第五十六話 願い
リィン… リィン… リィン…
音が響く。
清らかな音だ。
先程まで渦巻いていた黒い炎は消えていた。
リィン… リィン… リィン…
錫杖の音だとわかった。
以前もこんなことがあったような気がすると晃が目を開けると、目の前には真っ赤な夕焼けが広がっていた。
紅い紅い空を従え、何かが何かをがガツガツと食べている。
こちらに気付いたのか、それが顔を向けた。
たてがみのような真っ赤な髪をふりみだしている。
顔立ちは幼い。五〜六歳程だろうか。
射抜くような眼光を放つ瞳の色は、青。
そしてその口元は真っ赤に染まっていた。
手には、今まさに食べている、人間だったモノがある。
鬼だ。
人喰い鬼だ。
自分はただの僧侶だ。調伏の能力はない。
急いで退魔師に報告しなければ。
そう思い立ち去ろうとしたのだが、なぜか動けなくなった。
その人喰い鬼が、ひどく心細そうな目をしていることに気付いたからだ。
何故そうしたのかはわからない。
気付いたらその人喰い鬼と旅をしていた。
最初は言葉もわからなかった。
滅多に口をきかないが、しゃべっても聞いたこともない言語で、意思の疎通が大変だった。
それでも日々を重ねるうちに、言葉を覚え、文字を、知識を覚えていった。
共に歩む人のいる幸せを知った。
人間の欲深さに絶望し、都を捨てた自分が、鬼のような見た目の子供に心を救われた。
人喰い鬼は鬼ではなかった。
話せるようになって聞くと、あのときはとにかく腹が減っていたのだという。
そこに人間の死体があったため、喰らいついたのだと。
飢饉の時にはどこでもそんなこともあったと知っていた。
それほど腹が減っていたのかと哀れになった。
人前に出るときには、昔作った面をつけさせた。
赤い髪に青い目は、鬼と間違えられかねない。
面をつけていれば、赤い髪は作り物だと勝手に思い込んでくれる。青い目も見えない。
おかげで、鬼と言われることは一度もなかった。
共に暮らし、共に歩み。
幸せだった。
ずっと共にいたかった。
しかし、病魔には勝てなかった。
この子を一人遺していくのが無念で心配で。
気付けば、霊魂となってあの子のそばにいた。
そばに在っても霊魂では気付いてもらえず、あの子が苦しんでいても助けることもできない。
数々の理不尽にさらされ、数々の苦しみにさいなまれ、やがてあの子はチカラを求めるようになった。
ダメだ、やめなさいといくら言っても霊魂の身では届かない。
やがて、あの子は殺された。
黒く禍々しい気配が亡骸を取り巻く。
このままではまずい。
なにかまずいことがおころうとしている。
どうにかしたくても、霊魂の身では何もできない。
何度も何度も名を呼び、止めようとしているのに、あの子には伝わらない。
だめだ。やめなさい。このままでは、このままでは!
その時だった。
どこからか笛の音が聞こえてきた。
笛の音はまるで亡骸を取り囲むように辺りに響き、爆発しそうだったあの子の亡骸は動きを止めた。
「――封じられない…?」
つぶやきに顔を向けると、一人の女性が立っていた。
顔立ちはよくわからない。
巫女のような出で立ち。
袴の色は若竹色。重ねる千早も緑色。ふわりとまとった領巾も薄い緑で、まるで春の若竹がそこに立っているようだ。
頭の金の冠につけられた細かい飾りがシャラリと鳴る。
あの子の亡骸のそばまできた巫女は、何かを探るように見ていたが、ぽつりとつぶやいた。
「この方、『落人』だわ」
落人。聞いたことがある。
この世界とは異なる世界から落ちてきた人。
ああ、だからあの子は髪も目も違う色なのか。
「『器』の大きさが全然違う。
落ちてすぐなら元の世界に帰れるけど、もう随分経ってるみたい…。
それに、この世界のモノを取り込んでしまってる。
これじゃあ、元の世界にはとても帰れない」
「こんなのを送られたら、その世界が迷惑しますよ、姫」
声の主を探すと、巫女の足元に一匹の亀がいた。
黒い、大人の手のひらくらいの亀だ。
額に日輪のような白い模様がある。
「もう『場』になりかけてます。封じられない以上、滅するしかありません」
滅する?! この子を?!
