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湖畔にて

作者: SARTRE6107

 観光客相手の土産物店が立ち並ぶ路地に、有機栽培の自家焙煎豆を使ったコーヒーショップがあった。覗いてみると、そこはコーヒーを提供する以外にコーヒー豆の販売も行っていたので、僕は有機栽培のコスタリカ産の豆一〇〇グラムを購入して店の人に挽いてもらった。

 飲める状態で買わなかったのは、自分でコーヒーを淹れるための道具を宿泊しているコテージに持って来ていたからだ。湖畔に立つコテージで、山の湧き水を沸かしてコーヒーを淹れる。それはこのT湖湖畔のコテージに宿泊すると決めた時に、やりたい事に入っていたからだった。

 真空パックされた豆の感触を持った手の指先で感じながら、僕は土産物店が立ち並ぶ通りを抜けて、宿泊しているコテージへと歩いた。観光バス用の騒々しい駐車場近くを抜けると、今度は日帰り観光客の車やバイクでごった返す交差点に出た。交差点を行き交う車のナンバーには品川や練馬、八王子、大宮などの関東各地のナンバーであふれており、地元とは違う交通感覚に少し困惑している様子だった。

 こういう時にストレスをためてはいけないんだよな。と僕は思いながら交差点を眺めていると、ゆっくりと動く自動車たちの中に二台のオートバイが並んでいる事に気づいた。一台はスズキのインパルスで、青白カラーの最終型のモデル。もう一台は黒のヤマハ・YZR‐25で、色の具合から見てかなり年式が新しいようだった。よく見ると、それは男女二人連れの二台だった。インパルスに跨る男の方はバイク慣れしている様子だったが、YZR‐25に乗る女の方はまだ経験が浅いらしく、落ち着かない様子で周囲を見回していた。二人ともフルフェイスのバイザーを上げて、何か会話をしている様子だったが、距離があるのとエンジン音にかき消されて何を話しているのかは分からなかった。

 二台のバイクを見て、僕は初めてこの湖畔の観光地に来た時の事を思い出した。僕は大学のゼミで知り合った由美と一緒に秋も深まった頃、お互いのバイクに乗って寒さに耐えながらここまで来たのを覚えている。温かい缶コーヒーを飲みすぎて、トイレが近くなって度々小休止していたのもいい思い出だ。それからここには何度かバイクで来たが、今回は違った。僕と由梨は家族になり、ここへの移動もそれぞれのバイクではなく中古で買った五年落ちのBMWの3シリーズセダンだった。小さく別々の物で動いていた僕と由梨は、一つの大きな物に内包される関係になったのだ。

 僕は青信号になった交差点の横断歩道を渡り、コテージへと向かった。湖畔にあるコテージまでは、歩いて一〇分ほどの距離にある。湖畔の横を通る歩道からは、少しずつ緑から紅に染まってゆく山々の木々と、悠々と深い青色の水を称えた湖面を一望することが出来た。

 一〇分ほど歩いて、僕は宿泊しているコテージにたどり着いた。土産物店が立ち並ぶ通りとここまでの往復にかかる歩数がどれくらいなのかは分からないが、東京都内に住む人間の基準からすれば、軽いウォーキング程度の歩数にはなるだろう。

 僕はコテージの部屋に入り、湖に面したテラスで読書をしていた由梨に「戻ったよ」と声をかけた。由梨は本に目を落としたまま「おかえりなさい」と答えた。

「有機栽培のコーヒー豆を買って来たよ。コーヒーを淹れたら飲むかい?」

「頂くわ」

 由梨はおしとやかな口調で答えた。湖のほとりに居ると、気分も大らかで豊かになるのだろうか。僕はコテージの部屋に備え付けてあるシンクに向かい、来る時に立ち寄った道の駅の井戸で汲んだ湧き水を電気ケトルに入れて湯を沸かした。本当はガスコンロか薪ストーブで湯を沸かしたかったのだが、ここには無かった。

 湯が沸いたので、サーバーに乗せたペーパードリップフィルターに挽いてある豆を入れて、ゆっくりと湯を注ぐ。湯を含んだ豆がゆっくりと膨らむ状態を維持して淹れると、ローストされた豆の豊潤な香りが部屋の中に充満する。コテージの木の香りとはまた違った、人間の心をリラックスさせる香りだった。

