第42話 師匠と弟子
「ここにいたのか、ロコ」
「あ、ししょー……」
ゴーシュが声をかけると、ロコは耳をピクリと反応させ、ゆっくりと振り返る。
二階にいると思われたロコは、ギルド建物の屋根に登っていた。
天然石を敷き詰めただけという感じの屋根にちょこんと座り、どうやら月を見上げていたようだ。
「寝室にいるかと思ったから、探したよ」
「うん……。ちょっと、お月さまを見たかったから」
「そうか」
屋根に通じるハシゴを登り終えたゴーシュは、ロコの隣にそっと腰掛けた。
(そういえば、獣人族は月を見て精神を落ち着かせる種族だなんて聞いたことがあったっけな)
ゴーシュはふと、どこかの配信でやっていた情報を思い返しながら月を見上げる。
その日は満月で、夜にも関わらず煌々とした月明かりがゴーシュとロコに降り注いでいた。
「お月さま、まんまるで気持ちがいい」
「ああ、そうだな」
ロコの可愛らしい表現に、ゴーシュは自然と笑みをこぼす。
――そうして二人で月を見上げたまま少し時間が経っただろうか。
不意にロコが何かを決心したかのように、膝の上で小さな拳をぎゅっと握りしめる。
「ししょー」
「ん?」
「私、ししょーに謝らなきゃいけないことがある」
「謝る? ロコが俺に?」
予想外の言葉を投げかけられて、ゴーシュはロコの方に視線をやった。
ロコは俯き、握った自分の手をじっと見つめている。
「私……、ししょーにひどいことを言った」
「酷いこと? 別にそんなことを言われた覚えはないが?」
ゴーシュが言葉を返すと、ロコはふるふると首を横に振った。
悲しげな表情が月明かりに照らされ、その赤い瞳には涙が浮かんでいた。
「ししょーは、知らないかもしれない。でも、私は本当にひどいことを言っちゃったと思ってる」
「詳しく、話してくれるか?」
ロコは頷く。
そして、一つ一つ絞り出すように言葉を発した。
「私、半年くらい前に、ある配信を見てた。そこに、ししょーもいた」
「半年前の配信……」
その言葉で思い当たるといえば、ゴーシュが元いたギルド《炎天の大蛇》を解雇された時のことだ。
具体的には、ギルド長のアセルスがでっちあげた嘘により、ゴーシュを貶めた「追放配信」である。
アセルスがギルドメンバーに指示したことで、コメント欄はゴーシュを叩くような悪意の波に侵略されて……。
安全圏にいる者たちが一人の男をドブに落とし、そこで溺れている様を見て笑いものにする。
あの時行われていたのは、そういう配信だった。
(確かあの配信は、すぐフェアリー・チューブの運営に削除されていたな。動画も残っていない。ということは、ロコはあれが配信された時に見ていたのか)
「あの頃の私、うかれてた。微精霊との交信ができるようになって、色んな配信を見れるようになって、コメントを打ち込んだら自分も配信に参加しているような気持ちになれて。……まるで新しい世界に出会えたようで、とても楽しかった」
ロコはそこで言葉を切る。
握りしめた手はかすかに震えていた。
純粋無垢な子供があの悪意の渦の中にいたら、それを悪意だと気付くことすら難しいだろう。
ゴーシュはロコのことを不憫に思い、それでもロコの声に耳を傾ける。
その声の一つ一つに、ロコの決意がこめられているように感じたからだ。
「それであの日も、ししょーが出ている配信を見てた。ししょーが悪いって、みんな言ってて、私もそうなんだって思って……。それで、コメントを送った。送っちゃった……」
「……」
「ししょーのこと……『サイテー』って、そういう、コメントを……」
ロコはぽろぽろと大粒の涙が溢れる。
手が白くなるくらいにきつく握りしめ、ロコは涙を拭おうともしなかった。
それは、大衆に埋もれたたった一つのコメントだったかもしれない。
