燻煙
「悪いことをした」
そう思ったのは、悪事を働いてすぐであった。足元には半分以上も残ったソレが転がっている。早鐘を打つ鼓動が耳に良く聞こえた。不安や焦りを紛らわすための深呼吸すら、今は気色の悪いニオイをおびている。口の中がいつもより乾いて、空間も広く感じる。痰が喉にへばりつく感覚が嫌で、すぐに近くの水道へ駆け寄った。
蛇口を勢いよく捻る。力強く出る水を両手ですくい、口へはこぶ。
舌、頬の内側、歯茎や喉を丹念にすすぐ。何度も、何度も水を口に運んで、すすいでは、吐きだす。
服が濡れることも気に留めず、満足がいくまでやり続けた。それでも、完全にニオイは消えなかった。
ふと我に帰ると、今度は時間が気になった。携帯電話の時計は23時を遠に過ぎていた。
その場で跳ねるように立ち上がり、すぐさま公園を後にする。ポッケの中の機械は、公園の生垣に投げつけるようにして捨てた。
この時にはもう、それがイケナイ事だという考えは浮かばなかった。今はただ、帰って、布団の中で朝になるのを待っていたかったのだ。
家に着く頃には、びっしょりと汗を書き、息も上がっていた。いつもよりも息苦しく感じると、少し涙が出そうになる。
玄関を静かに開け、そのまま階段を上がる。明かりは点けず、音も殺して自分の部屋へと転がり込んだ。
布団に潜ると、未だに残る嫌な煙のニオイがした。それが布団につきやしないかと思うとまた不安になる。バレたらなんて言われるかな、怒られるかな。そんな不安がずっと頭を巡っていた。
その後は、ただ時間が過ぎるのを待った。
気が付いたら朝だった。
鳥の鳴き声のする気持ちのいい朝だ。初夏独特の涼しさがあり、薄霧の中、部屋に差し込む朝日が暖かい。
すでにニオイはどこかへ消えていた。不安や焦りも今は見る影もない。
ふと脂の良い香りが漂ってきた。階下からは家族の楽しげな会話が聞こえてきた。今日はベーコンエッグトーストだ!
跳び起きるようにして布団から出ると、少し肌寒いのも気に留めず、リビングへ降りて家族のいる食卓に加わる。皆は驚いたようにこっちを見ると、すぐに顔を和ませた。
皿の上に乗ったベーコンエッグトーストは、油をてらてらと反射させ、薄く湯気を立てている。おいしそうだ。
耳の端を摘んで、トーストにかぶりつく。いただきますを忘れて怒られたが、今はそれどころじゃなかった。ベーコンエッグトーストは、ベーコンの塩気と半熟の卵、マヨネーズと胡椒の味が合わさって、とてもあたたかかった。
火傷するのも構わず一気に食べ切る。口の端にマヨネーズとベーコンの脂がついて、それを人差し指と親指を拭い舐る。叱られながらも、今度はごちそうさまをしっかりと言った。
席を立とうとして、横からスッとコップを差し出される。黒い液体に氷が浮いている。コーヒーだった。いつもとは違う、真っ黒で独特な匂いのある液体。牛乳も、多分砂糖も入っていない。
首を横に振るも、父は飲むように勧める。興味がない訳ではなかった。これが飲めるということは、大人の証なのだから。
両手でコップを握る。結露した水滴と金属のコップはヒンヤリとしており、持ち上げると氷がカランカランと音を立てる。家族の顔を見ると、みんなこちらを注視していた。まるで目の前のイベントがクライマックスを迎えているかのような瞳に、慌ててコーヒーを一気に飲み干した。
冷たいコーヒーが口から喉に、食道を通って、胃に流れていくのを感じた。胸に冷たいものが通り過ぎた感覚を感じながら、同時に苦いコーヒーの味を下の上に感じていた。一瞬顔を引き攣らせるほどの渋みがあり、その後は徐々に苦いという感覚は無くなっていく。後には独特のコーヒーの後味が残った。どこかで嗅いだことのある臭いが、鼻腔を、口の中を抜けていく。
家族は皆感心した様子だった。それがなんだか気恥ずかしくて、すぐに席を立って部屋に戻る。部屋に戻るとすぐベッドへ転がる。天井を見つめながら、先ほど飲んだコーヒーの残り香を嗅ぐ。鼻で息を吸ったり吐いたりすると、コーヒーの匂いがした。味はまだ好きになれそうにないが、この匂いだけは悪くないなと思った。
そこでふと、一瞬だけ頭を過ぎるものがあった。ほんの一瞬だけであったが、脳裏に昨夜の煙が思い浮かんだのだった。先ほどまで忘れていたからか、急に背中を汗が濡らした。だんだん鼓動の速くなるのも感じた。
何故?
そんな疑問はすぐに解決した。
コーヒーの匂いだった。
コーヒーの残り香は、昨日のニオイに似ていた。
コーヒーの燻された匂いは、まさに葉を焼くニオイそのものだった。
その時、酷く後悔したのを憶えている。コーヒーを飲むたび、あの日の悪事を、悪い自分を責められるような気がしてならなかった。
そして今では、コーヒーを一滴も飲めないでいる。
※この作品はフィクションです。犯罪行為を推奨する意図はございません。