 二人分のコーヒーを抽出し終えてカップにコーヒーを注ぎ、ソーサーを持ってテラスに向かう。テラスは湖に面しているせいで空気がひんやりとしていて、少し湿度が高いような気がした。

「ありがとう」

 僕がカップをテーブルに置くと、由梨は本を読んだまま僕に礼を言った。淹れたてのコーヒーに一瞥もくれずに読み続ける本など、どんな内容の本なのだろうか。

 僕は由梨の向かいに座って自分で淹れたコーヒーを一口飲むと、湖畔の反対側の景色を見た。反対側に聳える山は標高の高い所から紅葉が濃くなり、淡い色彩のグラデーションが少し曇った空に映えて美しい。トレッキングに出掛ければまた違った景色を楽しめるだろうが、今からの時間では遅かった。

「熱心に読んでいるけれど、何の本なの?」

 僕はテーブルの向かいに座る由梨に訊いた。

「このあたり一帯の郷土史の本よ。来る前の道の駅で売っていたやつ。面白そうだから買ったの」

 由梨の言葉を聞いて、僕は道の駅に立ち寄った時の事を思い返した。確か道の駅では、地元の農産物や加工食品以外にも、民芸品などを売るコーナーがあって、そこに地域一帯の情報や歴史を記した本が売られていたのを思い出した。

「あそこで買ったんだ。面白い?」

「面白いわよ。ちょうど室町から戦国時代における歴史解説が終わって、これから江戸時代に入るところ」

 由梨はそう答えて本にしおり替わりの落ち葉を挟んで閉じ、用意したコーヒーに口を付けた。秋の湖畔、読書の後に飲む温かいコーヒーは、間違いなく人生において至福の時だろう。

「都会に住んでいると感じないけれど、地方の観光地にもいろいろな歴史があって苦難や喜びが積み重なって今があるのよね。小さいけど大きな発見になったわ」

 由梨はコーヒーを一口飲んだ後、湖畔の向こうにある山を見て呟いた。彼女もさっきの僕と同じようにあの山にトレッキングに行ったらどうなるのだろう、など考えているのだろうか。

「観光業で稼ごうなんて、交通手段や産業が発達してからの産物だと思うよ。それまでの人間は慎ましく生きていたんだよ。日本全国の観光地は」

「そうだよね。昔は大なるものを追う余裕や手段がないから、小さなものを集めて生活していたんだものね」

 由梨はそう呟いて、またコーヒーを一口飲んだ。味に関する感想が無いという事は、特徴が無い味なのだろうかと思って、自分のコーヒーをもう一口飲んでみると、少し冷めたコーヒーはさっきより味が変わっていた。豆というよりも、道の駅で汲んだ湧き水がこの水と会わなかったのかもしれない。ミネラルを多く含んだ山の水が、この豆の良さを打ち消してしまったのだろうか。

「この湖と山だって、この地域一帯が観光地として整備されなかったら、誰も美しいと思わないし、こうやってコテージを建てて宿泊客に来てもらうなんてことも無かっただろうね」

「そうだね。小さな事が大きなものになって、大きな事が小さな事に気づかせるのは面白いね」

 僕ははにかみながらそう答えた。そうすると少し強い風が吹いてきて、近くにある木々を騒めかせ、穏やかだった湖面にさざ波を立たせた。

「ねえ、浩平」

 不意に由梨が僕に訊いてきた。コーヒーを飲もうと思った僕は手を止めて「何だい?」と答えて由梨を見た。

「つまらなくない?私が引きこもって本を読んでいて。よかったら、一人でトレッキングとかに出掛けてもいいんだよ」

 由梨は申し訳無さそうな表情で僕に行ったが、僕は小さく鼻を鳴らして笑顔でこう答えた。

「昔だったら、俺の方から〝どこかに行こう〟って誘っていたよね。でも今は大丈夫。湖の魚みたいにのんびりするのも悪くないよ。今年の俺は去年とは違うんだ」

「そうなの?」

「そうだよ、君がその歴史の本を読んで知ったように、俺は大きな事から小さな事に気づく能力を覚えようとしているから」

「それは、浩平にとって有益な事なの?」

「もちろん」

 僕はそう答えて、再びコーヒーに口を付けた。先ほどより冷めているのは、気温が下がっているからだろう。

「寒くなって来たから、中に入ろう」

 僕は由梨と一緒に、テラスから離れた。


(了)

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