「やめてください!!」
思わずあの子の亡骸に覆いかぶさる。
霊魂の身であることも忘れ、あの子を抱きしめ叫ぶ。
「この子は優しい、良い子なのです!
このような行動に出たのも、ひとえに世を憂い、師である私を思いやってくれたからこそ。
この子に罪があることは重々承知しております。
その罪は、私が共に地獄で償います!
ですから、どうか!
どうか滅するのだけは、お許しください!!」
「ではどうするというのだ」
亀の鋭い声に思わず顔を向ける。
永らく他人に認識してもらっていなかったので、反応があることに驚いた。
そんな自分の反応をどう思ったのか、亀はフンと鼻を鳴らし、続けた。
「このまま放っておいたらどうなるか、わかっているのか?」
この子を殺した者達が清めの儀式をしていた。
あとは野ざらしにして鳥葬――鳥に亡骸を喰わせ、少しずつ浄化すると話していた。
それではいけないのだろうか?
「今現在、『場』になろうとしている。そんな悠長なことはできぬ」
きっぱりと亀が言う。
「ここまで強く、穢れた霊力は見たことがない。
我が姫ですら浄化することも封じることもできないほど大きな霊力だ。
他の者ではどうにもできぬだろう。
今ここで滅しておかねば、災厄を振り撒き多くの生命が失われる」
「そんな…」
亀は巫女に一言二言告げ、何かをした。
仲間を呼んだのだとわかった。
あの優しい子が、私の子が、滅せられる。
輪廻の輪に乗ることも、地獄で罪を償うことも、仏の救いもなく、ただ消滅する――。
気がつけば、巫女の前に土下座していた。
「どうにか、どうにかなりませんか?!
霊力が強いことが問題ならば、霊力を切り離すとか、魂だけ封じるとか、何とかならないでしょうか?!
滅するのは、それだけは、どうか、どうかお許しくださいませ!!」
「甘いことをぬかすな」
尚も言いつのる自分の言葉を亀がピシャリと封じる。
「そもそも――」
亀の言葉は続かなかった。
巫女の様子が変わったのに気付いた。
「――姫?」
「…霊力を、切り離す…。
魂のみを、封じる…。
分けて、封じる。封じた、そのあとは…?」
「姫。なりません」
亀の強い制止に、巫女の思考が止まる。
それから二人で言い合い――亀による一方的なお説教が続いたが、突撃突風が巻き上がり止まった。
そこには、美しい獣がいた。
人の何倍もある大きな体躯。
つややかで美しい毛並み。
真っ白な身体には黒い縦縞模様。
伝え聞く白虎だと理解した。
白虎は二人の言い分を聞き、巫女の案を褒めた。
「よく組み立ててあるわ。やってみる価値はあるんじゃないかしら」
亀はすぐ滅すべきだと尚も言いつのったが、結局二人に、というか白虎に言い負かされた。
滅するのは、回避された。
白虎に説明される。
これから、この子の魂と霊力を切り離す。
常人ならばそれで十分だが、この子の霊力は大きすぎる。そこで、霊力を五つに分け、五行の理で包み、封じる。
封じた五つの霊力は、五行それぞれの属性の強い場所へ送られる。
霊力は魂に影響を与えるから、霊力が受ける浄化の力で魂の浄化をはかる。
何百年、何千年かかるかわからない。
そもそもうまくいくかもわからない。
「あなたはどうする?」
質問の意味がわからなくて戸惑う。
「あなたならば私でも成仏させてあげられるわ。
今ここで成仏するか、それともこのままこの『禍』のそばに居続けるのか――」
「このままこの子のそばにいさせてください」
白虎の言葉をさえぎり即答する。
「私が側にいても何もできないことは承知しております。
ですが、私が側にいたいのです。
何もできないからこそ、せめて側にいてやりたいのです」
自分の言葉に、白虎と巫女が微笑む。亀はそっぽを向いている。
「何万年かもしれないわよ」
いいの? と念押しされるが、心は変わらない。
白虎はうなずいた。
「では、姫。――はじめましょう」
次話は明日12時投稿予定です




