10.左衛宅をたずねる
柚部は離れに戻って横になった。簀子縁の向こう、灌木の上に陽光がうつろっていくのをぼんやりと眺めている。やがて正午となったらしい。
呼びかける高い声が響いて、小柄な老婆が高坏を持ってやって来た。
よう老人の妻のこめと名のり、やさしげな早口のもの言いで柚部を気遣う。
「もういいかげんに、お粥さんでもないかと思いましてね!強飯を柔らかく蒸したのです、あがってみて下さいよ」
ただ膝の手当には、いわてやようより時間をかけた。
ようとこめの老夫婦は、黒塚の屋形のすぐ手前、門近くの小家に住んでいるという。
屋形の向こう…里の様子を見てみたいという欲はあったが、膝の痛みは一進一退である。柚部はその日、再びの外出を控えた。
久し振りに歩いて陽光を浴びたおかげだろうか?夜間、あの悪夢に叫んで目覚めることはなく、ゆきにも起こされはしなかった。
・ ・ ・ ・ ・
深く眠ったその翌朝。朝餉の膳を持ち帰るいわての後に続き、再び母屋の台盤所ではと麦湯を二杯もらった。
「それで、こめ小母さんの強飯はいかがでした?」
「大変うまかったです」
ふい、といわてが視線を水平に切った…ような気がした。
次の瞬間、再びすいっと柚部を見すえて女は問うてくる。
「…お粥よりも、強飯のほうがよろしいですか」
「は?いえ、私は粥がよいです。育った土地では主に粥を食べましたし…私は断然、粥ですな。ええ」
何も考えずに答えた。本当のことでしかない。
するといわては一瞬、目を閉じた。ぱちりと開けて、鼻からふぅと息を抜いたらしい…唇を引き結んでいる。気を悪くしたのだろうか?
内心恐々としたものを感じ取った柚部は、そこで台盤所を辞退して、よう老人の住まいに足を向ける。
ゆきがふわふわとついて来て、杖の反対側を歩いた。
母屋の東にあったのはごく小さな藁ぶきの小家で、ふたつの建物の間に木組み井戸が見えた。その脇でこめが洗い物をしている。
「おや柚部さん、お出かけですか?無理は絶対にいけませんよ。ゆきちゃん、しっかりおともするんだよ」
犬は上機嫌で、ふさふさ豊かな尻尾を振っていた。
こちらも藁ぶきの屋形門をくぐると、いきなり林である。狭苦しく茂り迫る柏や楢に、柚部は面食らった。
ゆきが平気でとことこ進んで行く道は、か細くともはっきり区切りのついた人の道である。しかし灌木と大木とが入り乱れていて、柚部が見知った“里”の姿とはずいぶんと異なっていた。
峠の中でもあるまいに、起伏の多い所を進んでゆくと、曲がった先にいきなり人家が現れる。またしても柚部は驚いた。
ごく小さなこの板ぶきの家の前で、ゆきが「わふん」と小さく鳴く。
開け放しの戸口から、もそりと中年男が出てきた。
「お早うさん。今日も、あなかはゆし」
ゆきの白い頭をひと撫で、…次いで柚部の顔を見て、こちらも驚いたような表情になった。
「あなた…。膝はもう、いいのですか。杖は合いましたかね?」
よう老人の話に出てきた、左衛氏であった。
下腹がまるく出た肉付きの良い男で、柔和な卵型の顔はきれいにひげが剃られている。そのすべすべした肌の上に、年代物と思しき刀傷が、いくつも白く走っていた。
温かな日差しのあたる簀子に通され、柚部は少し痛み始めた膝を休めて座った。
「あなたは憶えとらんでしょうが、あの洞窟から出てらした時に、私もその場にいたんですよ」
左衛によると、洞窟に最初の岩崩れが起こった嵐の日から、ゆきの様子がおかしかったという。
「いつもは本当に静かな子なのに。お屋形からうちにまで聞こえてくるほどのけたたましさで、吠え続けたのですよ。峠へ続く道に、いわて様やようさんを連れて行こうとしてねぇ。何人かが調べに出るつもりでいたら、また雨になってしまった。それでじきに、あの穴が岩崩れで埋まってしまったのが見つかりました」
穏やかに語る男の隣で、柚部はじっと聞いている。
「いわて様がゆきを連れて行ったら、そこで土をほじくり始めて。まさか人が埋まってるとは、誰も考えつかなかったのですが…。いやはや、犬の耳鼻には、私らの及ばない力があるのでしょうなあ」
男の話に、柚部はいつしか相槌をうつこともできなくなっていた。
「大岩をどかすのは、どだいが無理でしたから。その隙間に見当をつけて、掘り始めたんです。嵐の後なので足元も覚束ないし、いわて様も続く土砂崩れを心配したのですが、何しろゆきがてこでも離れようとしなかった。…二日目に横穴が開いて、いわて様の呼びかけにあなたが応えた時には…」
そこで左衛は首を振った。柚部自身も、ゆっくりと息を吐いた。
静寂が落ちる…。何か言わなくてはならないように感じた柚部は、ふと気づいたことを口に出す。
「…穴の中に、得物を残してきました…」
「太刀ですか?」
「ええ、…太刀と鎧と、すべて…何もかもです。それから長刀」
「!!!柚部さんは、長刀をお使いなのですか。お里では、どのようなものを使ったのです?長さは?」
途端に、左衛の表情が興味に輝き出す。柚部はあの長刀の感触を思い浮かべつつ、詳細を語った。
「さようですか…、ほ~!!」
丸い顔を弾ませるようにして、頷きながら左衛は聞き入っている。
「あの洞窟はもう、休み場としても使い物になりません。獣や子どもが迷い込んで落ちないよう、いわて様が横穴も厳重に塞いでしまいました。得物の代わりには、時間をみて何か私がこしらえてみますので…、置いてきたもののことは、諦めて下さいよ」
しなやかな杖を作ってくれた男は、他にも様々なものをこしらえるらしい。そしてその作業に、並々ならぬ熱意を抱いているようである。話していて、朗らかにたのしい相手だった。
しばらくしてそこを辞し、黒塚の屋形へ戻る途中、柚部はふと足を止めた。
なあに?と言いたげに振り向いて寄って来たゆきの頭を、かがみ込んで撫でる。
「…俺はお前に、命を救われたのだなあ」
つかえた横穴から最後に踏み出した際、身代わりとなって背後に落ちて行った長刀のことも想った。
「お前といわて様がいなかったら、長刀を持っていなかったら…。今ここに、こうして生きてはいなかった…」
萌え出る春の新緑の隙間から、穏やかな陽光が落ちていた。少し離れたところで、山鳩の鳴くのんきな声が聞こえる…
でで、ぽうー。
でで、ぽうぽうー。
その絶え間ない繰り返しが、耳の中に心地よかった。