悪意に流され、たった一回批判するコメントを打ち込んだだけだと、そう思う者もいるかもしれない。
しかし、まだ幼いロコにとっては大きな……とても大きな出来事だったのだろう。
「その後、おじいちゃんに怒られた。目に見えることだけで真実を知った気になっちゃいけないって。特にその人が何者であるかは、うわべだけで判断しちゃ、絶対に絶対にいけないことなんだって」
「……」
「それで、私、ししょーの出ている過去の配信を見た。たくさんたくさん見た。ギルドの人たちを陰から支えて、守ってる配信も、たくさん。それで、気づいた。この人は、悪者なんかじゃないって。《ししんえんげんりゅー》を正しいことのために使える、私にとってのししょーのような人だって。でも、私があの時ししょーに送ったコメントは違っていて……。その事実は、消えてくれなくて……」
「そうだったのか。じゃあ、初めて会った時にロコが言っていた、俺の所に来たもう一つの理由って?」
「うん……。ししょーに会って、謝りたいって思ってた。でも、勇気が出せなかった……」
ロコがゴーシュの人となりを判断したのは、奇しくもミズリーと同じ方法だった。
ゴーシュは必死の思いで告げているロコから目をそらさず、その一言一言を受け入れる。
「ししょー、ごめんなさい……。ごべんなさい……。ごめ……、ぐ……えぐっ……」
ロコは顔をくしゃくしゃに歪め、そして嗚咽混じりに呟いた。
そんなこと気にすることはないと、大勢ある中のたった一つのコメントじゃないかと、そう返すのは簡単かもしれない。
けれど、ゴーシュは考える。
勇気を振り絞って伝えてくれたであろうロコに対して返す言葉としては、相応しくないのではないかと。
だからゴーシュは、自分も真っ直ぐに告げようと決める。
「ロコ、ありがとう」
「え……?」
それはロコにとっては意外な言葉だった。
責められることはあっても、感謝される謂れなどないと思った。
それでもゴーシュはロコに対して言葉を続ける。
「人間、誰しも誤った見方をしてしまうことはある。俺だって、特に若い頃はそんなことばっかりだった。自分の信じたものを都合よく解釈して、それ以外は正しくなんてないとはねのけて……。その方が楽だからな」
「……」
「俺が偉そうに言えることじゃないかもしれない。でも、本当に大切なのはそういう見方をしたと自覚した、その後なんだと思う」
「そのあと……?」
「ああ。間違っていると気づいても、保身に走ったり、向き合うことから逃げたりすることは簡単だ。でも、ロコはそうしなかった。きちんと自分の想いを伝えてくれた」
「……」
「だから――」
ゴーシュはロコにそっと微笑む。
ロコも涙で濡れた顔を上げ、ゴーシュをじっと見つめた。
「俺には、その気持ちが本当に嬉しいんだ。勇気を出してくれてありがとうな」
「ししょー……」
ロコが身を寄せて、ゴーシュの胸に顔をうずめる。
その顔はさっきよりも涙で濡れていて、それでもロコは感じていた。
ああ、この人はやっぱり自分の「ししょー」なんだ、と――。
***
「ロコに一つ提案があるんだが」
「……?」
ゴーシュがそう呟いたのは、しばらくしてロコが泣き止んでからのことだ。
「もしロコさえ良ければ、俺たちのギルドに入らないか?」
「私が、ししょーとミズリーのギルドに?」
「ああ。ミズリーも話したら大歓迎だと言っていた。せっかくなら、一緒に配信をやらないか?」
ゴーシュの問いに、ロコは赤い瞳を見開く。
「い、いいの?」
「ああ、もちろん。その方がロコもずっと一緒にいられるし、きっと楽しいと思うんだ」
「……」
月明かりに照らされたロコが目を細め、笑みを浮かべる。
次に口にする言葉は決まりきっていた。