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聖弾の祓魔師《エクソシスト》- 荒野の教会篇  作者: 伊藤 薫
第3章:破滅へのプレリュード
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[1]

汝が深淵を覗き込む時、深淵もまた汝を覗き込んでいるのだ。 ニーチェ

 3日後、ギデオンはどこか威圧的な雰囲気を持つ建物に入っていった。入口に「聖ヨハネ・サナトリウム」というエメリア語の看板が掛かっている。巨大な門がぽっかりと口を開いた。

 

 この3日間、ギデオンは休むことなく動き続けた。まず荷造りをし、それからエヴァソまで車で3日かかる道のりを走り続けた。とにかく動いていれば考えずに済む。ルイスの頭蓋骨が割れる音や、引きずられた手足や飛び散った血ふぶきを。病院で意識もなく横たわっているジョセフや、苦痛に歪んだオラトゥンジの顔を。


 それでも不意にそれらが頭をよぎる時、とりわけオラトゥンジを思うと、ギデオンは強い罪悪感に襲われた。本当なら自分はオラトゥンジのそばでその悲しみを分かち合い、慰め、力になるべきだった。だが、自分は逃げるようにエヴァソにやって来たのだ。


 自分はもはや神父ではない。肉親の死を嘆く遺族を慰めるのは、自分の役目ではない。アンという適任者がいるのだから。そうは思っても、罪の意識は消えない。


 くすんだ緑色に塗られていた玄関の扉を開け、薄暗いロビーに入った。


「すみません」


 声が室内に反響した。返事はない。階段や廊下が四方に伸びている。ギデオンは適当に選んだ廊下に歩き出した。廊下で黒い修道服を着た尼僧と出会い、病室は2階にあると教えてくれた。


「ポリトウスキ神父はいらっしゃいますか?訪ねるように言われたんですが」


「出たり入ったりしてます。しばらく探せば、見つかるでしょう」


 ギデオンは礼を言って近くの階段を上がり始めた。2階に着くと、眼の前に両開きのドアがあった。ドアを押して中に入る。そこは休憩室のような大部屋だった。ぐらついたテーブルと椅子が乱雑に置かれ、汚れた窓に鉄格子が嵌っている。排泄物と吐瀉物のすえた臭いが鼻を突いた。


 何十人という患者が歩き回っていた。誰もがうつろな眼をしている。椅子に座り、ぼんやりとしている者。何ごとかブツブツと呟いている者。口を大きく開けたまま、両手を羽根のようにばたつかせている者。


 水の入ったバケツを脇に、尼僧が床に這いつくばってブラシを使って何かをこすり落としている。部屋を横切ってきたギデオンに気づき、尼僧が顔を上げた。


「誰です、あなたは?」


 訛りが強すぎて何を言っているのかよく分からない。


「ギデオン・ローレンスといいます。ここにアントン・クーベリック氏が入院してると聞いて、面会に来たのですが」


「クーベリックさんは慢性患者の病棟です」


 尼僧は奥に続く廊下を指した。立ち去り際にギデオンは言った。


「失礼ですが、ここでは本当に患者の治療をしてるのですか?」


「ここの人たちは、もう治りようがないの。食べ物と寝る場所があるだけで、幸運というものです。それだって、お金が足りないくらいなんですから」


 ギデオンは暗澹たる気持ちで教えられた廊下を足早に歩いた。廊下に沿って、いくつかドアが並んでいる。ドアにそれぞれ名前が書いてあるが、手書きの文字はほとんど判読不可能だ。


 何人か患者とすれ違った。気がついた時、ギデオンの周りに誰もいなくなっていた。廊下の奥まで6メートルほどあるが、そこだけひと気が無い。汚れた窓の付いたドアがあった。辺りが急に冷えてくる。


 ドアに付けられた名札を見る。歪んだ手書き文字がどうにか「アントン・クーベリック」と読める。汚れた窓から室内を覗き込む。こちらに背を向け、机で何やら作業している男の姿がかろうじて見える。ドアノブを回してみたが、鍵がかかっている。仕方なくギデオンは誰か鍵を持っている人を捜しに行こうとしてドアを離れた。


 カチリと音がした。ギデオンは足を止めた。


 ドアがわずかに開いている。さっきは回し方が足りなかったのか。ギデオンは躊躇しつつ、部屋に足を踏み入れた。その瞬間、強烈な異臭に横っ面を張られた。こみ上げてくる吐き気を抑えるため、ギデオンはポケットからハンカチを取り出し、鼻に押し付けた。


 クーベリックは机の上に屈み込み、何やら書き物をしているようだった。壁には何枚もの絵が貼られていた。喉を詰まらせながら、ギデオンは声をかける。


「クーベリックさんですね?デラチの遺跡で働いてましたよね?」


 冷えきった空気が全身を包む。ギデオンはしばしその場に立ち尽くした。途端に、クーベリックが笑い声を上げる。ギデオンは自分が狂った男と2人だけで部屋にいることに気づき、背筋が凍りついた。


「あなたが描いた偶像、あれはどこで見たんですか?」


 クーベリックは作業を続けている。貧乏ゆすりをしているのか。脚で床をパタパタと叩く音がする。どうしたらいいか分からず、呆然とする。不意に堅い声が発せられた。


「ギデオン・ローレンス」


「なんでぼくの名前を知っている?」


 パタパタと床を叩く音が速くなった。ギデオンは机の下に眼を向ける。いつの間にか黒い染みができ、ゆっくりと広がる。ギデオンは思わず叫んだ。


「なんでぼくの名前を知ってるのかと聞いてるんだ!」


 背後でドアがバタンと閉まる。クーベリックはゆっくりと立ち上がった。長身でがっちりした体格。ギデオンは後ずさりしてドアノブを探った。鍵が掛かっている。


 クーベリックが振り向いた。ボロボロに引き裂かれた患者服を胸元にかき合わせ、指の間から黒い液体がドクドクと流れ出ている。


 ギデオンは上着の懐に手を入れて拳銃を構えた。クーベリックが胸元の両腕を大きく広げる。汚れたシャツが開き、胸に逆さ十字のマークがぬめりと光った。


「今日、ここに神はいないよ。神父」


 膝がガクガクと震え出す。ギデオンの背中がドアにドンと当たった。クーベリックは長いガラスの破片を握っていた。トリガーにかけたひと差し指が疼いた。クーベリックは尖ったガラスの先端を自分の首筋に押しつけた。


「やめろ!」


 クーベリックは不敵な笑みを浮かべた後、首にガラスを突き立てた。皮膚と肉が裂ける音がする。血が噴水のように溢れ出す。気管が破れたのか、ひゅうひゅうと空気が洩れる音がした。飛び散る血しぶきが壁のデッサンにかかる。悪魔たちが血を流しているようだ。


 血まみれになったクーベリックの身体が床に崩れ落ちた。

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