1.落武者、柚部の彷徨
ごごう、と大風が過ぎていった。
そのうなり方に得体の知れない獣、あるいはもっと強大なもの…見えぬ神の荒ぶりを感じて、柚部は首をすくめる。
身体じゅうがぎしぎしと痛む。
中でも、左膝下からのえぐるような痛みは耐え難かった。
一日前、側方から切りつけられた傷が熱を持ち始め、血潮の流れにあわせて、どくどくと波うっている。
振り向きざまに長刀で払ったその敵方武者は、もはや立つこともならずに膝行していた。
自分の死を目前にしても、自軍の勝利が確かとなれば、男は陽気になれるものなのだろうか?
そいつは深い兜の下から、薄笑いを柚部に送りつつ頽れた。
ごう。
また風が吹いた。わずかな空気の動きでさえ、脚の痛みを強め、気力を消耗させていく。柚部は溜息をついた。
我が身を守るはずの鎧も、今やその内にある肉体を苛む役割しか持っていない。
柚部はいま、人里をはずれた所にぽつんと建つ粗末な小家の脇で、身をちぢこめている。
一昼夜の敗走で疲弊しきっていたし、何もなくとも…とにかく人家のかげで風に当たらず、休みたかった。
これまでに行き合った知らぬ里の住人達は、彼を見れば途端に眼に敵意を宿した。遠巻きに石を投げてよこす者もいた。貴代川の側の里ではなくとも、敗者にかかわって厄介ごとを背負いたくないに違いない。
柚部は、里家に宿を頼むのを諦めた。ひらけた道のすぐ脇、草藪をかき分けて進む。おぼつかない記憶をたよりに、貴代川勢の及ばない奥山のほうへ…。そうして、ここにたどり着いたのだ。
からり、
どこかの戸が開く音がした。
柚部は、びくりと身を震わせる。
「もし」
しわがれた問いがあった。
空耳かと思えるほどの、細く低い女声である。
柚部が息を止め、気配を消していると、声は再び問うてきた。
「…お武者さま。あばら家ですが、どうぞ中へ」
老婆だ、と思った。
ささやくような声の底に、本当に久しぶりに人間の温もりを感じた気がして、柚部はそちらの方へ顔を向ける。
「そこでは風が、きつうございましょう?」
深く息を吐く。かちゃ、くちゃ、大鎧のつなぎ目をなるべく静かに震わせて、柚部は立ち上がる。
西のかなたに小さく去りかけていた夕陽の淡い光の中、か細い老女の輪郭が浮かんでいた。
・ ・ ・ ・ ・
老女はまず、粟の粥をふるまってくれた。まる二日間、ほとんど何も口にしていなかった柚部がそれをすする間、鍋に水を沸かしている。
粗末な家の中で、鎧が大げさにかさばった音を立てた。ようやく腹の落ち着いた柚部が礼を言いかけると、老女はそれをさえぎって硬い声で言う。
「傷をお見せくださいまし」
抗う必要などない…と思って脛当を外すと、裂けた袴の裾から赤紫に変色した膝があらわれた。その下の脛巾は黒く出血を吸い、固くなっている。
太刀を受けた部分の切り口は大方ふさがっているが、膝全体から脛にかけて、柚部の左脚は異様に腫れ上がっていた。
老女は湯に浸した布で血をぬぐい、さらに酒で清める。しみる激痛に柚部はうめき声をもらすが、老女は動じない。小さな壺を出してきて、中身の軟膏を腫れ上がった箇所に塗りたくっていく。素早い手付きに、微塵も迷いがなかった。
柚部が歯を食いしばって痛みに耐えていると、今度はひょいと横から陶器椀が差し出される。薬湯のような厳かな香りの湯気、…どういう効能なのか聞き質す余裕もなくて、ぐっと飲んだら苦みが口中ではじけた。
そうして老女が最後に幅広布で膝を巻きしめた頃、柚部は倒れそうなほどの睡魔にとりつかれていた。
室の真ん中に貧弱な薄布几帳のようなものを引っ張ってきて、老婆はおだやかに言う。
「どうぞ、お休みください。明日のご出立まで、御身をさわがすものは風以外、何もありません」
緊張の糸が切れる。板敷に横になった途端、柚部の意識は飛んだ。
膝の痛みも遠くへかすれ去って、風のうなり声すら柚部の眠りを妨げない。
…一日前に落武者となるまでの悲惨な記憶もまた、彼の内にうずくまって、静かな眠りについたらしい。