第三十六話 おかあちゃん
「おかあちゃんに会わせてあげよう」
トモの祖母はおだやかに笑って言った。
嘘を言っているようには見えない。
ふざけているようにも、からかっているようにも見えない。
どういうことかとナツが訝しんでいると、トモの叔母が戻ってきた。
手鏡を手にしている。どうやらこれを取りに行くように指示されたようだ。
トモの祖母は手鏡を受け取ると、ナツに持つように勧めた。
「この中に、おかあちゃんがいるよ」
どういうことかと聞きたかったが、うながされるままにトモの祖母の横に並び、手鏡を持つ。
鏡の中には、自分の顔。
自分が首をかしげるのにあわせて、不機嫌そうに首をかしげている。
「ほら、みてごらん。
鏡の中に、みっちゃんがいるよ」
ナツはトモの祖母を見た。
何を言っているのかわからなかった。
鏡の中には、自分しか映っていない。見ればわかるじゃないか。
やっぱりからかわれているのだろうかとムッとする。
そんなナツに動じることなく、祖母はにっこりと微笑むと、ナツの横から鏡を覗き込んだ。
つられてナツも鏡の中に目をもどす。
そこには、自分の顔。
母に似てはいるが、母のような女性らしさも、華やかさもない、少年の顔しかない。
「おかあちゃんのことを、思い出してごらん」
今までに何度も思い浮かべていた。
ずっと会いたかった。
笑った母。舞っている母。
力なくアスファルトに横たわった母。
すぐに思い浮かべることができた。
「鏡の中に、あなたのおかあちゃんがいる。呼んでごらん」
そんな。でも、もしかしたら。
そんなことあるわけないとわかっている。
でも、この人の声を聞いていると、本当に聞こえてくるのだ。
ありえないとわかっている。
でも、一度だけ。
一度だけなら、試してみてもいいかもしれない。
「…おかあちゃん」
呼びかけると、不思議なことがおきた。
鏡の中の自分の顔が、一瞬母に見えた。
母が、自分に向けて笑っていた。
何が起きたのかわからなかった。
何が起きたのか信じられなかった。
一瞬。
たった一瞬だが、確かに母が見えた。
幼い頃のように、自分に微笑んでくれていた。
ナツの変化がわかったトモの祖母は、そんなナツにやさしいまなざしを向け、静かに語りはじめた。
「あなたのおかあちゃんは、あなたの中にずっといる。
あなたの血の、記憶の、気持ちの中に、ずっといるよ」
だから。トモの祖母は一緒に鏡を見ながら続けた。
「会いたくなったら、いつでも鏡を見ればいい。
あなたの中のおかあちゃんに、いつでも話しかけたらいい。
きっとあなたがそれだけみっちゃんにそっくりなのは、鏡越しに会うためだから」
そうなのだろうか。
この人の声を聞いていると、そうかもしれないと思えてくる。
「ためたらだめよ。
いいことも、つらいことも、何でも吐き出さないと苦しいばっかり。
会いたいって言えばいい。
寂しいって言えばいい。
いっぱい泣いて、吐き出して、そうしたら」
ナツは鏡から目が離せない。
トモの祖母は鏡ごしにナツを見つめる。
「楽しかったことを話しておあげ。
うれしかったことを話しておあげ。
一緒に過ごした時間のことを、幸せだった時間のことを」
トモの祖母は優しくナツの背を撫でる。
なぐさめるように。
励ますように。
「あなたが元気で笑っていないと、鏡の中のおかあちゃんも元気がなくなってしまうわよ?」
その言葉に、やっと鏡から視線を外しトモの祖母を見る。
ホントよ? とでも言うようにひとつうなずくトモの祖母。
そのまままた話しはじめた。
「みっちゃんは明るい子よ。にこにこ、お日様みたいな子。
あなた、おんなじように笑ってごらんなさい」
うながされ、再び鏡を見る。
にっこりと笑ってみたつもりだが、ぎこちない顔にしかならなかった。
母の花咲くような笑顔には到底およばない。
それでも、鏡の奥で母が笑ったように見えた。
「…おかあちゃん…」
その時、トモの祖父が戻ってきた。
「あったよサトさん」
時間がかかってすまないね。と、祖母に一枚の写真を手渡す。
「この子じゃないかな」
その写真を見た途端、ナツは目が釘付けになった。
母だった。
間違いない。
今の自分よりも幼い母が、トモの祖母と並んで写っている。
こぼれる笑顔は記憶にあるものと変わらない。
「…おかあちゃん…」
声に出して呼んでも、答えは返ってこない。
それでも、呼びかけずにはいられなかった。
「おかあちゃん、おかあちゃん」
ぼろぼろとこぼれる涙に気付いていないのか、何度も写真の笑顔に呼びかける。
「…よく、がんばったね。なっちゃん」
トモの祖母の言葉に、ずっとおさえていたナツの気持ちがあふれ出した。
「う…うぅ…、うわああぁぁぁぁぁん!」
顔をあげ、幼子のように大声をあげて泣き出した。
わああぁん、わああぁん、と、涙もそのままに泣き叫ぶ。
「なっちゃん、いい子ね。よくがんばったね」
優しくつむがれる言葉にさらに泣き叫ぶ。
そのうち老婆の小さな膝に顔をうずめて泣き続けた。
トモの祖母は「いい子ね」「がんばったね」と、ナツの頭を撫でていた。
ナツが少し落ち着いたところで、祖母はナツを膝から起こし、顔を拭いてやる。
「さあさ、少しずつでいいから食べなさい。しっかり食べないと、力が出ないよ」
ぐずぐずと鼻をすすりながらうなずくナツの口にごはんを入れてやる。
雛鳥のように口を開けて食べさせてもらいながら、ナツはまた泣いた。
次話は明日12時投稿予定です




