、茂みの陰や大木の裏に隠れているようだった。



――不思議なところだ…。鳥でもなければ、全体の眺望はとてものぞめまい!



 内心で呟いてから、柚部はすぐに思い直す。上空から見下ろしたところでも、樹々の梢が邪魔をするのだ。やはり待山の里の姿を、はっきり見透かすことはできない。


 杖を片手に、左脚を引きずりながらゆきに導かれていくと、庭先で働く人を見かけることもあった。


 誰もかれもが、白い犬の姿に目を細める。



「おや、ゆきや?これはこれは、最近いらしたお方…」



 こんな調子で、みな一概に丁寧に礼をする。不審の目を向けられることはなく、柚部はゆきの威光に内心で震撼していた。


 簡単に話したところでは、職工にひいでる者が多い。自宅で様々な物品を作り、里人のうちでやり取りをしている。


 つるを使って見事な籠をこしらえる者、衣を断ち繕うもの、草鞋ぞうりをよる者…。鶏を十数羽も飼っている外れの家では、ゆきはひびの入った玉子をもらい、嬉しそうにくわえる。



 人々と出会いゆく中で、はたと柚部の心に引っかかったのは衣だった。里人たちの、身なりの良さである。


 柚部自身は、黒塚くろづか屋形やかたであてがわれている濃紺の狩衣かりぎぬを身に着けていた。厚い麻地は着ていて気持ちのよいものだが、買えば高値であろう。


 故郷の熊河くまがわでは、いつも藤衣ふじごろもで野良に出ていた。頻繁にできるほころびをつくろう弥衣やえが、常に背中に不機嫌をしょっていたのを憶えている。


 今のこの狩衣は来客用のものだろうと思っていたが、里で出会う人々はみな、良質の麻衣をまとっているのだ。ようやこめも同様で、しかも何着か替えを持ってもいるらしい。


 普通の農村では、ありえないことなのである。


 紺、濃緑に消炭けしずみなど、一様に目立たない暗色に染めた衣で、静かに立ち働いている待山の里人らは、柚部の目には異様に見えた。これまで当たり前と思ってきた熊河の日常とは、およそかけ離れている。



 樹々が途切れたごくわずかな所には、畑がありもする。春の遅い地域らしく、なにか青物が茂っている土はあまりない。うちうちで食べるものを作るには十分な広さなのだろうが、貢ぎ納めるには小さすぎる。


 はて、と柚部は首を傾げる。


 待山は阿武あぶでも貴代川きよかわでもない、といわては言っていたが、実際にはどこの氏族のもとにあるのだろう?


 そのうじに、いったいどういう形で貢ぎ納めて庇護を得ているのか…。奥の地に、阿武や貴代川と拮抗できるような強い氏なんて他にいたのだろうか、柚部には心当たりが全くない。


 この疑問は柚部の胸中に大いにわだかまったが、よう達に聞くのはためらわれた。


 阿武の氏下と名乗るのをやめるように言われている以上、どんな形で誰の逆鱗に触れるか、わかったものではない。



「お前が話せたら、色々教えてもらえるのだろうがね」



 里の事情を何でも知っていそうなゆきに、低くぼやきながら歩き続けた。


 小さな畑で働く人々は、深めの藤編み笠をかぶって作業にいそししんでいる。まるで貴人が野良仕事をしているような、優雅なしぐさだった。


 骨ばった老人、かた太りの中年、血色のよい壮年。いろいろと居るが、男女ともに飢えてやせさらばえたようなのは皆無である。


 しかし泥まみれになって遊ぶ子どもの姿は、どこにも見当たらない。



・ ・ ・ ・ ・



 夜、よう老人にそのことをたずね聞くと、里の子どもらは一カ所に集められ、読み書きを習っているのだと言う。


 貴人の生まれでもないのに、それを学べると知って、柚部は心底驚いた。



「…里の皆様には、読み書きをする機会があるのですか?」


「ええ。待山の者には、かなりございますね」



 思わず聞き直した柚部に、老人は何でもないように答える。


 柚部自身は、漢文を心得ていた。幼少時に父や祖父が教授してくれたおかげだが、それはごく低級とは言え、武者つわものの家に生まれたゆえの特権である。


 地元集落の住民、配下の家に読み書きのできる者はいなかった。彼らに代わってふみのたぐいを読んでやり、必要とあらば返しを代筆するのが彼の勤めでもあったのだ。


 妻の弥衣は女ゆえにかなを使い、娘ふたりにも自分で手ほどきをしていたようだが、…詳しいことはまったくわからない。今は確かめるすべもない。



・ ・ ・ ・ ・



 ある朝、反物たんものを保管し扱っている真桐まぎり・きみ夫妻の住まいを過ぎたあたりで、やや大きめの家に行き当たった。


 温かい日だったから、戸は開け放たれている。中に子どもたちが座しているのが、門の手前からかいま見えた。


 甲高い子どもの声が、漢詩を吟じているらしい…へたくそである。


 そこをそうっと通り過ぎると、裏庭を囲む部分だろうか、高い塀の向こう側に若い男たちの気配がした。


 垣根が厚くて何も透かして見ることはできないが、短く長く意識的に吐かれる呼吸、硬い木材を打ち合う音が聞こえてくる。



「何用ですか」



 ふいにすぐ近くから、声がかかる。振り返ると、浅葱あさぎの狩衣を着た若い男が立っていた。



「失礼いたしました」



 柚部は慌てて、頭を下げる。


 目を伏せる前にさっと見た印象、男は立派な体躯で上背もある。それなのに近くに至られるまで、まったく気配を感じさせなかった。



「あなたは、新しく来られた方ですか?」



 問うてくる声に、心地わるい響きがあった。



左様さようです。柚部と申します」



 目を上げると、明らかに敵意を含んだ視線がぶつかってくる。



「…わたくしは、位聡いさとと言います。見たところお怪我はよろしそうですが、黒塚くろづか屋形やかたに長いこといらっしゃるのでしょうか?」



 言葉は丁寧だが、口調は剣呑である。やたら身なりが小ぎれいな分、この若い男のきつい態度は、柚部にちぐはぐした印象を持たせた。


 熊河の若い者たちも荒っぽかったが、位聡の敵意は妙でしかない。



「ええ、居候としてお世話になっております。早く恢復して、こちらの里の皆様に、ご厄介をかけるのをやめなければなりませんな」



 適当に言うと、ふと相手の表情が緩んだ。



「柚部殿」



 敵視から一転して、小馬鹿にしたようなまなざしが笑う。



「いらしたばかりでご存知ないのでしょう。いちど外から待山に来た者は、生きて出ることはできないのですよ」



 そうして、身をひるがえす。



「では。これから太刀の稽古がございますので、私はこれで…。いわて様に、どうぞよろしくお伝えください」



 軽く一礼、位聡はすたすた塀沿いに立ち去って行った。


 ふんっ、と下から音が聞こえる。


 ゆきが鼻を鳴らしたらしい。




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