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聖弾の祓魔師《エクソシスト》- 荒野の教会篇  作者: 伊藤 薫
第4章:深き淵より
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[3]

 ヘレーネはなま温かいシャワーを浴び終えた。湯は屋根に取り付けられた金属製のタンクから供給される。タンクはできるだけ熱を吸収するよう黒いペンキで塗装されている。日中は温度が上がり過ぎるほどで使えないが、深夜になればかなり温くなる。シャワーを浴びればリラックスできるし、多少なりとも寝つきも良くなるだろう。

 ヘレーネはタオルを手に取る。まず髪を拭き、それから身体を拭き始めた。突然、電気が消えた。あっと叫び、舌打ちしたい思いでスイッチを何度か押した。照明は付かない。仕方なく戸棚から非常時用のロウソクを取り出す。ロウソクにマッチで火をつけた。

 浴室の外で何かを引っ掻く音がした。ヘレーネは手をとめた。

 カリカリ。バタン。

 思わず身体を硬くする。ジョセフだろうか。

 カリカリ。バタン、バタン。

 タオルを身体に巻きつけて浴室のドアを開ける。暗い廊下に人けは無い。

「誰、誰なの?ギデオン?」

 バタン。

 激しい鼓動を抑えつつ、ヘレーネは廊下に踏み出した。診察室の前で立ち止まる。部屋を覗いた。誰もいない。さらに先に進む。キッチンも寝室も空っぽだ。

 バタン。カリカリ。バタン。

 寝室の窓が何かで光った。思わずキャッと叫んで飛び退いた瞬間、光はすぐに消え去った。

 タオルをさらにきつく胸に巻きつけ、病室の入口に進む。そっと部屋をうかがった。天井のランプはまだ燃えている。ジョセフはベッドで寝ていた。突然、部屋の電気が点いた。そばのテーブルの上でラジオが大音量で鳴り出した。悲鳴を上げた瞬間、足元がぬるりと滑って危うく転びそうになった。かろうじてバランスを取り戻し、ラジオのダイヤルを回してスイッチを切る。

《なんでラジオがついたのかしら?》

 ふと床を見る。血が眼に入った。深紅の道筋が廊下から自分の足許まで続いている。ヘレーネは血だまりの中に立っていた。タオルの端まで真っ赤に染まっていた。声にならない叫びが喉に詰まる。震える手を太腿の内側に滑らせる。指に血がべっとりと絡んだ。ヘレーネは叫んだ。声の限りに。


 眼が覚めた瞬間、ヘレーネは病室のベッドに寝ていた。眼の前にギデオンがいた。喉がひどく痛い。枕元にギデオンが深刻な顔つきで坐っていた。

「気分はどうですか?」

「私・・・分からないわ。何があったの?」

 ヘレーネの声はかすれている。

「入って来たら、あなたがその・・・血を流して倒れてた。身体を洗ってからベッドに寝かせ、床にモップをかけた」

「ありえないわ・・・」

「きっとストレスのせいで・・・」

「そうじゃないの・・・」

 ヘレーネの声は囁き声になった。辛い記憶が心によみがえってくる。

「私には、もう・・・流す血なんか残ってないの。ベルゲンよ」

「何?」

 ギデオンは瞬きをした。

「強制収容所」

 ヘレーネはランプの灯の下に腕の入れ墨を差し出した。B19862という数字。

「私はベルゲンに送られた。もともとはお城だったところを、アメンドラが強制収容所にしたの。私は没収品を処理する仕事に回された」

「没収品?」

「収容所に連れて行かれると、まずある部屋で所持品を全て没収されるの。名前もね。その後、番号と薄い灰色の囚人服を渡される。囚人がそこから出ると、私たちが中に入るの。没収品を分類するわけ。スーツケース、洋服、メガネ、宝石、靴・・・床に歯が転がっていたのを見つけた時はショックだったわ。アメンドラは歯に被せてあった金が欲しくて、守衛に命じてペンチで抜かせたのよ。もちろん、没収品の仕分けばかりしてたわけじゃない。妹が強姦されるのも、従兄弟たちが処刑されるのも見たわ。両親が毒ガス室に連行されるのも。それでも私は生き延びて・・・」

 ギデオンはじっとヘレーネの顔を見ている。

「この地はね、ギデオン・・・トゥルカナの人たちの言う通り、呪われてるわ」

「・・・」

「だって、恐ろしいことばかり起こるんだもの。悪魔の仕業としか思えない」

「ヘレーネ、悪がどこかに存在してると考えるのはたやすい。でも、それは違う。悪は人間が生まれながらにして持ってるものだ。ぼくたちみんなのなかにあるんだ」

「じゃあ、あなたの中には、どんな悪があるの?」

「何だって?」

 ヘレーネはベッドから手を伸ばし、ギデオンの手に触れた。

「私は死んでいく人たちの衣服と過去を仕分けしたわ。あなたには、何があったの?」

 ギデオンはぐっと口元を噤む。しばし沈黙が流れた。さらに問いただすべきか。ヘレーネが迷っている。ギデオンが重い口を開いた。

「あれは・・・戦争が終わる直前で、神父の数も不足してました」

 ギデオンはヘレーネの手を握った。

「そこで、ぼくも考古学の現場から呼び戻されました。ディレンブルグ王国のヘルンデールという村に司祭として派遣されたのです」

「ディレンブルグはアメンドラの占領下にあったわね」

 ギデオンはうなづいた。

「前任の神父は・・・失踪してしまって、ぼくがその代役になったのです。ある日、アメンドラの兵士がやって来て・・・」

 その時、ギデオンはおもむろに虚空に眼をやった。何か恐ろしいものを見たような険しい顔つきになっている。ヘレーネが問いかけようとすると、ギデオンは言葉を遮った。

「クーベリックは教会の地下で何を見つけたか、あなたに話したんですか?」

 ヘレーネは瞬きした。

「教会の地下?いいえ。何があるの?」

「太古の寺院だ」

 ギデオンはかいつまんでこれまでの経緯を説明した。ただし、行方不明になっている偶像と蠅の大群に襲われたことを言わなかった。

「いいえ、そんな話は聞いたことないわ。なんて、恐ろしいの・・・」

 ギデオンは大きな欠伸をした。眼に涙が浮かぶ。

「失礼、ちょっと・・・」

「寝た方がいいわ。私なら、もう大丈夫。あなたこそ、休んで」

 ギデオンは疲れ切っていた。ヘレーネの身に起こった不可解な事件や、その他のもろもろについて議論する気も考える気力も残っていなかった。ヘレーネの額におずおずと口づけしてから部屋を出た。ホテルに着くと、裏の階段を使って部屋に戻った。シャワーを浴びて寝間着に身を包み、ベッドに倒れ込んだ。

《あなたの中には、どんな悪があるの?》

 今夜こそ悪夢を見ず、心地よく眠れるはずだと思っていた。だが、ギデオンは薄く硬いベッドの上で何度も寝返りを打った。

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